矢吹誠さんは現在フランスのマルセイユに在住(在仏20年。2013年現在)し、作曲家、演奏家、楽器創作家、Bamboo Orchestra de Marseille 主宰等々幅広く音楽活動を展開されています。
この度、縁あって段戸音楽会の皆さんとの交流が始まり、お願いをしてエッセーを寄稿していただくことになりました。

お読みになったご感想を、ぜひお送りください!
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フランス便り No.29   (2014/6寄稿)
夏も近づく、、、           矢吹 誠 (高22回)

豌豆と隠元

2月中旬から花が咲き実が成り始めたサヤエンドウは、わが家のバルコニーの鉢植、フリッシュの線路脇菜園共々豊作で、3月〜4月の二ヶ月間絹さや三昧の日々が続いた。 
サヤエンドウは私の大好きな野菜の一つでもあり、また簡単料理に向いている。中華鍋で炒め塩こしょうを振るだけ、あるいは最後に市販の焼きそばソースを掛ける、、、などシンプルに旬のおいしさを堪能できる。また私が一押しなのは卵とじ。これもレシピは至って簡単。筋を取った絹サヤを鍋に入れ、酒、砂糖、インスタント出汁、醤油少々で2〜3分煮、そこに溶き卵を加えて卵が固まるまで弱火でしばらく。この料理ともいえない料理もサヤエンドウのおいしさを満喫できる。
そしてサヤエンドウの季節は終り、今はサヤインゲンの花が咲いています。バルコニーの鉢植え莢隠元は、フリッシュの線路脇菜園に植えた株とは大違い、目まぐるしい勢いで成長。わが家が東南向きで日当りが良く、また土が培養土のせいでしょう。何しろ一枚の葉っぱの長さが何と15cm、手のひら以上の大きさなのです。薄緑色につやつやと輝く大きな葉、自然が作り出すシンメトリーな美しさに惚れ惚れと眺めていたけれど、何とこれが素人の浅はかさ、、、と知ったのはつい最近。インターネットで莢隠元栽培の記事を読んだら、葉が大きくなり成長が著しいのは栄養過多で通称「蔓ぼけ」、これでは後日実が沢山つかないのだと。つまり野菜栽培としては完全に失格らしい。ウーム、、、がこちらはアマチュア、葉を鑑賞するインゲン栽培があっても良いではないか!と開き直ろう。一方菜園に植えた15株の方は、成長が遅く植え付けを失敗したのかと心配していたけれど、逆にこちらの方が正解だったという結末。ところがまだ植えてから一週間もしない頃、葉っぱに次々と穴が空き始めた。芋虫にやられたのかと葉を裏返してみても誰もいない。不思議に思って隣人に訊ねれば、「そりゃ、ナメクジ(limace)だろう」。
宮沢賢治の「蜘蛛とナメクジと狸」では、カタツムリも食べてしまって大きくなったずる賢いナメクジがカエルにも相撲を仕掛けるが、土俵に撒かれた塩で体が溶けて死ぬという顛末。「ナメクジに塩」というのは子供の頃に聞いて知っているけれど、夜な夜な現れるナメクジ(昼間はのんきに昼寝をしている)を待ち伏せして塩を撒くわけにもいかない。友人の助言はビール戦術。ビールを浅い器に入れて置いておくと、夜中に匂いに誘われてナメクジがやって来てビールを飲み酔っぱらってそのままビールに溺れて死ぬのだという。初めての事なので「そんなにうまくいくのかいな?」と半信半疑。しかし翌日ビールのプールの中で、 何と30匹ものナメクジが溺れているではないか!こんなにビール好きとは知らなかった。
ところが、しばらく見ているとナメクジも賢い。溺れないで飲み逃げするやつがいる。酒に溺れて死ぬのは自業自得だから南無阿弥陀部で構わないけれど、かといって飲み逃げするナメクジを放置するわけにもいかない。可哀想だけど見つけ次第やっつけるしかない。これはちょっと心が痛むけれど、野菜を守る為には仕方がない。生物多様性を尊重し「人間の生活と自然との調和をはかる」というのがエコロジーの基本だけれど、やはり邪魔になる雑草は毟らなければならないし、害虫は駆除しないと野菜栽培は成り立たない。結局、ある程度人間のエゴを通さずには自然との共存も成り立たないのだという事にもあらためて気付かされる。


サヤインゲンの花



見事なサヤインゲンの葉

空豆
サヤエンドウとサヤインゲンだけでなく空豆や枝豆も育てたいけれど、何しろ菜園の区画は狭いから残念ながら今のところ無理である。空豆はフランス語でフェーヴ(fève)と言い、乾燥した硬い空豆が一月恒例のガトウ・ドュ・ロワ(Gateau de Roi)に入っていて、切り分けたお菓子の中でこれに当たった人は運が良いRoi(王様) というわけで、紙で作った金色の王冠を頭に乗せてもらえる風習があります。もちろんこの空豆は食べません。
5月、旬の時期には空豆を生で食べる人が多く、ただ皮を剥いた空豆をパンと一緒に食べます。これはレストランなんかには存在しない庶民の食べ方で、フランス人は青臭い生の空豆が好きな様です。日本では塩茹でが一般的でしょうが、私は焼き空豆をお勧めします。これも至って簡単レシピ。焼き編みの上に空豆をサヤごと乗せて焼くだけ。サヤが少し焦げ始めてちょっとしんなりしたらそれでOK! 熱々の空豆をサヤから出し皮を剥き塩を少々。莢ごと焼く事でアルミホイルの包み焼き同様蒸し焼き状態で味が濃縮されるという次第。莢の端っこを切り筋を取っておくと、焼いた後豆を取り出し易い。 枝豆と栗を足して二で割った感じの味といえば良いでしょうか?熱々状態をホクホク食べるとビールのツマミには最高、旬を味わう簡単で美味な調理方法です。

黒トマト
トマトは赤いものとてっきり思っていたけれど、黄色いトマトや黒いトマトがあると知ったのは、アントニーの無農薬野菜を共同購入し始めてからである。(フランス便りNo.11) 普通の赤いトマトでもスーパーで売っているトマトとは違って格段に美味しいのだが、黄色いトマトや黒い(赤黒い)トマトは甘みと酸味が見事に溶け合ってまるで果物の様に美味しい。今年は、ココペリで手に入れた「クリミア半島原産黒トマト」(Tomate Noir Crimée)の種を苗床に撒き大事に育て、フリッシュの菜園に10株、うちのバルコニーに4株と植えたから夏の収穫が楽しみである。もちろんここ数年恒例の、自家製堆肥から芽を出す無名トマトも11株菜園で元気に育っている。
「そんなに株間が狭くてはだめ、60cm間隔でないと!」とトマト栽培に詳しい友人が忠告するけれど、ネットで調べると植え付けの株間は通常40〜50cm間隔となっている。だったら30cm間隔でも行けるだろう、、、というのが私の独断的な判断。とにかく菜園の区画が狭いうえ育てた苗の数が多いから、苗を友人にお裾分けしてもかなりの数があり、とても50cmや60cm間隔で定植する余裕はない。何事も実験、うまく育たなかったら来年やり直せば良いだけの話である。


まだ緑色の黒トマト

ココペリ
昨年堆肥から芽を出し、大きな果実をたくさん実らせた無名カボチャ族も元をただせば、アントニーの有機栽培野菜二世の種である。ところがプロのアントニーは「カボチャは育つかもしれないけれど、メロンはハイブリッドだから、、、」と。案の定、メロンも幾つか成ったけれどほとんど味は駄目だった。有機栽培というのは全て自然に基づいた農法だと思い込んでいたけれど、「野菜や果物を生育する過程で農薬を使わない」というだけのことで、植物そのものは交配を重ねられた結果、(OGMの様に遺伝子組み換えではないけれど)食べた後に残った種を翌年植えても同じ果実が出来ない、、、という奇妙な話なのだ。これをハイブリッド種子(F1)と言うそうだ。多くの野菜や果物が良い意味では改良されて来ているのだろうけれど、農家は自家栽培した野菜や果物からの種を翌年植えるのではなく、毎年多くの種や苗を新たに業者から購入しなければならないシステムになっているとは驚きであった。
何とフランスでは、政府に登録された種以外は販売したり流通させたりしてはいけないという法律があるのだと。そして、それに対抗する「ココペリ」という運動がある事も知った。園芸店で売っているトマトの種を自分で撒いて育てれば、スーパーで売っているトマトとは段違いに美味しいトマトが収穫できる事は確かだけれど、その実ったトマトから種を取ってまた植えても決して同じトマトは収穫出来ない、、、って知っていました?
「ココペリ」は、南米インディオに伝わる豊穣を司る精霊の名前で、猫背で縦笛(ケーナ)を吹いている絵柄で象徴される。笛の音に誘われてコブラが立ち上がるのはインドの見せ物だが、笛の音(音楽)に誘われて植物が生長する、という発想も悪くない。現代でも畑の数カ所にスピーカーを立てて音楽を流して収穫を促進する農家もあると聞くから、まんざら単なる荒唐無稽な神話というわけでも無さそうだ。その精霊の名前を冠したココペリ運動は、フランス政府が決めた種子販売の不可思議な規制に対して意義を唱え、自然な形で草花を育て、また野菜や果物を収穫し自然と共生しようという、生物多様性(biodiversite)とエコロジーの一端を荷なう運動である。


ココペリのイメージ

プラタナス
完熟していない自家製堆肥から芽を出すのは、トマトやカボチャ等の野菜ばかりではない。レモンやみかん等の柑橘類の種まで芽を出してくる。そして木類は出てきた芽の顔つきが草類とは既に違う。双葉の葉っぱが少し厚目で茎もしっかりしていて、「俺は草とは違うからね、丁重に扱ってくれよ!」とまるで威厳を滲ませて主張しているかの様である。事程左様に今ベランダの植木鉢に育っている木の類は、レモン、みかん、アボカド、そしてプラタナス!
プラタナスは巨木。南仏の田舎に行くと、村の入口では必ずこのプラタナスの巨木が数十メートル、あるいは数百メートルも道の両側に並んで日陰を作り訪問者を迎えてくれる。その木漏れ日と透き通った葉が作り出す清々しい巨大な緑のトンネルを通った先に太陽に照り返した石作りの村が現れる、、、これぞ南仏風情の最たるもの。そのプラタナスの苗までうちのバルコニーには二本も生えているのだ!
これはさすがにうちの自家製堆肥からではなく、フリッシュの線路脇菜園の片隅から芽を出した。昨年は菜園一年生で全くの初心者だから、どれが雑草でどれが撒いた草花の種が発芽したものなのか見分ける事も出来なかった。他の菜園主が私の区画に生えている30cm程の木らしい植物に目を止めて「これはほっといてはだめ、プラタナスだよ!」と警告するではないか。よく眺めれば確かにプラタナスの葉だ。でもすぐ近くにプラタナスの木があるわけでもなく「何故我が菜園にプラタナスが生えるの?」と些か狐に摘まれた思いだったが、狭い共同菜園の片隅でプラタナスの巨木を育てるわけにはいかないのは歴然としている。昨年暮れその二本を引っこ抜き、でも枯らしてしまうのも可哀想と持って帰り植木鉢に植えた。毎年剪定を繰り返せばプラタナスの盆栽が可能かも?あるいはいずれ誰か広い庭のある人が養子にもらってくれるかもしれない、まあどうにかなるだろう。ワニやライオンを家庭で育てたら後始末に困るだろうが、植物は大きくなっても危険ではあるまい、その点楽観している。そして今度はマンゴーの登場。


