中51回(1949年卒)の広場
青山敦夫
(1/27/2007)
コメント: 昨年(2006)の総会が終わって、しばらして、服部 登君から添付つきでメールが舞い込みました。
 なんと、開いてみたら、昭和19年4月入学の1年生の学籍簿ではありませんか。甲、乙、丙、丁の4組で総人数216名。各組、級長がトップ、末尾が副級長、あとは、身長順という説と入学時の成績順という説がありますが不明、とにかく、アイウエオ順でも、ABC順でもなく、懐かしい名前がギッシリつまっておりました。

 懐かしいはずです。なにしろ63年ぶりですから。
 ええっ、
という方のために、服部君は丙組の級長、ご存知の方が多いはずですが、石川耕春君が丁組の級長。
 かくいう私は、服部と三島国民学校で一緒ではありましたが、丁組の34番でした。
 それにしても、入手経路を知りたいものです。戦災でわれわれが剣道や柔道で絞られた武道場が焼け落ちたことは覚えていますが、あの時、事務室は無事だったのでしょうか。

 それにしても氏名というのは不思議なもので、じっと見ていると、60年前がよみがえってきます。
 
 入学式当日に、校庭隅の池に落ちたのがあいつだったとか、
コイツは汽車通だった、彼は自転車で来ていたとか。
 さらに、校庭にサツマイモを植えているとき、軍事教官のグイチさんにサーベルでヒドクこづかれたやつとか、数学のQさんに計算尺で絞られたときのこととか、際限がありません。
 
 やがて、われわれ1年生は、腕に「勤労報国」の腕章をまいて、美合の日清紡の飛行機工場に通うようになります。
 そして、アメリカ戦闘機による機銃掃射、B29による空襲。
 敗戦のときは、女学生と向かい合って「海ゆかば」を涙ながらに合唱して工場とバイバイしました。

 学校に戻って最初にやったことは、軍隊が出て行った校舎と校庭の整理でした。戦争末期に陸軍の部隊がいたのです。
 
 そして、昭和23年でしたか、併設中学とやらができて女学生が入ってきました。セーラー服がまぶしかったものです。
 筒山さんが野球部の監督になって張り切りだして、強くなり出しました。なんせ、甲子園に行ったのですから。私も岡崎公園のグラウンドに応援に行きました。
 そうでした。毎朝、六所神社のあたりで出会い、心ひそかに好きだった彼女がゲーム開始を待つ間、英語の単語帳を見ていて、顔もあげてくれなかったことはいまでもおぼえています。
 何年か前、還暦の招待同窓会で行ったとき、彼女の記憶につながるあの通学路をバスが走っていて驚いたものです。  

同期の広場の入り口へ