雲一つない空色の天空、水面には小さな白波が所々に立ってはいるものの、穏やかに広がる藍色の海。そして見渡す限り一巡り360度、切れ目無い一本の水平線が この二つの世界を隔てている!降り注ぐまぶしい夏の太陽の下、私の乗っている貨物船は遥か水平線の彼方にまで真っ直ぐな航跡を引きながら、ひたすら地中海を北上している。
右舷遠く水平線に島影が見えはじめた。チュニスを出発して既に8時間は経っているだろうか。この航路にある島といったらイタリア領サルディニア島に違いない。しかし誰かに尋ねようにも、グングングンとうるさいエンジンの音以外船内には物音がしない。朝の9時なのにまだ皆眠っているようだ。船員達は全員ムスリムでラマダンのこの時期、朝が遅い。
2012年8月、Bamboo Orchestraはチュニジアのハマメ(Hammamet)市の国際フェスティバルに招待された。7月、8月の二ヶ月間に渡って、チュニジア文化省が後援する大掛かりなフェスティバルは、カルタゴ、メディナ(双方チュニス市内)とハマメ市の三ヶ所で、世界中から毎週入れ替わり立ち代わり様々なグループが100組近くも参加する。私は昨日コンサートを無事に終え、今は帰国の途。うちの小型トラックと共に貨物船に乗り、チュニスからマルセイユの港に向かっている。
<ハマメ国際フェスティバルのポスター>
■楽器輸送
4月のロシア公演の折にも触れたが、楽器の輸送には毎回頭を悩まされる。
8年前、前回チュニジア公演時には飛行機のカーゴ便を使った。
旅客機の手荷物スペースには、竹楽器を分解して収納した1メートル四方の木箱数個、合計700kgは受け入れてもらえず、演奏者と同じフライトでの運搬は無理。
マルセイユ、チュニス間には毎日何便もの旅客便があるけれど、カーゴ便はパリから週一二便しか無い。
そこで、楽器だけ一週間以上も前にパリまで陸路運びカーゴ便に乗せるという大変な手間を費やした。
チュニスはマルセイユから地中海を挟んで目と鼻の先。
それなのに膨大な経費を掛けてチュニスとは逆方向、パリを迂回して運搬するというのは大いなる無駄に思えたのだ。
当時、国内公演では毎回レンタカーを利用していたが、レンタカー会社はトラックが国境を越える事を許可しなかった。幸い今ではトラックは自前。分解した楽器をどんどん荷台に放り込み、フェリーでトラックごと運んでしまえば一丁あがり!
税関通過の為のATAカルネ・リストだけは作成しなければならないにしろ、フランス国内やヨーロッパでの公演同様、荷造りの手間が省ける、、、と考えたわけだ。
ところがどっこい、とんでもなく手間のかかる手続きと、快適という言葉からは程遠い船旅が待っていた!
■貨物船の旅
人々が普通に車で船旅をする様に、軽トラックも旅客フェリーに乗せて貰えるのだと思っていた。うちのトラックはルノー社の「トラフィック」というキャミオネット(camionnette)。確かに形状はトラックだが、ちょっと大きめの乗用車、小型キャンピングカー程度の大きさで、車種の分類も乗用車扱い。ところが問題は中身。キャンピングカーなら、なべ釜家財道具一式で目的は観光。しかしBamboo Orchestraの場合観光ではなく、仕事。つまり、トラックの中身の楽器を現地で売るわけではないけれど、この楽器を使って金を稼ぐ、、、つまり商売を目的に商品を輸送している扱いになり、普通のフェリーではなく「カーゴ」つまり貨物船にしか乗せてもらえないという事が判明した。もちろんATAカルネも作らねばならず、事務的な手間としては全く変わらない。分解した楽器を各木箱に丁寧に詰める手間が省けた、という違いだけだった。その上、トラック運転手を追加で雇う経費を上乗せしていなかったから、結局他の演奏メンバーは飛行機移動、私だけがトラックを運転し、30時間もの船旅をしなければならない羽目となった。
船旅といえば、ビルディングの様な大きなクルーザー船(先日イタリアで座礁した様な)で地中海やエーゲ海を回遊する風景を想像するだろう。船には幾つものプール、映画館、劇場、レストラン、バー、カジノ等の娯楽施設が整い、暇を持て余す事はない。各寄港地で下船してのんびり観光する、2〜3週間に及ぶ贅沢な優雅なひと時。
