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令和6年3月の入選句(兼題:「春惜しむ」、「春潮(春の波)」、「蝌蚪(お玉杓子)」)
<特選> 3句
癌患者として闘病先の病院の窓から行く春を惜しんでいます。すこし切ない句ですが、からりと詠んでいるのがよいです。
<墨汁の流れたるにや蝌蚪の群れ>
生まれたばかりの蝌蚪は真っ黒で、しかもたくさんが一か所に固まって水底に沈んでいますので、まさに墨汁を底に流し込んだ様です。
群を抜け泳ぎ出した蝌蚪です。小さな蝌蚪の中に大海を目指すような大志を抱いているのがいるかも知れないと思うと楽しいです。
<その他の入選> 22句
<隅田川また橋くぐり春惜しむ>
水上バスに乗り隅田川の春を惜しんでいます。途中に潜る幾つもの橋を数えるのも楽しそうです。
<病窓に過行く春を惜しみけり>
この句も入院先の病室から窓の外の過ぎて行く春を惜しんでいます。早くよくなってくださいと祈らずにおれません。
<春潮と聞かば鳴門の渦思ふ>
春潮の干満の差により起こる渦潮のことでしょう。「春潮」という言葉を今聞いていて、あの鳴門の渦潮を思い出しているのでしたら「聞けば」になります。
「蝌蚪の紐」は寒天質に包まれた蟇(ヒキガエル)の卵の並んだ紐状のものです。紐の中の卵が蝌蚪になる頃、胎動にも似た揺れがあるのかも知れません。
<里山の小池ぎっしり蟇の蝌蚪>
春先に、里山の小さな池を目指して山中の蟇が集まり産卵します。それがみな孵化しオタマジャクシ(蝌蚪)になれば小池が蝌蚪で黒々となりましょう。
<老いてゆく視力重なり春惜しむ>
高齢化に伴う目の衰えは致し方ありませんが、そんな自分の目をいとおしみつつ春を惜しんでいます。
鉄塔から鉄塔へ送電の為の電線が走ります。途中たるんでいる様子が山をゆったり越えてゆくように見え、春の空の景色と合う感じです。
<春の波ゆったり光を返しけり>
海の波でしょうか。ゆったり返すが春らしく感じます。語順を入れ替え最後に「春の波」を持ってきた方が印象が強くなります。
どのような場面かわかりませんが、再会の約束をしているのですから何か未来がありそうに思います。行ってしまう春を惜しむ心に通ずるところがありそうです。
藍色に膨れた潮がひたひたと波止に寄せてきているのをご覧になっているのでしょ
う。春らしい明るさを感じます。
オタマジャクシの尾は泳ぐためのものなのですね。改めて認識しました。忙しく尾を振らなければ泳げないのです。
蛙が生息できる環境も都会ではとみに減っています。そんな中で都会の池の片隅に蝌蚪を見るのは嬉しいことです。
「金継ぎ」をしたワイングラスはさぞ高級なものか、思い出の深いものなのでしょう。そんなグラスにワインを注ぎ、心行くまで楽しまれているのでしょう。
<春遅し標本木も杖ついて>
標本木は、気象庁が開花宣言を出す目安になる木ですが、梅、それとも桜でしょうか。その標本木に杖とあります。春が遅いので待ちくたびれているというのでしょうか。多分、標本木として大切にされ支柱がされてあるのでしょう。
<石垣に初顔見せのすみれ草>
土のないような石垣の隙間にすみれの咲いているのを見つけた驚きです。「初顔見せ」があいまいですので、そこを省き石垣の隙間に出会った感動に絞ります。
この句の「ホームベース」は、野球で本塁に置く五角形のあのホームベースですか。あるいは、自分の居心地がよい処という意味でしょうか。この句からだけでは不明ですが、「惜春」から居心地の良い自分の場所と解釈しました。
会社の駐車場かも知れません。いつも直行する駐車場に今日はわざわざ遠回りして春を惜しんだというのです。
<石垣に初顔見せのすみれ草>
土のないような石垣の隙間にすみれの咲いているのを見つけた驚きです。「初顔見せ」があいまいですので、そこを省き石垣の隙間に出会った感動に絞ります。
この句の「ホームベース」は、野球で本塁に置く五角形のあのホームベースですか。あるいは、自分の居心地がよい処という意味でしょうか。この句からだけでは不明ですが、「惜春」から居心地の良い自分の場所と解釈しました。
会社の駐車場かも知れません。いつも直行する駐車場に今日はわざわざ遠回りして春を惜しんだというのです。
復興の遅れている震災地がお気の毒です。そんな「なゐの町」にも自然はめぐり白木蓮が咲きました。まるで希望の灯のように。
春潮にもまれもまれて漂着した木なのでしょう。角が取れ丸みを帯びているのも宜なるかなです。
以上
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