プラタナスの並木



我が家のプラタナス

マンゴーの発芽
先日マンゴーを食べた後、結構大きいその種を植木鉢に埋めてみた。種というのは土に埋めておけば自ずと芽を出すに違いない、、、と、このところ至って楽観的な私は、種の硬い殻のまま植木鉢に植えて軽く土を掛けておいた。数週間待っても一向に芽が出て来る気配はない。何かが間違っていたのだろう?とインターネットで調べてみると、熱帯育ちだから発芽させるには温度確保が大切、3月の南仏ではまだまだ寒かったのだ。それに硬い殻に入ったままでは発芽しにくく、殻を取り除き中の種をとり出す必要があるとも知った。(二重の無知!)
私は種を包んでいる硬い殻を切開しにかかった。殻は結構堅く植木ばさみでもそう簡単ではない。格闘していたら、何と中から7〜8ミリもある大きなコクゾウムシが出てきた!私は全く予想もしなかった事態に仰天して種を取り落とした。マンゴーの果実自体はちゃんと熟していて美味しく食べられたのに、まさかその中心の硬い殻に包まれた種の中に虫が潜んでいるとは誰が予想するだろう?この虫は生産地(恐らくパキスタンか何処かの国だろうが)で実が大きくなる前に産みつけられ侵入し種の中で成長したのだろう。肝心の種の真ん中を大きくえぐって食べてしまっていた。これでは幾ら条件を整えても育たないだろうと半ば諦め、しかし「駄目もと」と綿に包んで水分を十分に与えシャーレの様な浅い皿に寝かせておいた。
発芽には温度が大切だと知ったから、昼間は太陽に当て十分に暖め、夜は室内に取り込む様にして半月程待った。時々綿を取り除いて種の様子を見ると、一部が薄緑色に変化してきている。光合成をしているということは生きている証拠、しめしめこれなら発芽する可能性がある!とまた一週間程待っていると、ついに根を出し芽をもたげて来た。種の中心部のほとんどを虫に食われてしまった種が芽を出す生命力に感動!
早速植木鉢に培養土を入れ、極小さな葉っぱを数枚付けた3cm程の芽を地上に出し、根と種を地中に埋めた。成長を期待しながら数日観察していたら、何と糸の様に細い葉っぱが脱落し始めた。ウ〜これは不味い!早速インターネット検索。どうやら種を地中に埋めてしまったのが敗因、種も光が必要なのだ。慌てて根だけを地中に残し種がほとんど地表に出る様に鉢の土を減らした。
出ていた芽は完全に萎れてしまったが、脇に新たな芽が立ち上がって来ているようだ。これで無事に成長するかどうかは定かではないが、種を地中に埋めたのは完全にドジだった事だけは確か。私は温帯育ちの日本人だから、種は地中に埋めるものとてっきり早合点したが、恐らく熱帯では種が地表に落ちたままスコールに打たれながら根は地中に潜り、方や芽は空に向かって立ち上がって行くのだろう、、、そんな絵柄が私には想像できなかった。悲しいかな想像力の欠如!
だが「自分の無知に気付く」こと、それがこんな楽しいと思えるのは何故だろう?歳を取ったせいだろうか?あるいは自然を相手にしているからだろうか?頭だけで納得する知識ではなく経験を通して学んだ手応えのある知識は、たかがマンゴーの種の育て方ですら何か不思議に自分が豊かになった気がするのだ。まあそれはさて置き、、、これで運が良ければうちのバルコニーにレモン、みかん、アボカド、プラタナスに続いて新たにマンゴーの木が加わる事になる。


虫食われマンゴーの種も根を出す



綿の中から顔を出したマンゴーの芽



葉が落下し始めたマンゴーの芽



種を地表に出したけれど手遅れかも

ベゴニア
ベゴニアは可憐な可愛い花だけれど、華奢でつかみ所がなく、またあまりにも月並みな花だから今までとりたてて興味は湧かなかった。それがひょっとしたきっかけでこの花も育てる事になってしまったのだ。3月の祖母の日(フランスには「母の日」だけでなく「祖母の日」まである)にたまたま妻とスーパーで買い物をしていて、そう言えば今日は祖母の日だねと話題になり、そんなら何か義理の母に(妻にとっては母、娘にとっては祖母)贈ろうと、草花コーナーを見渡し適当な鉢植えはないだろうかと探した。しかし既にほとんど売り切れてしまって残っているのはベゴニアだけ。しかしこのベゴニアは私が知っている普通のベゴニアとは違い、ボタンの様に八重になった大きな花を付け(と言っても直径4cm程だけれど)、葉も数倍に大きいから見た目は立派である。ベゴニアを買うのは気が進まないと躊躇しながらも、これからまた別の花屋を回って探すのも面倒と、結局そのベゴニアの鉢を贈る事にした。
ところが義理の母がベランダの日差しが強いところに出したものだから途端に葉焼けしてしまった。恐らく温室育ちで直射日光は初めてだったのだろう。こりゃ不味いと早々に室内に取り込み様子を見ていると、傷んでしまった株も少しずつ元気を取り戻してきた。やれやれと安心してこの花を眺めているうちに、そういえばわが線路脇菜園にもベゴニアを植えていた事をふと思い出した。
共同菜園が開幕した昨年の初夏、ポリポットに入ったまま捨て子の様に池の脇に一ヶ月近くも放置されていた。屋外の菜園に華奢なベゴニアは相応しくないのは誰の目にもあきらかで、持参した本人も恐らく処置に困ったのだろう、、、引き取り手もなく打ち捨てられている様子を哀れに思い、我が菜園の区画外だが線路との境目の溝脇にプランターをしつらえ、そこに植えておいた。しかし土は菜園の土だから硬くて養分も少なくベゴニアには全く向いていなかった。だからあまり成長する事もなく結局惨めな形で一年間も耐えていた。その事をふと思い出し、ほとんど土に埋もれる様に縮こまっていたベゴニアを掘り起こして持ち帰り、ガチガチに硬く固まった赤土をほぐし培養土に替えて四鉢に植え直した。どうやらベゴニアは強い南仏の直射日光に耐えられる花ではなく、室内の半日陰で過保護的に育てるのがこの花とっては相応しい様だ。みるみるこの四鉢も息を吹き返して花を付け始めた。
そして買った八重咲きベゴニアと都合6鉢にもなったベゴニアを眺めていたら、弱々しい華奢なベゴニアを床に直に並べておくよりも、少し持ち上げて台の上にでも置いた方が見栄えがするだろうと思いつき、専用のポディウム(ひな壇)を作る事にした。この程度の工作は私には手慣れたもの。アトリエの倉庫にある端材を組み合わせて6鉢を三角形に並べる台を作った。一つ一つの鉢は弱々しいけれど、今ではこのポディウムに毅然と並んだベゴニア軍団は、わが家の窓際の一角でそれなりの存在感を示している。


八重咲きの大きな花のベゴニア



ポディウムのベゴニア軍団



線路脇菜園は今年も元気



今年もカボチャ族は大繁殖



カボチャ族バターナッツ



カボチャ族ポチマロン



カボチャ族ミュスカ



昨年貧そうだったラベンダーも今年は

音楽の仕事も
最近の興味の中心はとりもなおさず植物栽培だから、今回は以上の様な細切れ話ばかりで恐縮です。、、、一方本業、音楽の仕事も少なからず続けています。
6月7日、件のブリニョル音楽学校のBamboo Orchestra科生徒達(前回フランス便りNo.28)、そしてブリニョル市の二つの小学校三クラスの生徒達合計70人程がコロンス村(Correns)でのフェスティバル”Joutes Musicales”のBamboo Orchestraコンサートに特別出演しました。聴衆の大きな拍手を受け、これにて4ヶ月半に渡った子供達を指導する仕事も一段落です。

http://www.youtube.com/watch?v=BMJSUoAMq1g&feature=em-share_video_user
丁度6月のこの時期、いくつかの学校で教えている授業の発表会が軒並み続き、7月に入れば全て終わり晴れてバカンスに突入。今年の夏はあまり仕事が入っていなので少しのんびりできそうです。ところが8月にはフランス中部オートロワール県のシャンボン・スル・リニョンで開催される詩文学フェスティバル“Lecture sous l'Arbre”(フランス便りNo.22)から再度演奏依頼があり出掛ける予定。詩集の活版印刷にあくまでも拘り、山の中で儲からない出版社を経営し、またフェスティバルを主宰している盟友ジャン=フランソワに再会です。私同様、彼も時代の潮流から完全に逸脱した五月革命世代の生き残りと言えるでしょう。


フランス便り No.28   (2014/2寄稿)
フランスの音楽学校にBamboo Orchestra科誕生         矢吹 誠 (高22回)

「生徒達が気軽に参加できる合奏形式を探していたのです、、、」とブリニョル音楽芸術学校(E.I.M.A.D)の校長は切り出した。

「ガムラン(インドネシアの伝統音楽)やバトゥカダ(ブラジルのサンバ行進)も試してみました。しかし、なにかもっと斬新でオリジナルな音楽表現は無いだろうか?と探した末、ついにBamboo Orchestraに辿り着きました。学校の一室に貴方の創作竹打楽器群を常備し、Bamboo Orchestra科を創設したいのです!」

夢を見ているのだろうか? しばらくの間、私は自分の耳を疑った。

夢の実現

現在私が活動しでいるフランスでは、国内や海外でのコンサートと平行して数多くの小中学校で竹楽器合奏を指導してきた。また数年前には、トゥーロン市のコンセルヴァトワール(国立音楽院)の450人の生徒達を率い、当市のオペラ劇場で上演した竹楽器群と西欧楽器オーケストラと合唱による「竹オペラhaiku-HAIKU」という作品も高い評価を得た。しかし今まで実施して来た音楽教育活動は、幾ら評判が良くても一つのクラスを数ヶ月間、長くても数年間と期限が限られていた。ところが今回の申し出は、竹打楽器群を恒常的に学内に設置し、私が開発した合奏メソッドを丸ごと授業として取り入れたいという意向。つまり私が30年間開発して来た竹音楽が、フランスのアカデミックな音楽教育現場で正規の授業として受け入れられたのです。

 Bamboo Orchestraという創作竹打楽器アンサンブルを始めてから既に二十数年。また「竹マリンバ」という鍵盤打楽器を創作したのは遡る事1980年だから、既に33年の歳月が流れた事になる。苦節30数年?手前味噌も承知で言えば、これは「快挙」ではありませんか!

南フランスのコートダジュール、ヴァール県ブリニョル市(Brignoles)を中心として、その周辺の複数のコミューン(町村)が共同で運営し、総勢600人もの生徒を包する音楽芸術学校。そこのディレクターが竹楽器を取り入れる事を決定したというわけ。学校にはヴァイオリン科やピアノ科を始め各楽器の専門講師がいて、生徒達はそれぞれの楽器を個人レッスンで習う。あるいは音楽理論をグループ学習する。そして、それだけでは先生と生徒の個人的繋がりしかないから、各楽器を集めたオーケストラも組織し、合奏の面白さやテクニックも勉強する。しかしこの合奏に費やされる時間は極僅かで、ほとんどの時間は一対一の個人練習に費やされる。確かに音楽学校に通って楽器の演奏が上手にならなければ意味が無いけれど、コンセルヴァトワールを始めとする音楽学校は、おしなべて各楽器の演奏家を育てる事に終始し、また親達も自分の子供が腕を上げ見事に楽器を演奏する事を期待する。だから、音楽学校は悪く言えば演奏家を排出するための養成施設に成り下がってしまっているともいえる。

ここの校長はちょっと違った発想で、方向を逆にしようと考えたのだ。まず生徒達は音楽をする喜び、合奏する楽しさを体感し、そしてその延長として各楽器の演奏技術や音楽理論を習得する、、、というわけである。この認識は実に正しいと思うし、私のBamboo Orchestraもプロの芸術活動の一方、子供達の演奏グループ「レ・プッス」(竹の子楽団)や各学校での音楽授業はまさにその事を目指してきた。譜面が読める読めない、演奏技術の有る無しに関わらず、全ての子供達、あるいはアマチュアの大人達が即刻合奏の面白さを体験できるメソッドだ。この学校では生徒達が合奏する楽しみを分かち合う事から音楽を始める事で、音楽学校にありがちな閉鎖性を改善しようと踏み出したのである。

2014年一月から開講したBamboo Orchestra科、生徒は現在二クラス計22名。Bamboo Orchestraの元メンバーで打楽器奏者のパスカルが毎週授業を担当してくれている。6月上旬のコロンス (Correns/フランスで最初にエコロジーを実践した村として有名)での音楽フェスティバルでプロのBamboo Orchestraクインテットのコンサートに、この誕生間もないBamboo Orchestra科の生徒達も特別出演し、始めて聴衆の前で演奏を披露する予定です。

さて、Bamboo Orchestraとは文字通り竹楽器合奏の意味だから、インドネシアやべトナムの伝統的な竹合奏もアフリカ、トーゴの竹合奏もおしなべて xx Bamboo Orchestraと総称することも出来る。しかし、私が30年間実施して来た「Bamboo Orchestra」は単なる竹楽器合奏ではなく、独自の楽器編成と合奏理論で成り立っている。(だから本来は Bamboo Orchestra/Yabuki Methode、つまり「矢吹式バンブーオーケストラ」と称すべきなのかも知れないのだが)


<プロのBamboo Orchestraコンサート>


<竹の子楽団レ・プッスの街頭コンサート>


<スリッタムを演奏する生徒達>


<ディアトニック竹マリンバを演奏する生徒達>

Bamboo Orchestraの誕生 

日本の山には、マダケ、モーソー竹を始めとする各種の竹が自然に生えているにもかかわらず、不思議な事に有史以来誰も竹の打楽器を作らなかった。伝統音楽で使われるのは竹製管楽器(尺八、篠笛、竜笛、笙、篳篥、、、)だけで、沖縄の四つ竹の様な単純なリズム打楽器はあるにしろ、音階を奏でる竹の打楽器は存在しなかった。また日本には竹楽器合奏という形式すら存在しなかったのです。

1970年代、武蔵野美術大学建築科を中退した私は「黒テント」という前衛演劇グループに所属し、日本全国、北は北海道旭川市から南は沖縄那覇市まで、毎日違う街の広場や公園に巨大なテントを設営し、まるでサーカス団の様に全国を巡業する日々を送っていました。これは全く収入にならない活動で、一方で生活を支えるために各劇場で現代演劇の音響効果の仕事をしていました。オープンリール形式の磁気テープに音楽や効果音を録音し、舞台の進行、役者の感情表現や場面設定に合わせて再生する音響効果家という仕事です。役者と同様、台本を何度も読み返し、筋書き、場面設定、配役の感情の推移を推察し、各場面に最適な効果音や音楽を作る創造的な作業です。