ところが貨物船の旅は全く違う。娯楽施設は何もない。個室以外には運転手達の為の専用食堂兼休憩室があるだけ。ドドドドとエンジン音はひっきりなしに耳と体に響き、小さなデッキに出て太陽を浴びようと思っても、煙突から出る黒い煙からは重油を燃やした匂いがあたりを充満し、脇には大きなゴミ箱が並んでいてゴミの匂いが鼻をつく。デッキチェアーもなければ何もない。、、、
帰国の船旅の場面から書き出したけれど、この貨物船による苦難の地中海往復航海はマルセイユを出港するところから始まった。
<貨物船アミルカー号>
<船倉の我が小型トラック>
<地中海クルーズ船>
■ラマダン
船内ドライバー専用食堂のテーブル。私の隣でディネ(晩飯)を頬張っているのは金髪のアイルランド人運転手。向かいのテーブルではもう一人アラブ人運転手がテ−ブルに食事を並べ、窓越しにそわそわと沈む夕日を眺めている。最後の太陽光線が水平線に消えるのを確認すると、安心してやおらグラスにミルクを注ぎ始めた。
今はラマダン、断食月。私の乗った貨物船アミルカー号(Amilcar)はチュニジア船籍。船員は全員ムスリムだ。しかし、異教徒の私とアイルランド人運転手は別扱い、昼食も二人だけには特別に用意された。給仕を担当する船員はテーブルで待っている私たちに食事を運んで来てくれるけれど、本人は日中水も食事も我慢しているから、なるべく運んで来る食べ物を見ない様に目線を逸らしている。その様な仕種で提供される料理を嬉々として食べる気になれるだろうか?食事は与えられるけれどあまり食欲は湧かない。食事と一緒にワインを飲みたいと思っても、もちろんアルコール類は船に積んでいない。
カーゴ船の荷物は満載ではなかった。二階建ての上の階にはコンテナが何十となく平積みされているが、下の階、私がトラックを停めた階は半分以上のスペースがガランとしている。船員達に聞いてみると、ラマダン時期は貿易関係業者も仕事を休んでいるので荷物が少ない、ということらしい。一方、同船したアイルランド人運転手は、何と大型トラック一杯の羊の肉をアイルランドからチュニジアに運んでいるのだという。この時期、アラブ諸国で羊肉の消費が格段に増えるのだと知った。
断食。私たち日本人は断食といえば仏教徒の断食を想像する。数日間何も食べずに瞑想にふける。比叡山延暦寺の千日回峰行では、生命の危険も伴う極限の断食をするとも聞いている。しかしムスリムの断食はこれとは違う。
私も回教の掟について詳しいわけではないが、ラマダン期間は、昼間太陽が出ている間は食事をしない、水も飲まない。しかし太陽が沈むやいなや食事をする。そして太陽が出ると日中の我慢が始まる、、、という日々を一ヶ月あまり続ける。昼間食事をしないと力も出ないだろうから、いわゆる肉体労働者達は大変だろうなあ、と同情してしまうけれど、何の事はない。その期間はあまり働かない、、、というわけで、働く事を是とする日本人とは根本的に考え方が違う。
ちなみに、件のアラブ人運転手に
「何で昼間食事をしないの?」と、極めて素朴な質問を投げかけた。
「???ラマダンだから、、、神が決めたからだ」と答える。
私はしつこく、「一体なんで神がそう決めたのだと思う?」と意地悪な質問をした。、、、彼はしばらく考えて答えを探した。
「時々胃を空っぽにする事は健康に良い」そして「世の中では食べるものがなく飢餓で死ぬ人もいる。その人たちに思いを寄せる為にラマダンをするのだ」
「だったら、仏教徒の様に数日続けたらどうなの?」
「それは体に良くない。例えば病人はラマダンをしない」
「それに私の様に旅をしている時はラマダンをしなくても良いという決まりがある。、、、でも私は実行している」
やはり回教徒の考えを理解するのに私は限界を感じた。そもそも、一つの宗教を信じ戒律を守るという行為が、私には理解できない。それはさて置き、、、
■チュニスの港で
カーゴ船は翌日午後、日差しが少し傾きかけた3時頃無事にチュニスの港に入り、コンテナが山積みになった桟橋に接岸した。桟橋では大きなクレーンが隣の桟橋のカーゴ船からコンテナを釣り下ろし、下で待っているコンテナ専用の巨大フォークリフトに渡し、フォークリフトは次々にやって来るコンテナ専用トラックに積むといった流れ作業が船の上から眺めている私の眼下に広がっている。しばらくしてアイルランド運転手が下船準備にトラックに向かおうと誘うので、私も私物のトランクを抱えて狭くて急なはしご段を何段にも渡って降り、船倉のトラックに向かった。