舞台で演じている俳優は、その日その日で台詞や仕草の微妙なニュアンスが変化し、観客の反応にも左右され、まさに演劇は一回性の芸術です。にもかかわらず音響効果家の仕事、一度磁気テープに録音してしまった音は自在に対応出来ず、演劇が本来持っている生な状況に即応できない。演劇に参加しているのだから、役者と同じ様に生きている音響効果があり得るのではないだろうか?、、、と思いを巡らしました。そこで日本の古典演劇に目を転じて見ると、能、歌舞伎、文楽では全て生の音楽、効果音で成り立っているではありませんか!これは正に灯台下暗し! 新しい演劇を追求しているはずの前衛現代劇よりも古典演劇の方が演劇の本質を体現している、現代劇も古典に学ばなければ発展の余地が無いと、現代劇に相応しい実演による音響効果、音楽の可能性を模索しました。それに現代語の台詞であろうと、日本語の響きにはドレミ感覚のはっきりした西洋楽器より日本の伝統楽器の音色がよりマッチする、という事にも驚いたのでした。つまり音楽が音楽として成立する以前の「音の存在感」の重要性に気付かされたのです。

それまで日本の伝統楽器に触れた事の無かった私は、慌てて各楽器の師匠の門を叩き三味線、能管、鼓、琵琶、、等を習い、また歌舞伎の下座音楽の技法も習得しました。当時私が関わっていた前衛劇団「横浜ボートシアター」の舞台では、インドの「マハーバーラタ」のストーリーの作品の効果音楽を、複数の三味線奏者による歌舞伎の出囃子スタイルで伴奏したりもしました。しかし日本の伝統音楽はあまりにも奥が深く、これを極めようとしたら一生掛かっても私には歯が立ちそうにもない、私がかかわっているのは現代劇なのだから、日本の伝統楽器の様な存在感のある音色を持ち、尚かつ現代劇に相応しい新たな楽器を作れないだろうか、、、と試行錯誤の末1980年に「竹マリンバ」という鍵盤楽器を創作しました。この楽器を初めて使ったのが黒テントの「西遊記」という作品で、 私は舞台脇で生演奏し、また俳優達も時々演奏に参加するという新しい表現形式を生みだしたのです。この仕事に対して日本音響効果家協会から「園田賞」を授与されました。

その後も楽器創作活動を続けた結果、奇妙な楽器が次々と誕生し、それらの楽器を駆使したコンサート活動に発展していったのでした。当時は特に竹楽器が中心というわけではなく、金属やガラスを素材にした楽器もありましたから、Bamboo Orchestraという名称ではなく「矢吹誠の創作楽器の世界」というサブタイトルを付けたコンサート活動でした。

1990年代初頭、伝統楽器で新しい音楽を創出したいと意欲を持った芸大邦楽科卒業の若手尺八奏者達から、尺八合奏と竹打楽器アンサンブルの曲を書いてほしいと依頼されました。虚無僧に始まる尺八という楽器は元々独りで演奏するもので、合奏形式は存在しません。ところが、雑音成分を多く含んだ複数の尺八が同時に鳴ると実に存在感のある響きを作り出し、また私の竹打楽器の音色と見事に融合したのでした。この経験を通じて、徐々に日本の伝統的竹管楽器と私の創作竹打楽器の合奏、つまりBamboo Orchestraという合奏形式が私の脳裏に構想として膨らんだのでした。

<竹マリンバ>


<スーパーマウイ>


<ジェゴグ>


<クロマチック鍵盤式アンクルン>

Bamboo Orchestra音楽の特徴

以上の様な経緯を経て創出されたBamboo Orchestra音楽には、いくつかの特徴があります。

1、創作竹打楽器を中心にした合奏

「竹マリンバ」という鍵盤打楽器は4オクターブ半の音域を持つ楽器で、この楽器の豊かな音色とハーモニーがBamboo Orchestra音楽の特色です。この竹マリンバを中心に他の竹楽器の音色を交え様々なオーケストレーションが生み出せます。重低音の補強にはスーパーマウイ(直径10cm長さ2m〜3m半程のモーソー竹の節を全て抜き、開口部を平らなバチで叩く楽器)、ジェゴグ(バリ島の竹合奏で使われる低音部楽器で、直径14〜15cmのモーソー竹で製作)あるいは太鼓等を加え、高音部には竹製管楽器、尺八、ケーナ、篠笛、パンフルート、笙、竹ボラあるいはインドネシアのアンクルンを加えてメロディーラインを補強し、音楽的に充実したオーケストレーションが成立します。また一方スリッタム(竹スリットドラム)や、ケチャ(竹べら)等の、相対的な高低だけの楽器の合奏も、いわゆるドレミ的なハーモニーではなく、音のカオスが生み出すリズム効果で実に豊かな表現が可能です。もちろんこの竹製楽器群に日本の伝統楽器、民族楽器、西欧楽器を随時加える事も可能です。この様な音楽表現形式がBamboo Orchestraなのです。

2、誰もが気軽に参加できる要素

今回、ブリニョル音楽学校でBamboo Orchestra科創設の意向が生まれたのは、 Bamboo Orchestra音楽の芸術的評価だけでなく「誰もが気軽に参加でき合奏の楽しさを味わえる」という私のBamboo Orchestra教育メソッドが評価されたという側面も大きいのです。つまり私が各学校で実施して来た竹楽器合奏授業や「レ・プッス」(竹の子合奏団)のコンサート活動で開発したディアトニック・メソッドです。第一段階で納入した楽器群の多くは、このディアトニック音階に調律されています。つまりドレミファソラシの7音しかありません。古今東西の様々な音楽を再現する為にはピアノの様な12音のクロマチック音階が必要です。しかし音階を限定し楽器を単純化する事で、音の動き(メロディー)を容易に暗記でき、譜面を使わなくても口立てで音楽を指導する事が出来、誰もが気軽に音楽表現に参加できるメリットが生まれます。音階数を限定しても音楽的な豊かさが減少するわけでありません。ディアトニック音階にはディアトニック音階独特の世界があります。1オクターブに5音しかないペンタトニック音階(日本の民謡や各地の伝統音楽)でも豊かな表現が可能ではありませんか!つまり音数は音楽の豊かさや美しさの基準ではなく、それぞれの音階にはそれぞれの音楽世界があるのです。古代ギリシャ音楽、グレゴリアン聖歌等に倣ってモードを変化する事で、ディアトニック音階も様々な表現が可能です。それに主な楽器は打楽器ですから叩けば音が出る、、、という事も、誰もが容易に参加できる重要な要素です。

その他にも、竹は中が空洞で弾力性があり管楽器や打楽器を簡単に作る事が出来る、竹の使用はエコロジー、、、等、竹楽器合奏の今日的な利点は多々あります。

音楽を信じること

音楽は言葉ではありませんから、意味の伝達は出来ません。にもかかわらず音楽を聴くと感動したり悲しくなったり、心が躍り出したり、また実際に音楽に合わせて体を動かしたり(踊ったり)、、、ひとそれぞれ状況に依って違いはあっても、人々は音楽を聴く事で心に何らかの刺激を受ける。古代ギリシャの哲学者ピュタゴラス、アリストテレスに始まって古今東西の哲学者、音楽学者が音楽を分析し効能を語り音楽について様々な蘊蓄を傾けて来ても、「何故人間は音楽を聴くと心を動かされるのか?」という根源的な設問には誰も答えを出せません。つまり音楽というのはとても神秘的な、人間だけに備わったコミュニケーションの手段なのです。

「楽器を作り作曲し演奏もしている貴方は、よほど音楽が好きなのですね?」と、しばしばジャーナリストから冗談半分に問われるので、私はこう答えます。「私が音楽を仕事にしているのは一般の人以上に音楽が好きだからなのではなく、ただ『音楽』というものの本質を信じているからです」 例えば神父や仏僧に、貴方はキリスト教、あるいは仏教が好きなのですか?とは質問しないでしょう。またそんな愚かな質問を呈しても彼等は「宗教が好きなのではなく信じているからです」と答えるでしょう。私も音楽に対して同じ心境なのです、、、と。

そして、繰り返しますが音楽の魅力とは、「言葉以外の要素(音)を使って他人とコミュニケーションできる」その事に尽きます。音楽を仲立ちにすれば、国境や言葉の壁はいとも簡単に越え友好関係を築く事が出来ます。フランス語が流暢に喋れるわけでもない私が、何故フランスで活動できるのか、、、それは正に音楽だからです。

今は21世紀、20世紀の轍を踏むわけにはいきません。私達人類の目標は自然、地球環境を最大限に尊重した上で、平等、共存を目指す事でしょう。 エコロジーを前提に、全ての人々に開かれたBamboo Orchestraという音楽表現形式は、今だからこそ要望されているのです。

P.S

今年の南仏は暖冬だったせいで、まだ2月下旬前だというのにわが家のベランダのさやえんどう(Pois mangetout)に花が咲き実が成り始めました!、昨年11月に種を撒き苗を育て冬を越し、収穫が始まるのは早くとも4月頃と聞いていたのでしたが、、、。


  
フランス便り No.27 (2013/7寄稿)
もう夏だ!                     矢吹 誠 (高22回)

カボチャが蔓を四方八方に延ばし、あっという間に一面を埋め尽くしてしまうなどとは知る由もなかった。それにカボチャは細い巻き蔓でしっかり自分を固定しながら先へ先へと延びて行くから、上方向へよじ登らせることも可能だ。友人が「ぶどう棚の様な物を作って這わせたら面白いんじゃない?」などと挑発するものだから「それは名案!」と、早速細竹を組んで金網を張り、通路を跨ぐ2m程の棚を作った。そしたらあっという間に向こう側にまで達し、今度は鉄道線路の金網を横這いし始めた。
「凄い、貴方の菜園は見事だ!」と、隣の菜園主。
「巨大に実ったカボチャには嫉妬するよ。うちのカボチャと来たら、何時まで待っても貧相なままだ、、、」と悔しそうにつぶやくフリッシュ管理人アミッド。
野菜栽培一年生の私には全く驚くことばかり。育て方の知識など皆無で、苗を菜園のあちこちにただ植えただけなのだから、大きなカボチャがゴロゴロと成っても、皆と同じ様に呆気にとられているだけで、自慢出来ることは何も無い。普通だったらカボチャは1m以上間を開けて植えなければいけないのに、菜園の区画は狭いから、私ときたら3〜40cm間隔で植えてしまった。にもかかわらずこの成長ぶり、、、植物の生命力はすごい!
因に本日の収穫!


<我が線路脇菜園>


<これが天空カボチャ棚>


<実った巨大なカボチャ>


<下の方にもカボチャが>


<本日の収穫/左はロングデュニース、右はカボチャの雄花;天ぷらにするとおいしい>

■菜園プロジェクト

「2013年マルセイユ欧州文化首都」イヴェントの一つ、カルチエ・クレアティフ(Quartier Creatif/創造的地区)。フリッシュ敷地内に設けた菜園に近隣、ラ・ベルドメ地区の住民に自由に参加して花々や野菜を育ててもらおう、、、という共同菜園プロジェクト。線路脇の空き地400㎡程に土を入れて区切り、30家族程が参加している。フリッシュはマルセイユ駅すぐ手前にあるから、マルセイユに着く旅行者は、スピードを緩めた車窓からこのJardin des rails(線路菜園)を必ず目にすることになる。
ありふれた共同菜園とはいえ、「欧州文化首都」プロジェクトの一環だから本格的。パリ郊外ベルサイユにある国立園芸専門学校の芸術部長ジャンリュック・ブリッソン(Jean-Luc Brisson)が主導し、マルセイユ分校の園芸教授ダヴィッドが助言するという本格的なものだ。ただ、菜園がフリッシュ内に作られたにもかかわらず、フリッシュで活動する芸術家のうち、興味を持ち参加しているのは何故かBamboo Orchestraの私だけだ。
フリッシュというこの芸術施設は、私がマルセイユにやってきた一年前からつまり1992年から始まり、タバコ工場の跡地と廃墟を利用したものだった、、、という話は何度も繰り返しているから端折るけれど、残念なことにここで活動している芸術家達と近隣住民との間には今まであまり繋がりが無かった。芸術家達は自分の創作活動に没頭していて、また「お前達一般市民に俺の芸術が判るか?」という前衛意識、プライドがあるのかもしれない。一方住民達は、芸術家は分けの判らないことをやっていて近寄りがたい、、、と敬遠している空気もあった。私のBamboo Orchestraは、国内や海外のフェスティバルに出掛けてコンサートをしている一方、地元の子供達やアマチュアの大人達が参加する「プッス」も盛んに活動しているし、また近隣の小学校や中学校のクラスが私のアトリエを随時訪れているから、学校の先生達とも顔見知りで、Bamboo Orchestraの教育的意義も近隣では評判が高い。それでも、誰とでも親しくしているというわけではないので、この共同菜園で新たな繋がりが出来るのは楽しい。前述した管理人アミッドとは19年来の知り合いだけれど、普段はコンサートが終わって夜遅くフリッシュに戻って来ると門は閉まっているから、アミッドを電話で叩き起こして門を開けてもらうとか、「車をここには止めないでくれ!」とか、だいたい何時も不機嫌な顔をして文句を言われる関係だったのが、菜園がはじまってからは 「 トマトは赤くなった?」等と急に親しげに話しかけて来る。人間関係というのはおもしろいもので、共通の活動を通して親しくなるものである。今までは、フリッシュで創作活動をしている芸術家と、単にこの施設に雇われた管理人、、、と、同じ場所で毎日働いていても立場が異なり、どちらかと言えば対立する関係だったのが、「菜園」という同じ楽しみを共有する人間同士として、初めて同じ地平に立った感じといえば良いだろうか?この菜園の前でアペリティフとか、収穫祭をやろうとか、、、今までに無く話は盛り上がっている。
私が園芸に興味を引かれる様になったのはここ数年のこと。きっかけは、お祝いに貰った鉢植スパティフィラムの花が咲かなくなり、病気になったのだろうか?あるいは根が張り過ぎたせいだろうか?と鉢から出して土を換え子株に分けたら、6つもの鉢に増えてしまった。それから毎日「元気にしているだろうか?」と一つ一つの株を仔細に観察し、水をやったりする日々が続いた。その間、まるで病院で各部屋を訪問し患者を診察している医師の心境だった。3ヶ月程経って、一番元気が無かった株からも新しい葉が出始め、「これでひと安心、私の役目も終わった」と安堵し、全員の無事退院を祝ったのである。今でもアトリエに四鉢、わが家に二鉢と皆元気に火炎の様な白い花を咲かせているが、この経験を通して植物の世話をする充実感も味わった。そんなこんなで、草花栽培に面白みを感じ始め、そのうちにわが家は室内、ベランダ、所狭しと鉢植植物で一杯になってしまった。そして昨年、初めてベランダでトマト栽培に挑戦した。この経験もふとしたことから始まったのだった。


<池には蓮の花も>


<ミツバチも来ている>


<貧相だけどラベンダー>


<こんな花も咲いている>


<ぶどうが三株あるが今年の収穫は無理>

■トマト栽培

農家と年間契約し、アマップ(AMAP)という有機野菜の共同購入をしている話はずいぶん以前にした。青果店に並んでいるきれいに洗われた野菜と違って、アントニーから毎週届く野菜達は畑から引っこ抜いたままだから、泥や葉っぱがいっぱいくっ付いている。ベトラブ、蕪、大根、人参、カリフラワー、サラダの外側、、、毎週家に戻って野菜達を洗って整理するだけで大きな一山の野菜くずが出る。最初はゴミとしてそのまま捨てていたが、だんだん捨てるのが無駄な気がし始め(また、ゴミを多く出せばそれだけ環境に負荷を掛けることになるから、自責の念も湧く)、この野菜くずを生かせないだろうかと堆肥を作ることにした。とはいえマンション住まいのわが家では本格的な堆肥作りなど無理。こじんまりとベランダに並べた空きプランターの中でである。しかし出来上がった堆肥を鉢植え草花の根元に施していたら、春先になると根元のあちらこちらから芽が出始めた。堆肥が完熟しておらず捨てた種が生きていたのだ。始めは邪魔臭い雑草と次々にむしっていたが、待てよ!これは食べた野菜達が残した種であり、これを育てれば野菜が実るかも知れない?、、、たまたま大きめの植木鉢が余っていたから、半信半疑でそこにトマトの苗を植えたというわけだ。
最初に植物が土中から顔を出すとき多くは双葉。(だから双子葉植物という分類があるのだそうだが)そしてこの双葉にはあまり特徴が無い。大小の差はあるけれどだいたい皆まるっこい双葉。そして三枚目からやっとそれぞれの植物の特徴を持った葉っぱが出てくる。何と神秘で感動的な自然のメカニズム!(子供の時に習ったのかもしれないけれど、こんなこともすっかり忘れていた)。だから芽が出てすぐには、どれが何の植物か定かでない。少し成長してやっと三枚目からトマトの特徴を持ったギザギザの葉になる。そしてこの葉を指でそっと擦って匂いをかぐと何とトマトの匂いがするんだ!そんな些細な事にも感動。やがてぐんぐんと大きくなって、初夏にはトマトが沢山成った。ベランダの植木鉢で普通のトマトが育つなんて驚き、それが昨年の初体験。
話が横道に逸れるけれど、、、双葉は皆がみんなまるっこいとは限らない。ポワヴロン(ピーマン)の仲間はちょっと尖った双葉である。マンションの隣人がくれた唐辛子(フランスではこれをピーマンという)も、出てきた双葉は尖っていた。そして面白いのは、この小さな双葉が昼間は開いているのに夜になると頭の上で手を合わる様にすぼむのである。まるで「明日もお天道様が拝めます様に、、、」と懸命に手を合わせて祈っている様で、可愛いったらない。唐辛子を口にしたときのあの鋭い辛みとは裏腹な、この苗のあどけない仕草には目から鱗、一見に値する。
さてトマトの話の続き。今年は少し様子が分かったから、春先すぐに堆肥から芽を出したトマトと思しき苗を大きな植木鉢に植えていた。そんな折に「線路菜園」のプロジェクトを聞きつけ、これ幸い、渡りに船!と参加することにしたのだ。菜園があれば、トマトに限らず植木鉢のそこかしこから芽を出した野菜達の苗を他界させること無く存分に育ててやれる。それに昨年収穫したニチニチソウの種が袋一杯何千とある。ベランダのプランター用には50株もあれば十分。与えられた菜園の区画一面を、ピンクの可憐な花で埋めつくしたらさぞ爽快だろうな!ともほくそ笑んだ。


<ベランダでも育ったトマト>


<唐辛子の苗、昼間はこんな感じ>


<でも夜になるとこの通り>

■ニチニチソウ

早速、苗床にニチニチソウの種を撒いて芽が出るのを待った。その数200ポット!
苗床には、黒いプラスチックの苗専用容器レ・ポ・スミ(les pots semis/日本語ではポリポット?)を数だけ用意しなければならない。インターネットで探したらこれが結構値が張る。20個一組で400円。200個の苗を作ろうとしたら容器だけで4千円も掛かってしまう!(恐らく業者用にはもっと安い仕入れルートがあるに違いないが、インターネットでは見つけられなかった)こりゃたまらんと、近所で売っている白いプラスチック製の使い捨てコップの底に穴を開けて代用することにした。100個入りのパッケージが350円、200個用意しても700円、これなら懐は痛まない。(後で知ったのだけれど、白い使い捨てコップは光を透過し根の成長を妨げてしまうから不可。苗用ポットが黒いのはちゃんと理由があったという次第)
各プラスチックのコップに培養土を入れ、三粒程の小さな種を撒き上に1cm程土を掛け、水をたっぷり与えて出来上がり。これを200個作ってバルコニーに並べた。しゃがんだ姿勢での作業は腰に良くない。何度も背伸びして腰の痛みを緩和しながらの作業。しかし10日程経つと、そこかしこからぽつぽつと芽が出始めた。ニチニチソウ育てはこれで三年目。昨年はプランターにぱらぱらと適当に撒いたら、ほとんどが出芽してプランターから溢れる程一杯になってしまった。今年は昨年収穫した沢山の種を活かせる当てが見つかったから、これ幸いと200ポット。大半が発芽したから、苗の総数は500程にも成る。
ニチニチソウに拘るのは、理由がある。咲き乱れる小さなピンク色の花と、背景になるみずみずしく透ける様な黄緑色の葉の対象が美しいだけでなく、この花は五月下旬から11月初旬まで初夏から秋にかけてほぼ半年の間咲いている。一つの花の寿命は4〜5日と短いけれど、次から次へと旺盛に咲き続けるのだ。それも水をやるだけで、手間はほとんど掛からない。


<プランターで初咲きのニチニチソウ>


<こちらは菜園に植えたニチニチソウ>


<コクリコも咲いている>

■カボチャ

さて、植木鉢のあちらこちらから顔を出した他の野菜の双葉達も、ことごとくポットに移植して育てる作業が始まった。双葉は時々種をまるで帽子の様に頭に乗せて地面から顔を出して来る。茶色の大きめの種は判りやすい。カボチャに違いない。小粒のはメロンあるいはキュウリ?双葉から次の三枚目が出てきても、ウリ科の植物は皆同じ様な葉をしているから、実がなるまで果たして何の野菜なのか判然としない。カボチャ、西瓜、キュウリ、ポチロン、プチマロン、コルジェット(ズッキーニ)、あるいはロング・ドゥ・ニース?、、、植物が育つのを手助けしてあげる面白さもさることながら、出てきた芽がいずれ何の実をつけるか判らないというのも、野菜作り一年生の楽しみの一端である。既にある程度生育した苗を買って来て植えるのではなく、食べた無農薬野菜の種からまた新たに野菜が収穫できる、、、この循環サイクルは、楽しいだけでなくエコロジーでもあり悪くない。
カボチャを育てるのに地面を這わすのではなく、ブドウ棚形式で育てるやり方を日本のアマチュア園芸家達は「天空カボチャ」と呼んでいるのだそうだ。そしてこんな酔狂なことをやっているのは極少数派だとも知った。しかし、こんなに蔓の成長が速くそれに巻き蔓でしっかり自身を固定するのなら、この植物はよじ登らせたら面白かろう、と菜園一年生の私もすぐに思いたった。大きな実が成ったら茎が耐えられるだろうか?という不安はもちろんあったけれど、何事も「実験、ジッケン!!」とアマチュア精神。それに、与えられた菜園の区画はラ・ベルドメ在住の彫刻家の友人との共有で12㎡(約3坪弱)と猫の額ほどの広さしか無いから、そのまま普通に地面を這わせたらあっという間に菜園中がカボチャになってしまう、という逆の不安も手伝ったのだった。


<見事な双葉/一枚の葉が幅4cm長さ6cmもある>


<それが育って>


<ここまで来たら植え時>


<結局見事な双葉はズッキーニだった>

■震災孤児支援ワークショップ

さて話は変わって旧聞になるが、3月末にパリ西郊外のサンジェルマン・オン・レイで日本から招待した20人ほどの震災孤児達とフランスの高校生合わせて50人を対象にワークショップを行なった。マルセイユから小型トラック・トラフィックに楽器を満載してパリに向かった。この企画は、当市の有志が立ち上げた「Lien/絆」という協会が主催し、エアーフランスが協力して孤児達に1週間程フランス文化に触れてもらおう、、、という内容だった。彼らはベルサイユ宮殿を訪れたり普通の観光もしたけれど、特に当地のインターナショナルスクールの授業を受けたり、フランスの同年代の子供達との交流も組み込まれていた。しかし、フランス語が出来ない彼等はそう簡単にフランスの子供達と交流するというわけにはいかない。そこで一週間の滞在の最後を、日仏の子供達の竹楽器合奏で締めくくろう、、、というのが主催者の目論みであった。
音楽なら言葉を越えて交流できる、そして短時間で合奏を成立させる私のノウハウは結構知れわたっていて、私に白羽の矢が立ったという次第。日本語とフランス語を交互に繰り出しながら指導し、二時間で50人もの生徒達の合奏をまとめあげ、夕刻、日本大使館関係者などが臨席する閉会式で演奏を披露した。
日本から子供達を引率してきた足長育英会東北事務所長の林田氏は、演奏後のレセプションで私をつかまえ「やー、すばらしかった。短時間でこんな事が出来るなんて夢の様です。子供達は、演奏を終えて涙を流して感激していましたよ。矢吹さんは『ミュージシャン』ではなく『マジシャン』ですね!」と。
ところが翌日は、欧州文化首都関連プロジェクトのリノギュラシオン(l’inauguration/開始式)で、子供と大人のアマチュアグループ「プッス」が演奏するので、マルセイユにとんぼ返り。早朝パリを発ち、ほとんど休息せず800kmをトラックで飛ばしたから、マルセイユに着いた時にはくたくた。それでも「プッス」の演奏も大好評で、強行軍を敢行した甲斐があったのだった。


<インターナショナルスクールの建物>


<演奏指導風景>


<練習風景>


<子供達と記念写真>


フランス便り No.26
欧州文化首都マルセイユ                     矢吹 誠 (高22回)