後部ハッチは既に開いており、すぐに私はトラックをバックさせ下船する態勢に入った。すると出口で私に手を振って静止を求める人が居る。
「私は文化省の外交担当官で、貴方を3時間も待っていたんだよ、すぐに警察署で入国手続きをしよう」と、助手席に乗り込んで来た。私は初対面で些か面食らったが、港には文化省の人も待機してくれているだろう、、、という情報を事前に得ていたから、彼を乗せて桟橋脇の警察署にトラックを着けた。
「パスポートを出してくれ」とトラックから降りながら担当官モハメッドはいきなり私に要求した。警察で入国手続きをするのにパスポートが必要なのは判るけれど、パスポートは船長が保管していて、私の手元には無い。マルセイユで乗船する時「船旅中は船長がパスポートを保管する決まりになっている、下船の時に船長から受け取る様に」と聞かされていた。しかし下船の何時、どの様な状況で渡してくれるのか等、詳細は何も知らされていなかった。「何でパスポートを携帯していないんだ!」と私を咎める様に詰問して来たモハメッドに事情を説明し20分ほど待っていると、船員の係員が私たち3人のトラック運ちゃんのパスポートを持って警察署に現れた。やれやれパスポートは無事だった!
モハメッドはアラブ語で書かれた入国書類にさっさと書き込み、警察署を後にした。それにしても暑い。サハラ砂漠南のブルキナファソ程でなく我慢できる程度の暑さではあるが、マルセイユに比べると格段に暑い。今度はトラック荷物の入国審査、少し離れた税関に出向いた。
税関には、青い税関吏の制服を着た若者が一人ぽつんとカウンターの向こうにいた。モハメッドが一生懸命説明しているのだけれど話が空転しているようだ。アラブ語だから内容は全く判らないが、話が一向に進展していない事は雰囲気で判る。ようやく、警察署の裏に置いて来たトラックに行って税関吏が中身を一瞥する、、、という段取りになり、三人で出口まで来た。ところがそこで税関吏が携帯電話を取り出し誰かと話を始めた。モハメッドは私に、
「ちょっと待って、いま彼は上司と話をつけているから」
、、、それからかれこれ30分待たされた。
モハメッドはまたその若い税関吏と激しく言い争っている。
、、、また待たされた。
ようやくモハメッドが私に打ち明けた。
「今日は日曜日だから、書類に押す許可印が手元に無いんだと、、、」
上司は下っ端役人を事務所番として派遣しておきながら、肝心の許可印を渡していないのだ。でも、どうやらその許可印をボスが持って来る気配がないから、手続きは出来ない、という。税関事務所で1時間以上も待たされた挙げ句、今日はトラックを港から出せないという事が判明した。文化省の役人が付き添って交渉してこの始末だ。
諦めて税関の建物を出、車に戻ると
「あいつはくずだ。働く気が全く無い!」
とモハメッドが吐き捨てた。「ラマダンでも働いているのは、私たち文化省の役人だけだよ、この国では」と自嘲した。
日差しを避け、トラックを屋根のある場所に移動し、モハメッドは私をホテルまで送ってくれた。
■翌日また港へ
律儀なモハメッドは朝早く私をホテルに迎えに来、二人で港へと向かった。朝8時だというのに既に熱気を帯びた風が窓から容赦なく吹き込む。彼が使っているルノー「カングー」は文化省の車だけれど、冷房が付いていない。
港に着くとまず税関の建物に入った。今日は平日月曜日だから、ロビーは手続きに訪れた多くの人で溢れ、青い制服の税関吏も沢山いた。沢山「働いていた」というより、沢山「いた」というのが正直な印象。モハメッドが窓口の税関吏にATAカルネの書類を呈示して説明しているが、また話が進まない様子。彼は私を連れて出口に向かった。「コネッスモン(connaissement/船荷証券)の書類はあるか?」と私に聞く。この専門用語の書類は既にマルセイユで運送業者(Transitaire)の担当者モイーズから下船の時に受け取る様にと聞かされていたが、そういえば船長も船会社も下船時に渡してくれなかった。その書類を探しに今度はコトゥナヴ船会社の建物に向かった。
窓口の年配の女性係員相手にモハメッドがしばらくすったもんだしている。私は彼の後ろで事の進展を眺めていると、隣の窓口から私を手招きする男がいる。しかしアラブ語は判らないから、「前にいる彼と一緒にこっちの窓口で交渉している最中だから大丈夫、私に声を掛けてくれなくてもいいよ!」と、私はモハメッドと自分を交互に指差して丁寧に断るジェスチャーをした。ところが彼はガラスの向こうで茶封筒を指差しながら私に執拗に話しかけてくる。私は隣の窓口に近寄った。よく見るとそれは私の名前が書かれた茶封筒だ。恐らくこれが私とモハメッドが探している件のコネッスモンだと直感したから、モハメッドを呼んだ。モハメッドは極めてまじめな男だが、機転が利かない。やっと彼は状況を把握して隣の窓口に来た。そしてコネッスモン書類を受け取ると、今度は私のパスポートと車検証をコピーする為に別の部屋に赴いた。そこで、今度は別の担当者と言い合いが始まった。また何か別の問題が生じた事は判るが、割り込むわけにはいかないからまた後ろで見守っていた。モハメッドは私を連れてロビーに出た。
「コネッスモン書類の荷物受取人欄に、貴方の名前が書かれている。本来なら『チュニジア文化省ハマメ・フェスティバル』と書かれていなければならない欄に!これは書類を作ったマルセイユの運送業者のミスで、受取人が私の個人名になっていては、フェスティバルに参加する為に楽器を運搬した事にならない。すぐに訂正した書類をこの船会社に送る様、マルセイユの運送業者に言ってくれ」と私に言う。
「コトゥナヴと運送業者はいつも仕事をしているのだから、船会社から直接運送業者に訂正書類を送る様に頼めないの?」
「このミスはマルセイユの運送業者の責任であって船会社の責任ではないから、船会社は何もしない。貴方が直接マルセイユの運送業者に訂正を依頼するしかない」というのだ。
そこで、マルセイユにいる妻のナディンヌに携帯電話のSMSで事情を説明し、件の運送業者に掛け合う様に、、、と送った。
幸いこれはすぐに連絡が付き、数分のうちに訂正メールがチュニスの船会社の事務所に届いた。モハメッドはロビーで待っていた私に、「良かった話はついた」といい残して又別のオフィスに出掛けて行った。私はロビーで待つ事また2〜30分。モハメッドは戻って来るなり、
「これから文化省のオフィスに行こう」、、、と私を車に促した。何でここで急に文化省に出掛けなければならないのか?全く理解できなかったが、私は質問をせず彼に従った。文化省の建物は、港から車を飛ばして約25分。すべての官庁が集まっているチュニスの西地区カスバにあった。既に10時を回っている。移動中の車の中で、何故文化庁に行く必要があるの?と 質問すると、
「フェスティバルが貴方とトラックの船賃をまだ払っていない。船賃は当然既に支払済と思っていたが。だから打開策として緊急に文化省が直接払う事にし、文化省の印を押した書類を取りに行かなければならないのだ」
本来フェスティバルが支払う段取りになっていたのに、急に文化省が直接出費しなければならないとなると、文化省の経理担当者に事情を説明して納得させなければならない。文化省のオフィスのあっちこっちの部屋を尋ね回り、ようやく文化省が支払うという確約書類を作成し、印を携えて又港に向かった。文化省で40分、港と文化省との往復に50分、合計一時間半が経過した。
ところが、船会社に戻ってまた一悶着。文化省は他の件でこの船会社を利用した際に未払いがある。だから、今度も支払うという確約書類を持って来たからといってOKするわけにはいかない、と撥ねられたのだ。ここでモハメッドは担当者とまた言い合いになった。、、、
これ以上の詳しい説明は省く。トラック全体をスキャンする為に巨大なトラックスキャナー場まで行ったり、コンテナを積み降ろしする巨大なフォークリフトや、大型コンテナを搭載したトラックが猛スピードで縦横無尽に行き来する隙間をかいくぐり我がトラックを走らせ、数々の書類を揃える為に港の施設内を右往左往。猛暑の炎天下の港で手続きが終わったのが何と昼の3時!楽器を積んだトラックを港から外に出す為だけに二日間、延べ10時間以上も費やした!