秒読みが始まった。サンク(5)!キャトル(4)!トゥロワ(3)!ドゥー(2)!アン(1)!オニヴァ!
タカタカタカタカ、ドドドドドド!!!
2013年1月12日19時きっかり、ヴューポー(Vieux Port/旧港)を見下ろすエスプラナッド、サン・ローロン教会前見晴し台で、Bamboo Orchestraプッス50人が奏でる竹楽器と太鼓の大音響が轟いた。「欧州文化首都マルセイユ及びプロヴァンス」の開幕宣言シュプレヒコール。その後夜空には無数の花火が打ち上げられ、港に停泊している大型客船は彩り豊かな照明で照らされ、街灯が消えた旧港の向こう側、山の上のノートルダム・ドゥ・ラ・ギャルド(Notre-Dame de la Garde/聖母マリア教会)の金色のマリア像が、複数のサーチライトに照らし出され闇の中に煌煌と浮かび上がった。
19時の同じ時刻、マルセイユ市内の数十カ所とプロヴァンス各市(エクス、アルル、オーバーニュ、、、)で一斉に5分間文化首都開幕の雄叫びをあげるグランドクラマー(La Grande Clameur)という企画。内容は私たちの様に事前に準備された音楽から、ただ叫ぶだけ、、、というものまで、街のいたるところで同時に開幕を祝う騒音を轟かせたのだ。我々が演奏した見晴し台は、文字通り港が一望に見下ろせる一等地。今晩港で繰り広げられる光のショウをこの絶好の位置から眺めようとものすごい数の人が集まっていた。子供と大人を交えたアマチュアのグループPousses du Bamboo Orchestra(プッス)が演奏する「Slittams1613」という曲は、音程の異なる4組の竹製スリットドラム群(スリッタム)と太鼓を連打するかなり激しい音響で、この「雄叫び」企画にはうってつけというわけだった。その後真夜中過ぎまで、街中いたるところで催しが繰り広げられ、旧港周辺と目抜き通りは数十万人の人出で埋め尽くされた。
マルセイユ市が2013年「欧州文化首都」に選定された、という話は確か以前にも御伝えしているけれど、ついにその2013年がやって来たのである。これから12月末までの一年間、マルセイユとプロヴァンスの周辺都市はヨーロッパの文化の中心として注目され賑わうことになる。
さてこの文化首都指定システムは、欧州統合の象徴として1985年から始まっている。私も最近まで知らなかったのだが、ギリシャの女優(Never on Sunday/「日曜はだめよ」の)で後に文化大臣になったメリナ・メルクーリが提唱したのだと。現在27カ国にも拡大した欧州連合だが、当時はまだ欧州連合(EU)という名称ではなく経済協力を目的にした僅か10カ国の集まりにしか過ぎなかった。昨年の12月にノーベル平和賞がこの欧州連合に授与されたのは、まだ記憶に新しいだろう。この平和賞受賞には異議を唱える人達がいることは聞いているし、困難な経済問題を抱えた欧州連合が順風満帆というわけではないが、私が住んでいるフランスそして欧州連合が平和に貢献したと評価され名誉を与えられるのは、他人ごとながら嬉しい。

■アトリエ訪問講座

私は昨年の夏以降、アトリエの音楽講座に訪れる小学生、中学生、高校生のクラスの子供達に、楽器紹介時に竹製パンフルートでベートーベンの第九の合唱のメロディーを吹き
「このメロディー知ってる?」と毎回投げかけた。
(この「アトリエ訪問講座」がどういうものか少し説明しておくと、、、学校の生徒達が学外授業として例えば美術館を訪問する様に、Bamboo Orchestraのアトリエを訪問する。私は、アトリエ内に所狭しと並べてある竹楽器を一つ一つ順繰りに演奏して紹介する。その後子供達も自分で手に取って鳴らし、最後には皆で合奏するという授業である。普通の楽器博物館では、訪問者が楽器に触ったり演奏することは許可されないが、うちのアトリエでは子供達は目を輝かせて楽器に触り音を出し、演奏に夢中になる)
話を続けると、、、ほとんどの子供が、この曲を聴いたことはあるけれど題名は知らない、作曲者が誰かも知らないという。たまに正解を答えられる子供もいるけれど、それはじつに稀である。日本だったら小学校のクラスでも、半分の子供が答えられるに違いないと想像するが、、、ま、フランスの音楽教育の貧しさは今回は話題にしないでおこう。
「これはベートーベンが作曲した第九シンフォニーの『歓喜の歌』というメロディーだけれど、貴方達にも大いに関係がある、、、実はこれは貴方達の歌なんだよ!」と振る。
子供達は「それってどういう意味?」と怪訝な顔をする。
そこで私は、マルセイエーズがフランス国歌であるように、この曲は欧州連合の連合歌であり、貴方達はそのメンバーだからだよと告げる。
そして、「今年のノーベル平和賞は誰が受賞するか知ってる?」
これにも、ほとんど誰も答えられない。
「それはね、君、君自身が貰うんだよ!」と一人一人を指差す。
ノーベル賞というのが世界的に重要な賞だという事は多くの子供も知っているから、それを自分が貰うなんて何か嬉しい話だけれど、、、と狐につままれた様に照れ笑いする。
「でも、なんで君が貰うのさ?」「君は平和にどう貢献したの?」
と質問を畳み掛ける。
もちろん子供達は答えられない。
そこで、「第二次世界大戦後65年間に渡って、欧州連合内では平和を維持している。今でこそフランスとドイツは仲良くしているけれど、大戦時にはナチスドイツがフランスに侵攻し、フランスとドイツは敵同士だったんだよ。」
子供達にそんな話をしても彼らには実感など無いことはわかりきっているけれど、やはり次の世代に伝えなければならない重要なことだと思っている。
そして、「何で日本人の私がそんな話を持ち出すのかといえば、、、」
アジアの東の果ての日本と中国そして韓国は、戦後65年も経つのにいまだに仲良く出来ずに角突き合わせている。それに比べたら欧州連合という協力体制を生み出した貴方達ヨーロッパの人々は胸を張り誇りを持ってしかるべきなんだよ、、、と話をおさめるのだ。
私の音楽講座は人間と自然と音楽、、、と幅広い話題を取り混ぜて一時間半の間繰り広げられる。何せアトリエに所狭しと並んでいる楽器は竹というエコロジーな自然の素材で出来ている。そして、同じ竹筒でも吹いたり叩いたり擦ったりで全く違った音色を生み出す事が出来る。これには大人達も引率の先生達も身を乗り出して話に聞き入り竹楽器の音色に魅せられる。最後の30分は、各自が竹楽器を手にして即席に練習をし、皆で合奏して終わるという趣向。この講座は実に評判が良い。私はフランス語が上手なわけではなく、気の利いた言い回しなんか全くできないし、時々文法だって出鱈目だったりするけれど、フランスの子供も大人も私の話に引き込まれる。フリッシュの教育分野を担当しているパトリックは、毎回子供達を引率してアトリエに来、私の同じ話を何度も聞かされているにも関わらず、その都度話の細部が違い新鮮だと言ってくれる。昨日などは、高校生のクラスを引率して来た先生が帰り際に、「貴方の講座は、政治、社会学、環境、人間学、、、と教育に必要なあらゆる話題を網羅している。貴方の様な人が音楽の先生になるべきだと、教育省に進言したいです。」と言葉を残していった。

■欧州文化首都の恩恵

さて、日本人の私が決意してマルセイユにやってきたのは1993年、 今から丁度20年前になる。当時、フランスに仕事のつてなど皆無だった。 唯一の頼みは南仏に竹林があり、私が楽器製作に必要とする孟宗竹やマダケが手に入るというそのことだけ、、、考えてみればずいぶん無謀な話だった。
しかし、翌年には運良くタバコ公社の跡地を芸術家達が半ば占拠する形で始まった「フリッシュ」に入居でき、楽器作りがはじまった。同時に近隣の打楽器奏者達を募ってマルセイユBamboo Orchestraをスタートし、95年にはコンサートとCDの製作にまでこぎつけた。それ以降の経緯は何度も話しているからここでは割愛するけれど、、、「フリッシュ/Friche」とは未開墾地という意味で、文字通り広い敷地に幾棟もある工場跡の建物をそれぞれのアーティストが、必要なスペースに区切ってそのまま利用しているに過ぎなかった。当初私に与えられたスペースというのはだだっ広い建物の一角にただ幕を垂らして仕切っただけ。通りすがりの人が覗いたり、時には工具や楽器を盗まれたりと、そんな環境だった。そして、その広い工場廃屋の中をあっちこっちと、実に12回も引っ越しを強いられた。最後に落ち着いた場所はベニヤ製の壁で仕切られ、ドアもあり防犯アラームも付いていた。つまりそれまでに比べたらセキュリティーは格段に向上した。しかし、ひとたび雨が降れば雨漏りがひどく、バケツやプラスチック・ケースをアトリエ内に所狭しと並べても間に合わず、豪雨があると床上浸水し、、、その度に大変な労働を強いられた。それが、マルセイユ欧州文化首都選定のお陰で、マルセイユの文化芸術の重要な発信基地であるフリッシュがこのままではあまりにもみっともない、、、と予算が付き大改装工事が始まったのである。









■陳情

そんな劣悪な環境でも今まで我慢できたのは、マルセイユの中心地、駅から徒歩10分の200m2以上もある空間をほとんどただ同然で使える、、、という利点があったから。だが、今では雨漏りも床上浸水も無く、冬には暖房まで入る!今までの苦難に比べたら夢の様な環境に様変わりした。この様に整備された後では、それぞれのアーティストが占有する面積に応じて相当の家賃を払わなければならないシステムに変更された。Bamboo Orchestra活動を続けるためには、どうしても200m2以上の床面積が必要である。竹材をストックする倉庫、幾つもある大きな竹楽器群を保管するスペース。コンサートの練習には、楽器を実際の舞台と同じ様に配置できなければ稽古にならない。また、今では50人にまで膨れ上がったアマチュアのグループ、プッスが練習するのにも広いスペースが必要である。家賃を軽減する為にもっと狭い空間で我慢するというわけにはいかない。Bamboo Orchestraは商業的活動ではないので、今までは実に限られた収入で運営されてきた。急に数倍にも跳ね上がったアトリエ家賃を請求されたら、とても活動は続かなくなる。
Bamboo Orchestraはプロの演奏家によるコンサート、つまり芸術的な活動だけでなく、プッスの様に一般市民が参加している社会活動も平行して行なわれている。そして多くの学校で教え、又私のアトリエには多くのクラスが訪れる。これは音楽教育活動である。それに音楽療法士と連携し、落ちこぼれの子供達、知的障害者もアトリエに迎え治療活動の一旦を荷なっている。つまり私のアトリエは私個人が私的に使っているのではなく、むしろ公共空間として機能している。
そこで、このフリッシュに出資している市、県、地方議会そして国の文化行政担当官に経済的困窮を陳情した。「貰っている助成金は僅かで、今まではそれでも成り立って来たが、この様に家賃が上がっては到底活動が出来なくなる。Bamboo Orchestraの芸術文化活動の意義、功績を認めてくれるのなら、助成金を増やすなり何らかの対応をしてくれないと困る」と。
陳情の甲斐あって文化行政担当官もBamboo Orchestraに注目し、地区の文化行政官が市のトップの文化行政官に直訴してくれるなど、じわじわと効果が出てきた。まだ実際に助成金がどの程度アップされるか回答はないが、Bamboo Orchestraの財政的危機を乗り切れる希望は出てきた。そして冒頭に書いた様に、今年の欧州文化首都行事に絡んで、フリッシュのある市の行政第2区の市長がBamboo Orchestraの活動を多いに評価し、開会式での演奏を依頼して来た。元々この欧州文化首都行事の趣旨には、「地元市民の芸術文化への参加」が謳ってある。だからプッスの活動など、市民参加活動を推進して来たBamboo Orchestraが注目され評価されるのは、当然といえばとうぜんの話なのだ。

■二つの新建造物

ともかく今年一年間、ヨーロッパの中でマルセイユ市は訪れるに足る場所であることを請け合います。観光ガイドは私の任ではないけれど、この期に新築された二つの建物を紹介しておきます。ひょっとして、これを読んでいる貴方も今年マルセイユを訪れる機会があるかもしれない、、、。 
マルセイユ第一の観光名所、ヴューポー(Vieux Port/旧港)。御存知の様にマルセイユは2600年の歴史を誇るギリシャ文明時代から栄えた港街。現在でもマルセイユの港には大型客船や貨物船が往来しているが、それは北側に作られた新港(昨年私がチュニスに向けて貨物船で出発したのもこの港)で、この由緒ある旧港の方は、レジャー用ヨットハーバーとして利用されている。その旧港の出口右手、フォー・サンジャン(Fort St. Jean/聖ジャンの砦)の外側にあるJ4(ジーキャトル)と呼ばれていた埠頭にこの二つの建物が並んで建てられた。
Le Musee des Civilisations de l’Europe et de la Mediterranee(ヨーロッパ・地中海文明博物館、略してミュセムMuCEM)は、アルジェリア生まれのフランスの建築家リュディ・リシオッティ(Rudy RICCIOTTI)の作品で地中海文明の歴史を物語る博物館。一方Villa Mediterranee(地中海の館)はイタリア、ミラノ生まれのステファノ・ボエリ(Stefano BOERI)の作品で「地中海に於ける対話と交流の国際会館」(Centre International pour le Dialogue et les Echanges en Mediterranee)という副題がついている様に、地中海地方の現代の文化交流に焦点を当てている。