■ジャスミン革命
チュニジアといえば、昨年アラブの春の火付け役になった国。32年間に渡って独裁を続けたベンアリ一族を民衆の蜂起で追い出した画期的な革命があった国だ。
私は道すがらモハメッドに、「あれ以来この国は変わったのですか?」と質問すると
「蚊が増えた位かな?、、、」と謎を掛けて来た。
新しい政府にはなったけれど、経験不足な者ばかりで、蚊の様にブンブン飛び回っているだけであまりはかばかしくない、、、と、どうやらそんな意味らしい。
「ベンアリ時代の方が政治はスムースに行っていたね」
「え、そう?」
「だけどベンアリ一族は大泥棒だったから、追い払えて清々したよ」
通り道にあった巨大な美しい高層ビルは、ベンアリの娘婿の所有だった銀行で、今では政府が管理しているとか。ホテル近くの曲がり角にあった工事半ばの大きな民家を指差して、これはベンアリの女房の兄の持ち物だったけど、差し押さえられてこの通りほったらかしさ、、、と笑った。
アラブの革命は、決して民主主義や自由というヨーロッパ的価値観を求めてもたらされているわけではない。そこが非常に難解なところだ。チュニジアでの革命は、 高い失業率に憤る若者が中心となったデモから、ついに富を独占していたベンアリ政権を倒し一族を追放した。しかし、民衆は新政権にどの様な政策を期待しているのだろうか? そこが極めて曖昧である。ベンアリはむしろイスラム主義を弾圧しヨーロッパ流の自由主義を推進していたから、政権時代に弾圧されたイスラム主義が復活する傾向にある。政権が弱いと、今度は軍部によるクーデターが起こるかもしれない。
「 フェスティバルのプログラムを見れば判るだろうが、今年のフェスティバルの半数以上の出演者がアラブ世界からだ。この右傾化はイスラム主義の復興を意味している。これからまた何が起こるか人々は不安で落ち着かず、人間関係が刺々しくなっている。来年には総選挙があるが、それまではこの不安定状態が続くだろう、、、」
文化省で働き、インテリと思われるモハメッドは、冷静にそうつぶやいた。
<ベンアリの娘婿の銀行だった>
■コンサート
ハマメ市のコンサート会場は、ローマ式劇場を模して野外に作られたコンクリート製の円形劇場で、Bamboo Orchestraにとっては申し分なかった。多くのフェスティバルでは、1〜1,5mの高さに仮設された舞台上で演奏し、聴衆は地面に位置するという設定が多い。ロックなどのコンサートで、シンガーが間口の広い舞台の上を行ったり来たり、飛んだり撥ねたりして聴衆を乗せる、、、にはこの様な舞台が相応しいかもしれない。しかしBamboo Orchestraの音楽はそういう種類の音楽ではない。まず視覚的に楽器群が聴衆からよく見渡せなければならない。つまり聴衆は演奏者より上に位置し、舞台全面に展開されている楽器群と演奏者の動き全てが視野に入って、初めてBamboo Orchestraの音楽の全体像が理解できる。だから、ローマ式円形劇場空間は、私たちのコンサートにとっては理想的な舞台と言える。
しかし、 実際には様々な条件が重なり、現場での準備は困難を極めた。
第一の理由は、日中は猛暑で現場には日陰が無いため、楽器のセッティングは陽が傾いた夕方遅くからしか出来ず、リハーサルの時間がほとんどとれなかった。その上陽が沈んでも30度近い気温で、急遽全ての楽器の調律を通常のA=440hzから何と444hzにまで引き上げなければならなかった。
第二の理由は、予算が限られていたため音響と照明を現地スタッフに任せたこと。もちろん現地スタッフは優秀だったけれど、初めて見る楽器と初めて聴く音楽世界を理解して対応してもらうには、時間があまりにも短かった。前日夜には別のグループのコンサートが朝の一時まで続き、それが終わるのを待ってからスタッフとの打ち合わせ。その後、太陽が昇る朝五時までの3時間で照明のセッティング、、、
それに、聴衆が少なかった事。千人を楽々収容できる観客席スペースに、たった200人程。これでは、演奏する側ももう一つ気が入らない。前回ロシア公演の様に、会場を埋め尽くした聴衆の溢れる熱気は期待できなかった。これはフェスティバル側の宣伝不足のせい。
以上の様に、私としては決して満足のいくコンサートとは言えなかったけれど、少ない聴衆のわりには手応えがあり、コンサート終了後の記者インタビューにも熱気がこもっていた。