<MuCEM>

<Villa Med>

地中海を挟んで北にはギリシャ、イタリア、フランス、スペインというEU諸国があり、南側にはエジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコというアラブ諸国が向き合っている。これらの国々は、ギリシャ文明時代から地中海の海の貿易で繁栄し、また時には侵略されたり、、、という歴史をたどって来た。昨今は南側アラブ諸国からの移民問題で、北岸の各国は頭を悩まされている。現在の政治的、文化的諸問題を解決するためには、地中海文明の歴史を理解し、協調し合うことが不可欠。その意味でこの二つの建物は重要な存在というわけである。日本人にとって地中海文明の過去と現在の課題?、、、といってもとりたてて関心を示せないかもしれないが、紺碧の地中海に立つこの二つの近代的な建物を外から見るだけでも、なかなかの景観だと太鼓判を押しておきます。

<Villa Med & MuCEM>

フランス便り No.25
貨物船の旅/チュニジア公演                      矢吹 誠 (高22回)

雲一つない空色の天空、水面には小さな白波が所々に立ってはいるものの、穏やかに広がる藍色の海。そして見渡す限り一巡り360度、切れ目無い一本の水平線が この二つの世界を隔てている!降り注ぐまぶしい夏の太陽の下、私の乗っている貨物船は遥か水平線の彼方にまで真っ直ぐな航跡を引きながら、ひたすら地中海を北上している。

右舷遠く水平線に島影が見えはじめた。チュニスを出発して既に8時間は経っているだろうか。この航路にある島といったらイタリア領サルディニア島に違いない。しかし誰かに尋ねようにも、グングングンとうるさいエンジンの音以外船内には物音がしない。朝の9時なのにまだ皆眠っているようだ。船員達は全員ムスリムでラマダンのこの時期、朝が遅い。

2012年8月、Bamboo Orchestraはチュニジアのハマメ(Hammamet)市の国際フェスティバルに招待された。7月、8月の二ヶ月間に渡って、チュニジア文化省が後援する大掛かりなフェスティバルは、カルタゴ、メディナ(双方チュニス市内)とハマメ市の三ヶ所で、世界中から毎週入れ替わり立ち代わり様々なグループが100組近くも参加する。私は昨日コンサートを無事に終え、今は帰国の途。うちの小型トラックと共に貨物船に乗り、チュニスからマルセイユの港に向かっている。


<ハマメ国際フェスティバルのポスター>

■楽器輸送

4月のロシア公演の折にも触れたが、楽器の輸送には毎回頭を悩まされる。
8年前、前回チュニジア公演時には飛行機のカーゴ便を使った。
旅客機の手荷物スペースには、竹楽器を分解して収納した1メートル四方の木箱数個、合計700kgは受け入れてもらえず、演奏者と同じフライトでの運搬は無理。
マルセイユ、チュニス間には毎日何便もの旅客便があるけれど、カーゴ便はパリから週一二便しか無い。
そこで、楽器だけ一週間以上も前にパリまで陸路運びカーゴ便に乗せるという大変な手間を費やした。
チュニスはマルセイユから地中海を挟んで目と鼻の先。
それなのに膨大な経費を掛けてチュニスとは逆方向、パリを迂回して運搬するというのは大いなる無駄に思えたのだ。
当時、国内公演では毎回レンタカーを利用していたが、レンタカー会社はトラックが国境を越える事を許可しなかった。幸い今ではトラックは自前。分解した楽器をどんどん荷台に放り込み、フェリーでトラックごと運んでしまえば一丁あがり!
税関通過の為のATAカルネ・リストだけは作成しなければならないにしろ、フランス国内やヨーロッパでの公演同様、荷造りの手間が省ける、、、と考えたわけだ。

ところがどっこい、とんでもなく手間のかかる手続きと、快適という言葉からは程遠い船旅が待っていた!


■貨物船の旅

人々が普通に車で船旅をする様に、軽トラックも旅客フェリーに乗せて貰えるのだと思っていた。うちのトラックはルノー社の「トラフィック」というキャミオネット(camionnette)。確かに形状はトラックだが、ちょっと大きめの乗用車、小型キャンピングカー程度の大きさで、車種の分類も乗用車扱い。ところが問題は中身。キャンピングカーなら、なべ釜家財道具一式で目的は観光。しかしBamboo Orchestraの場合観光ではなく、仕事。つまり、トラックの中身の楽器を現地で売るわけではないけれど、この楽器を使って金を稼ぐ、、、つまり商売を目的に商品を輸送している扱いになり、普通のフェリーではなく「カーゴ」つまり貨物船にしか乗せてもらえないという事が判明した。もちろんATAカルネも作らねばならず、事務的な手間としては全く変わらない。分解した楽器を各木箱に丁寧に詰める手間が省けた、という違いだけだった。その上、トラック運転手を追加で雇う経費を上乗せしていなかったから、結局他の演奏メンバーは飛行機移動、私だけがトラックを運転し、30時間もの船旅をしなければならない羽目となった。

船旅といえば、ビルディングの様な大きなクルーザー船(先日イタリアで座礁した様な)で地中海やエーゲ海を回遊する風景を想像するだろう。船には幾つものプール、映画館、劇場、レストラン、バー、カジノ等の娯楽施設が整い、暇を持て余す事はない。各寄港地で下船してのんびり観光する、2〜3週間に及ぶ贅沢な優雅なひと時。

ところが貨物船の旅は全く違う。娯楽施設は何もない。個室以外には運転手達の為の専用食堂兼休憩室があるだけ。ドドドドとエンジン音はひっきりなしに耳と体に響き、小さなデッキに出て太陽を浴びようと思っても、煙突から出る黒い煙からは重油を燃やした匂いがあたりを充満し、脇には大きなゴミ箱が並んでいてゴミの匂いが鼻をつく。デッキチェアーもなければ何もない。、、、

帰国の船旅の場面から書き出したけれど、この貨物船による苦難の地中海往復航海はマルセイユを出港するところから始まった。


<貨物船アミルカー号>

<船倉の我が小型トラック>

<地中海クルーズ船>

■ラマダン

船内ドライバー専用食堂のテーブル。私の隣でディネ(晩飯)を頬張っているのは金髪のアイルランド人運転手。向かいのテーブルではもう一人アラブ人運転手がテ−ブルに食事を並べ、窓越しにそわそわと沈む夕日を眺めている。最後の太陽光線が水平線に消えるのを確認すると、安心してやおらグラスにミルクを注ぎ始めた。

今はラマダン、断食月。私の乗った貨物船アミルカー号(Amilcar)はチュニジア船籍。船員は全員ムスリムだ。しかし、異教徒の私とアイルランド人運転手は別扱い、昼食も二人だけには特別に用意された。給仕を担当する船員はテーブルで待っている私たちに食事を運んで来てくれるけれど、本人は日中水も食事も我慢しているから、なるべく運んで来る食べ物を見ない様に目線を逸らしている。その様な仕種で提供される料理を嬉々として食べる気になれるだろうか?食事は与えられるけれどあまり食欲は湧かない。食事と一緒にワインを飲みたいと思っても、もちろんアルコール類は船に積んでいない。

カーゴ船の荷物は満載ではなかった。二階建ての上の階にはコンテナが何十となく平積みされているが、下の階、私がトラックを停めた階は半分以上のスペースがガランとしている。船員達に聞いてみると、ラマダン時期は貿易関係業者も仕事を休んでいるので荷物が少ない、ということらしい。一方、同船したアイルランド人運転手は、何と大型トラック一杯の羊の肉をアイルランドからチュニジアに運んでいるのだという。この時期、アラブ諸国で羊肉の消費が格段に増えるのだと知った。

断食。私たち日本人は断食といえば仏教徒の断食を想像する。数日間何も食べずに瞑想にふける。比叡山延暦寺の千日回峰行では、生命の危険も伴う極限の断食をするとも聞いている。しかしムスリムの断食はこれとは違う。

私も回教の掟について詳しいわけではないが、ラマダン期間は、昼間太陽が出ている間は食事をしない、水も飲まない。しかし太陽が沈むやいなや食事をする。そして太陽が出ると日中の我慢が始まる、、、という日々を一ヶ月あまり続ける。昼間食事をしないと力も出ないだろうから、いわゆる肉体労働者達は大変だろうなあ、と同情してしまうけれど、何の事はない。その期間はあまり働かない、、、というわけで、働く事を是とする日本人とは根本的に考え方が違う。

ちなみに、件のアラブ人運転手に
「何で昼間食事をしないの?」と、極めて素朴な質問を投げかけた。
「???ラマダンだから、、、神が決めたからだ」と答える。
私はしつこく、「一体なんで神がそう決めたのだと思う?」と意地悪な質問をした。、、、彼はしばらく考えて答えを探した。
「時々胃を空っぽにする事は健康に良い」そして「世の中では食べるものがなく飢餓で死ぬ人もいる。その人たちに思いを寄せる為にラマダンをするのだ」
「だったら、仏教徒の様に数日続けたらどうなの?」
「それは体に良くない。例えば病人はラマダンをしない」
「それに私の様に旅をしている時はラマダンをしなくても良いという決まりがある。、、、でも私は実行している」

やはり回教徒の考えを理解するのに私は限界を感じた。そもそも、一つの宗教を信じ戒律を守るという行為が、私には理解できない。それはさて置き、、、

■チュニスの港で

カーゴ船は翌日午後、日差しが少し傾きかけた3時頃無事にチュニスの港に入り、コンテナが山積みになった桟橋に接岸した。桟橋では大きなクレーンが隣の桟橋のカーゴ船からコンテナを釣り下ろし、下で待っているコンテナ専用の巨大フォークリフトに渡し、フォークリフトは次々にやって来るコンテナ専用トラックに積むといった流れ作業が船の上から眺めている私の眼下に広がっている。しばらくしてアイルランド運転手が下船準備にトラックに向かおうと誘うので、私も私物のトランクを抱えて狭くて急なはしご段を何段にも渡って降り、船倉のトラックに向かった。

後部ハッチは既に開いており、すぐに私はトラックをバックさせ下船する態勢に入った。すると出口で私に手を振って静止を求める人が居る。

「私は文化省の外交担当官で、貴方を3時間も待っていたんだよ、すぐに警察署で入国手続きをしよう」と、助手席に乗り込んで来た。私は初対面で些か面食らったが、港には文化省の人も待機してくれているだろう、、、という情報を事前に得ていたから、彼を乗せて桟橋脇の警察署にトラックを着けた。

「パスポートを出してくれ」とトラックから降りながら担当官モハメッドはいきなり私に要求した。警察で入国手続きをするのにパスポートが必要なのは判るけれど、パスポートは船長が保管していて、私の手元には無い。マルセイユで乗船する時「船旅中は船長がパスポートを保管する決まりになっている、下船の時に船長から受け取る様に」と聞かされていた。しかし下船の何時、どの様な状況で渡してくれるのか等、詳細は何も知らされていなかった。「何でパスポートを携帯していないんだ!」と私を咎める様に詰問して来たモハメッドに事情を説明し20分ほど待っていると、船員の係員が私たち3人のトラック運ちゃんのパスポートを持って警察署に現れた。やれやれパスポートは無事だった!

モハメッドはアラブ語で書かれた入国書類にさっさと書き込み、警察署を後にした。それにしても暑い。サハラ砂漠南のブルキナファソ程でなく我慢できる程度の暑さではあるが、マルセイユに比べると格段に暑い。今度はトラック荷物の入国審査、少し離れた税関に出向いた。

税関には、青い税関吏の制服を着た若者が一人ぽつんとカウンターの向こうにいた。モハメッドが一生懸命説明しているのだけれど話が空転しているようだ。アラブ語だから内容は全く判らないが、話が一向に進展していない事は雰囲気で判る。ようやく、警察署の裏に置いて来たトラックに行って税関吏が中身を一瞥する、、、という段取りになり、三人で出口まで来た。ところがそこで税関吏が携帯電話を取り出し誰かと話を始めた。モハメッドは私に、
「ちょっと待って、いま彼は上司と話をつけているから」
、、、それからかれこれ30分待たされた。
モハメッドはまたその若い税関吏と激しく言い争っている。
、、、また待たされた。
ようやくモハメッドが私に打ち明けた。
「今日は日曜日だから、書類に押す許可印が手元に無いんだと、、、」

上司は下っ端役人を事務所番として派遣しておきながら、肝心の許可印を渡していないのだ。でも、どうやらその許可印をボスが持って来る気配がないから、手続きは出来ない、という。税関事務所で1時間以上も待たされた挙げ句、今日はトラックを港から出せないという事が判明した。文化省の役人が付き添って交渉してこの始末だ。

諦めて税関の建物を出、車に戻ると
「あいつはくずだ。働く気が全く無い!」
とモハメッドが吐き捨てた。「ラマダンでも働いているのは、私たち文化省の役人だけだよ、この国では」と自嘲した。
日差しを避け、トラックを屋根のある場所に移動し、モハメッドは私をホテルまで送ってくれた。

■翌日また港へ

律儀なモハメッドは朝早く私をホテルに迎えに来、二人で港へと向かった。朝8時だというのに既に熱気を帯びた風が窓から容赦なく吹き込む。彼が使っているルノー「カングー」は文化省の車だけれど、冷房が付いていない。

港に着くとまず税関の建物に入った。今日は平日月曜日だから、ロビーは手続きに訪れた多くの人で溢れ、青い制服の税関吏も沢山いた。沢山「働いていた」というより、沢山「いた」というのが正直な印象。モハメッドが窓口の税関吏にATAカルネの書類を呈示して説明しているが、また話が進まない様子。彼は私を連れて出口に向かった。「コネッスモン(connaissement/船荷証券)の書類はあるか?」と私に聞く。この専門用語の書類は既にマルセイユで運送業者(Transitaire)の担当者モイーズから下船の時に受け取る様にと聞かされていたが、そういえば船長も船会社も下船時に渡してくれなかった。その書類を探しに今度はコトゥナヴ船会社の建物に向かった。

窓口の年配の女性係員相手にモハメッドがしばらくすったもんだしている。私は彼の後ろで事の進展を眺めていると、隣の窓口から私を手招きする男がいる。しかしアラブ語は判らないから、「前にいる彼と一緒にこっちの窓口で交渉している最中だから大丈夫、私に声を掛けてくれなくてもいいよ!」と、私はモハメッドと自分を交互に指差して丁寧に断るジェスチャーをした。ところが彼はガラスの向こうで茶封筒を指差しながら私に執拗に話しかけてくる。私は隣の窓口に近寄った。よく見るとそれは私の名前が書かれた茶封筒だ。恐らくこれが私とモハメッドが探している件のコネッスモンだと直感したから、モハメッドを呼んだ。モハメッドは極めてまじめな男だが、機転が利かない。やっと彼は状況を把握して隣の窓口に来た。そしてコネッスモン書類を受け取ると、今度は私のパスポートと車検証をコピーする為に別の部屋に赴いた。そこで、今度は別の担当者と言い合いが始まった。また何か別の問題が生じた事は判るが、割り込むわけにはいかないからまた後ろで見守っていた。モハメッドは私を連れてロビーに出た。

「コネッスモン書類の荷物受取人欄に、貴方の名前が書かれている。本来なら『チュニジア文化省ハマメ・フェスティバル』と書かれていなければならない欄に!これは書類を作ったマルセイユの運送業者のミスで、受取人が私の個人名になっていては、フェスティバルに参加する為に楽器を運搬した事にならない。すぐに訂正した書類をこの船会社に送る様、マルセイユの運送業者に言ってくれ」と私に言う。

「コトゥナヴと運送業者はいつも仕事をしているのだから、船会社から直接運送業者に訂正書類を送る様に頼めないの?」

「このミスはマルセイユの運送業者の責任であって船会社の責任ではないから、船会社は何もしない。貴方が直接マルセイユの運送業者に訂正を依頼するしかない」というのだ。

そこで、マルセイユにいる妻のナディンヌに携帯電話のSMSで事情を説明し、件の運送業者に掛け合う様に、、、と送った。

幸いこれはすぐに連絡が付き、数分のうちに訂正メールがチュニスの船会社の事務所に届いた。モハメッドはロビーで待っていた私に、「良かった話はついた」といい残して又別のオフィスに出掛けて行った。私はロビーで待つ事また2〜30分。モハメッドは戻って来るなり、
「これから文化省のオフィスに行こう」、、、と私を車に促した。何でここで急に文化省に出掛けなければならないのか?全く理解できなかったが、私は質問をせず彼に従った。文化省の建物は、港から車を飛ばして約25分。すべての官庁が集まっているチュニスの西地区カスバにあった。既に10時を回っている。移動中の車の中で、何故文化庁に行く必要があるの?と 質問すると、
「フェスティバルが貴方とトラックの船賃をまだ払っていない。船賃は当然既に支払済と思っていたが。だから打開策として緊急に文化省が直接払う事にし、文化省の印を押した書類を取りに行かなければならないのだ」

本来フェスティバルが支払う段取りになっていたのに、急に文化省が直接出費しなければならないとなると、文化省の経理担当者に事情を説明して納得させなければならない。文化省のオフィスのあっちこっちの部屋を尋ね回り、ようやく文化省が支払うという確約書類を作成し、印を携えて又港に向かった。文化省で40分、港と文化省との往復に50分、合計一時間半が経過した。

ところが、船会社に戻ってまた一悶着。文化省は他の件でこの船会社を利用した際に未払いがある。だから、今度も支払うという確約書類を持って来たからといってOKするわけにはいかない、と撥ねられたのだ。ここでモハメッドは担当者とまた言い合いになった。、、、

これ以上の詳しい説明は省く。トラック全体をスキャンする為に巨大なトラックスキャナー場まで行ったり、コンテナを積み降ろしする巨大なフォークリフトや、大型コンテナを搭載したトラックが猛スピードで縦横無尽に行き来する隙間をかいくぐり我がトラックを走らせ、数々の書類を揃える為に港の施設内を右往左往。猛暑の炎天下の港で手続きが終わったのが何と昼の3時!楽器を積んだトラックを港から外に出す為だけに二日間、延べ10時間以上も費やした!


■ジャスミン革命

チュニジアといえば、昨年アラブの春の火付け役になった国。32年間に渡って独裁を続けたベンアリ一族を民衆の蜂起で追い出した画期的な革命があった国だ。

私は道すがらモハメッドに、「あれ以来この国は変わったのですか?」と質問すると
「蚊が増えた位かな?、、、」と謎を掛けて来た。
新しい政府にはなったけれど、経験不足な者ばかりで、蚊の様にブンブン飛び回っているだけであまりはかばかしくない、、、と、どうやらそんな意味らしい。

「ベンアリ時代の方が政治はスムースに行っていたね」
「え、そう?」
「だけどベンアリ一族は大泥棒だったから、追い払えて清々したよ」
通り道にあった巨大な美しい高層ビルは、ベンアリの娘婿の所有だった銀行で、今では政府が管理しているとか。ホテル近くの曲がり角にあった工事半ばの大きな民家を指差して、これはベンアリの女房の兄の持ち物だったけど、差し押さえられてこの通りほったらかしさ、、、と笑った。

アラブの革命は、決して民主主義や自由というヨーロッパ的価値観を求めてもたらされているわけではない。そこが非常に難解なところだ。チュニジアでの革命は、 高い失業率に憤る若者が中心となったデモから、ついに富を独占していたベンアリ政権を倒し一族を追放した。しかし、民衆は新政権にどの様な政策を期待しているのだろうか? そこが極めて曖昧である。ベンアリはむしろイスラム主義を弾圧しヨーロッパ流の自由主義を推進していたから、政権時代に弾圧されたイスラム主義が復活する傾向にある。政権が弱いと、今度は軍部によるクーデターが起こるかもしれない。

「 フェスティバルのプログラムを見れば判るだろうが、今年のフェスティバルの半数以上の出演者がアラブ世界からだ。この右傾化はイスラム主義の復興を意味している。これからまた何が起こるか人々は不安で落ち着かず、人間関係が刺々しくなっている。来年には総選挙があるが、それまではこの不安定状態が続くだろう、、、」

文化省で働き、インテリと思われるモハメッドは、冷静にそうつぶやいた。


<ベンアリの娘婿の銀行だった>

■コンサート

ハマメ市のコンサート会場は、ローマ式劇場を模して野外に作られたコンクリート製の円形劇場で、Bamboo Orchestraにとっては申し分なかった。多くのフェスティバルでは、1〜1,5mの高さに仮設された舞台上で演奏し、聴衆は地面に位置するという設定が多い。ロックなどのコンサートで、シンガーが間口の広い舞台の上を行ったり来たり、飛んだり撥ねたりして聴衆を乗せる、、、にはこの様な舞台が相応しいかもしれない。しかしBamboo Orchestraの音楽はそういう種類の音楽ではない。まず視覚的に楽器群が聴衆からよく見渡せなければならない。つまり聴衆は演奏者より上に位置し、舞台全面に展開されている楽器群と演奏者の動き全てが視野に入って、初めてBamboo Orchestraの音楽の全体像が理解できる。だから、ローマ式円形劇場空間は、私たちのコンサートにとっては理想的な舞台と言える。

しかし、 実際には様々な条件が重なり、現場での準備は困難を極めた。

第一の理由は、日中は猛暑で現場には日陰が無いため、楽器のセッティングは陽が傾いた夕方遅くからしか出来ず、リハーサルの時間がほとんどとれなかった。その上陽が沈んでも30度近い気温で、急遽全ての楽器の調律を通常のA=440hzから何と444hzにまで引き上げなければならなかった。

第二の理由は、予算が限られていたため音響と照明を現地スタッフに任せたこと。もちろん現地スタッフは優秀だったけれど、初めて見る楽器と初めて聴く音楽世界を理解して対応してもらうには、時間があまりにも短かった。前日夜には別のグループのコンサートが朝の一時まで続き、それが終わるのを待ってからスタッフとの打ち合わせ。その後、太陽が昇る朝五時までの3時間で照明のセッティング、、、

それに、聴衆が少なかった事。千人を楽々収容できる観客席スペースに、たった200人程。これでは、演奏する側ももう一つ気が入らない。前回ロシア公演の様に、会場を埋め尽くした聴衆の溢れる熱気は期待できなかった。これはフェスティバル側の宣伝不足のせい。

以上の様に、私としては決して満足のいくコンサートとは言えなかったけれど、少ない聴衆のわりには手応えがあり、コンサート終了後の記者インタビューにも熱気がこもっていた。

インターネット新聞“AllAfrica”紙に幸い好意的な批評記事が出ていますので、日本語訳して掲載しておきます。(それにしても文学的表現の翻訳は難しい! )フランス語の判る方はぜひ原文を読んで頂くことを御勧めします。
http://fr.allafrica.com/stories/201208110674.html



チュニジア:ハマメでのバンブーオーケストラ
オリジナルで斬新
それはオリジナルで愉快なコンサートだった。世界的な文化の坩堝、マルセイユからやってきた彼らは、先週火曜日、ハマメの劇場の舞台で夏のひと夜を楽しませてくれた。
彼らは着物風黒ずくめの衣装をつけ、足は裸足。演奏者達は竹から引き出した革新的な音色をベースに、その夜、なんとも独特な音楽を聴衆に披露した。「ある日、彼らは竹に出会った」と題されたコンサートは、演劇的な演出と斬新なリズムによる曲構成で彩られていた。
様々な形と大きさによる竹製楽器の数々は、例えばマウイ(これは大きな竹筒)、そしてまたシズク(極小さな筒)、『竹マリンバ』(竹製のマリンバ )など。演奏者達はその夜のコンサートの間 、小さな楽器による優しい音色から、日本の伝統音楽、インド、アフリカ、中近東音楽を取り込み創作された打楽器の大音響まで、それらの楽器を縦横無尽に駆使した演奏は、多文化が共存した祭り空間を彷彿させた。
1994年に創設されたバンブーオーケストラ。このオーケストラの創設者、日本人ヤブキが私たちに伝えたいメッセージは、自然の素材で作られた楽器によるエレクトロアコースティックな音響という、一見迂回した方法を用いた芸術信念の探求を特徴としていた。
自然からのインスピレーション、様々な音楽ジャンルの混淆という音楽スタイルから、彼は芸術活動を通じて環境保護の必要性、また自然に対して人間が果たすべきより多くの役割があるのだということを、 聴衆に訴えたのである。
一つの斧を手に持ち、ヤブキは舞台上で竹を割って楽器を作って見せ、取るに足らない竹片からどのように彼の音楽世界が作り出せるか、と聴衆に披露して見せた。
一方聴衆は、音のバイブレーションと辺りを圧倒するエネルギーあふれる舞台に接し、竹製鍵盤楽器の演奏から、またこの植物が繊細な音色を醸し出す打楽器として変貌するのに立ち会うとき、 この素材、竹の音楽的可能性を明白に認識させられた。
演奏者達が手持ちの楽器を携え観客席の直中で演奏したとき、その音色は心地よく優しく響いた。
ヤブキが奏するフルートの高音の激しいリズム、また繊細に奏でられる低音は、太鼓の激しい音色とも見事に混じり合い溶け合い、全体としてハーモニーに満ちた曲想となってコンサートは続いていった。
様々な文化、文明の出会いを伴い、高度で色彩豊かなコンサートを通じてこのグループが私たちに喚起したのは、自然の直中への真なる旅。そして時折コミックな表現も交え、観客に「生きる」ということについての新しい視座を提起してくれた。
協力して練り上げられた仕事の成果 、言葉では言い尽くせない豊かなハーモニー(調和)は、聴衆を魅了しつくした。「残念な事に」聴衆は少なかったけれど。
H. SAYADI


<ハマメの円形劇場>

<舞台で楽器のセッティング>
P.S.