インターネット新聞“AllAfrica”紙に幸い好意的な批評記事が出ていますので、日本語訳して掲載しておきます。(それにしても文学的表現の翻訳は難しい! )フランス語の判る方はぜひ原文を読んで頂くことを御勧めします。
http://fr.allafrica.com/stories/201208110674.html
チュニジア:ハマメでのバンブーオーケストラ
オリジナルで斬新
それはオリジナルで愉快なコンサートだった。世界的な文化の坩堝、マルセイユからやってきた彼らは、先週火曜日、ハマメの劇場の舞台で夏のひと夜を楽しませてくれた。
彼らは着物風黒ずくめの衣装をつけ、足は裸足。演奏者達は竹から引き出した革新的な音色をベースに、その夜、なんとも独特な音楽を聴衆に披露した。「ある日、彼らは竹に出会った」と題されたコンサートは、演劇的な演出と斬新なリズムによる曲構成で彩られていた。
様々な形と大きさによる竹製楽器の数々は、例えばマウイ(これは大きな竹筒)、そしてまたシズク(極小さな筒)、『竹マリンバ』(竹製のマリンバ )など。演奏者達はその夜のコンサートの間 、小さな楽器による優しい音色から、日本の伝統音楽、インド、アフリカ、中近東音楽を取り込み創作された打楽器の大音響まで、それらの楽器を縦横無尽に駆使した演奏は、多文化が共存した祭り空間を彷彿させた。
1994年に創設されたバンブーオーケストラ。このオーケストラの創設者、日本人ヤブキが私たちに伝えたいメッセージは、自然の素材で作られた楽器によるエレクトロアコースティックな音響という、一見迂回した方法を用いた芸術信念の探求を特徴としていた。
自然からのインスピレーション、様々な音楽ジャンルの混淆という音楽スタイルから、彼は芸術活動を通じて環境保護の必要性、また自然に対して人間が果たすべきより多くの役割があるのだということを、 聴衆に訴えたのである。
一つの斧を手に持ち、ヤブキは舞台上で竹を割って楽器を作って見せ、取るに足らない竹片からどのように彼の音楽世界が作り出せるか、と聴衆に披露して見せた。
一方聴衆は、音のバイブレーションと辺りを圧倒するエネルギーあふれる舞台に接し、竹製鍵盤楽器の演奏から、またこの植物が繊細な音色を醸し出す打楽器として変貌するのに立ち会うとき、 この素材、竹の音楽的可能性を明白に認識させられた。
演奏者達が手持ちの楽器を携え観客席の直中で演奏したとき、その音色は心地よく優しく響いた。
ヤブキが奏するフルートの高音の激しいリズム、また繊細に奏でられる低音は、太鼓の激しい音色とも見事に混じり合い溶け合い、全体としてハーモニーに満ちた曲想となってコンサートは続いていった。
様々な文化、文明の出会いを伴い、高度で色彩豊かなコンサートを通じてこのグループが私たちに喚起したのは、自然の直中への真なる旅。そして時折コミックな表現も交え、観客に「生きる」ということについての新しい視座を提起してくれた。
協力して練り上げられた仕事の成果 、言葉では言い尽くせない豊かなハーモニー(調和)は、聴衆を魅了しつくした。「残念な事に」聴衆は少なかったけれど。
H. SAYADI
<ハマメの円形劇場>
<舞台で楽器のセッティング>
P.S.
いやはや、大変な時期にチュニジアでのコンサートを引き受けたものだと今になって納得しています。
アラブ民主主義運動のサイトAssawraによれば、
http://www.assawra.info/spip.php?article681
チュニジアで8月中旬以降、イスラム原理主義者(Salafistes)達が、彼らの理念にそぐわない出演者のフェスティバルを妨害し始め、負傷者まで出ているようです。イランのシーア派系の神秘主義スーフィーのグループが出演する予定だったフェスティバルも、スンニ派原理主義者は冒涜と決めつけ中止に追い込まれた様です。また、この事態を警察は見て見ぬ振りをしている、、、とイスラム主義に傾いた政府の責任も追及しています。
どうやら私たちの公演の聴衆が少なかったのは、この微妙な時期にBamboo Orchestraのコンサートの宣伝をフェスティバル側はあえて控えたため?、、、無事に上演出来ただけでも運が良かったということでしょうか。
☆コンサート風景☆
以下の写真はAlexandra Azarova氏撮影
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