いやはや、大変な時期にチュニジアでのコンサートを引き受けたものだと今になって納得しています。
アラブ民主主義運動のサイトAssawraによれば、
http://www.assawra.info/spip.php?article681
チュニジアで8月中旬以降、イスラム原理主義者(Salafistes)達が、彼らの理念にそぐわない出演者のフェスティバルを妨害し始め、負傷者まで出ているようです。イランのシーア派系の神秘主義スーフィーのグループが出演する予定だったフェスティバルも、スンニ派原理主義者は冒涜と決めつけ中止に追い込まれた様です。また、この事態を警察は見て見ぬ振りをしている、、、とイスラム主義に傾いた政府の責任も追及しています。
どうやら私たちの公演の聴衆が少なかったのは、この微妙な時期にBamboo Orchestraのコンサートの宣伝をフェスティバル側はあえて控えたため?、、、無事に上演出来ただけでも運が良かったということでしょうか。

☆コンサート風景☆

以下の写真はAlexandra Azarova氏撮影










フランス便り No.24
本エッセーのロシア公演が取り上げられた番組をyoutubeで視聴できます→こちらクリック
ロシア公演                      矢吹 誠 (高22回)

カーテンの隙間から眩しく突き刺す朝の光で目を覚ました。積もっている雪の反射で太陽光線白く鋭い。

記憶がうっすら蘇ってきた。昨晩はツアー最後のコンサートを無事に終えた開放感が手伝ってしこたまヴォトカを飲んだ。かなり羽目を外したけれど、今私はホテルの自分の部屋のベッドの中でちゃんとこうして横たわっている、、、やれやれと一安心した。

ボーとして酔いはまだまったく醒めていない。ふらつく足でベッドから起き上がると、いつも腰に付けているウエストポーチを探した。ジーンズは椅子の背に掛けてあり、ソファーの上には厚手のジャケットがいかにも昨晩の無礼講を物語る様に乱雑に脱ぎ捨ててある。しかしその脇にも、捲ってみてもその下にも無い。おい、冗談じゃない!もしパスポートを紛失したらこの国から出られなくなる、、、。

冷静になるように自分に言い聞かせ記憶を辿ってみた。昨夜はセベロドゥヴィンスクの街でコンサートを終え楽器を片付け、トラックと共にマイクロバスでホテルのあるアルハンゲルスクの街に戻った。荷下ろしをしようとしたらトラックが雪にはまって立ち往生。それが解決しやっと楽器群をトラックから劇場のロビーに降ろした。夜の11時頃。それから宿のホテルに戻って食事をし、その後フェスティバルのアシスタント・コーディネイターのマリア嬢とうちの若いメンバー達が飲みに行こうと私を誘った。ディスコは嫌だと断ったがレストランだからというので、コンサートも盛況裏に終わったことだし若者達に付き合うことにした。そこでヴォトカの1リットル瓶をオーダーし皆で飲み始めた。既に夜中の1時をまわっていた。間もなく閉店時間になり、そこだけでお終いにしてホテルに戻るつもりだったはずの私は、気が大きくなって結局ヴォトカの瓶を上着の下にこっそりしのばせ若者達と一緒に次のディスコ目指してハシゴすることにしてしまった。マイナス20度の雪が凍り付いた夜道を半分程まだ瓶の中に残っているヴォトカをラッパ飲みで回し、ばか騒ぎをしながらディスコに向かった。ところがマリア嬢が指定したディスコが閉まっているではないか。寒さの中で悪態をつきながら引き返しまた別のディスコに向かった。しかしここも閉まっている。仕方なく夜中でも空いている商店を探し(といっても恐らく不法営業なのだろう、全く目につかない場所にその店はあった)、そこでまた新しい飲み物を調達してホテルに戻った。私の部屋ではない誰かの部屋で宴会の続きが始まり、そして私は酩酊し、、、。

<コンサートのポスター>

<劇場の舞台で照明の準備中>


公演は大盛況
数ヶ月前、アジョンス・アーティスティックのローロンス女史(Bamboo Orchestraのマネージャーをしてくれている)から、ロシアの北の果の街で開催されるフェスティバルから招待が来ている、、、と知らされていた。しかし、恐らく実現はしないだろうとあまり本気にはしていなかった。なぜなら我々Bamboo Orchestraのコンサート自体は月並みな値段だけれど、700kgもある楽器の輸送経費は馬鹿にならない。首都モスクワでのコンサート、あるいはツアーで何カ所も回るコンサートならまだしも、一カ所のフェスティバルが単独で楽器の輸送費まで払えるわけがない、と高をくくっていたのである。ところが話は着々と現実味を帯びて、公演の二週間前にはロシアからはるばるトラックがマルセイユまで楽器を取りに来、その後私たちはマルセイユから飛行機でアルハンゲルスクへと向かったのである。

自ら主宰するグループBamboo Orchestraだけでなく、他の演奏グループへのゲスト参加も含めれば、今まで30年以上に渡ってコンサート活動をして来た。しかし今回の様に私自身がスター扱いを受けたのは初めてである。

コンサートの大団円、総立ちの聴衆を前に3回程のカーテンコールに応え、やっと拍手が遠のき我々は楽屋に戻った。汗を拭い、ペットボトルの水を直接喉に流し込み乾きを癒す。楽屋の前には、既にファンの人だかりが待ち構えている。ロシア語で口々に賞賛の声を浴びせてくれるが意味は判らない。スパシーバ、スパシーバ(ありがとう)と唯一覚えたお礼の言葉を連発し、握手をして人ごみを後にする。我々がロビーに顔を出すやいなや一斉に人々が押し寄せる。まずは記念写真撮影だ。人々は順繰りに友人にカメラを渡して私やメンバーの横にすり寄り肩を組み、腰に腕を回して記念写真、これが10分程続く。そしてサイン攻め。プログラムの上、CDの小冊子の上、差し出される紙切れに、、、とサインをし続ける。そうこうしていると関係者にテレビインタビューが待っているからと耳打ちされ、名残惜しそうに視線を送るファン達に手を振り早々に切り上げる、、、。

これはまるで、何処かで見た事のあるスターと彼を取り囲むファンの光景。そのスターの役を今回は私自身が演じているとは。

そんなわけで冒頭の話に戻れば、ヴォトカをがぶ飲みしたせいで最後に飲んでいたのが誰の部屋だったかも覚えていない。酔っていても道すがらウエストポーチを外すはずもないから、恐らくその部屋に置き忘れたのだろう、、、二人部屋だったから若いニコラとナタナエルの部屋にちがいない。早速フロントに降りて彼らの部屋番号を聞き、扉を叩いた。激しく叩くノックの音に仕方なくニコラが寝顔で顔を出した。部屋に侵入し獲物を探した、、、あった!それはベッドの脇の床に確かに転がっていた。ホー、救われた!


<ロビーで記念撮影に応じるメンバー達>

<終演後舞台でTVインタビュー>

・スター?
「これからMakotoは国際的なスター(vedette)になる、貴方にはそれだけの資格があるのよ」と、同行してくれたローロンス女史は私の肩を叩いて太鼓判を押してくれるけれど、聴衆に取り囲まれサイン攻めに合う様なスター的扱いには、どうにも違和感がある。私がこの様な状況に慣れていないから半信半疑というだけでなく、スターとファンという人間関係は、いずれの側に位置しようと私の考えにはそぐわない。

舞台で演奏する仕事をしている以上、私のコンサート、私の音楽を聴衆が気に入ってくれる事を願っている。言葉を変えれば、聴衆に「受ける」為にコンサート活動をしているともいえる。しかしその「受ける」という事の内容が、普通のコンサートとは違っていたい、いや違っていなければわざわざ私が音楽をする意味が無い。私は本来「舞台で演奏家が演じ、聴衆はそれを受け取り楽しむ、、、」という音楽を巡る一般的な人間関係に疑問を持っているのだ。「だったらコンサート活動をしなければいいじゃない」、、、と言われてしまうかもしれないけれど、やはり私の音楽を直に聴いてもらうためには「コンサート」という形式以外の方法を思いつかない。

Bamboo Orchestraは、笛と打楽器を持ち替える私以外その他4名は打楽器奏者で、つまり基本的にインストルメンタルの竹打楽器演奏グループである。ポップス音楽の様に歌手がいて歌があるわけではない。だからいわゆる若者向きの音楽、ロックやテクノの様に聴衆を「乗せる」わけでもないし、ジャズの様にスリリングなフレーズに「酔わせる」わけでもなく、またクラッシック音楽の様に優れた作曲家の「名曲を再現」したり、私たちの「演奏技術を披露」してそれを賞賛してもらう、、、というのでもない。5人の演奏家が紡ぎ出す竹の音色、多くの人が初めて経験する竹楽器の音響世界、竹の醸し出す異次元の音楽世界を聴衆に直に体験してもらう、、、私の音楽はそういう種類のものだ。だから、聴衆が私の仕事を賞賛してくれるのは嬉しいけれど、私がやっているのはただ「自然の素材、竹というものに素直に耳を傾けた結果生まれた音楽を披露している」に過ぎないし、私に特別な才能があるのではなく「これは誰にでも出来る事、次は聴衆である貴方が試してみる番です」、、、というメッセージをむしろ伝えたいのだ。だからスターとファンという関係は私の考えとは相容れない。

一方、しばしば終演後聴衆が私のもとに来て「貴方のコンサートを聴いていたら、何か心が旅をした(voyager)という印象だ」「どっか別の世界に誘われた感じがする」と打ち明ける。心が旅をする、、、こういう感想は私の意図するところだ。私が作っているBamboo Orchestraの音楽は、私の個性を表面に出すのではなく、竹の響きの美しさや激しさ、、、つまり竹楽器ならではの音色の特徴を音楽として構成して聴衆に届ける。作曲している時の心境を言葉で表現するなら「竹の響きに寄り添う」、「竹の響きに心を開く」、「向こうから聴こえて来る音に耳を澄ます」というか、何か自我をとことん消し去って行く過程で、そこに音楽が立ち現れてくるという感触なのである。

そしてコンサートの舞台作りや音楽構成も、演奏家達が全面に出るのではなく、竹楽器、竹の音色を如何に聴衆に届けるかと、その事に腐心する。つまり竹がコンサートの主役なのだ。だから終演後、聴衆が私や演奏メンバーにではなく、楽器になってくれた「竹」にサインを求め、音楽を奏でてくれた「竹」と並んで写真を撮り、「竹」にインタビューを求めるなら話はわかる。ただ、もし本当にそんな状況が繰り広げられたら私達演奏者たちは少々淋しいかもしれないが、実はそれが本来あるべき姿なのではないか、と私は本気でそう思っている。、、、ただそれらの竹楽器を創作し作曲したのは他ならぬ私ではあるのだけれど。


<舞台袖から見た楽器達>

・真っ白な世界

冬期には気温が零下40度以下にまで下がる、北緯65度に位置するアルハンゲルスクの街にも春が来ていた。穏やかになったとはいえ4月上旬のこの時期、日中はマイナス5度、夜間はマイナス20度である。雪の中にまだ葉をつけていない焦げ茶色の白樺の林、 辻辻には四角いだけで殺風景な建物が連なり、車の轍が所々茶色の路面を見せはじめてはいるが、目に入るものはおおむね曇った空に凍りついた雪景色。

実はこの白海に面した地方は、冷戦時代外国人はおろかロシア人でも許可無くしては近寄る事の出来なかった場所なのである。それは、このアルハンゲルスク州で1950年代から70年代にかけて何百回もの核実験が行なわれ(同州内といっても核実験場はかなり離れた北極海のノヴァヤゼムリャという島)、又セベロドゥヴィンスク市は原子力潜水艦の基地でもある為、軍事機密上長い間隔離されて来た。そのせいだろうか、人々の表情は硬い。寒い地方に住む人々は、暖かい地方の人々より感情を顔に表さないという一般論は成立するだろうし、普通のロシア人でもあまり表情豊かとは言えないだろうが、この様な条件下が続いた地方、それも冬期は極寒のこの地では表情が硬くなるのはやむをえないだろう。ホテルの廊下ですれ違っても誰も挨拶をしない。レストランの給仕の女性に挨拶しても知らん顔だ。一方劇場で働いている人達は違う、にこやかに挨拶をしてくれる。

ドラムゥィ大劇場のすぐ脇は北ドヴィナ川の河口で、遥か彼方の向こう岸まで全面 凍り付いて川面は真っ白である。その氷の上では、ラジコン飛行機を楽しんでいる親子、カイトサーフィンの雪版、スノーボードとパラパントを組み合わせた遊びに興じる若者、クロスカントリースキーを楽しむ夫婦などを見かけた。我々は厚手のジャケットの襟を立て、スキー帽を目深に冠っても、氷の上を駆け抜ける雪まじりの風が冷たく、長居できずにそそくさと退散した。私の質問に案内してくれたマリアは「普段は居ますよ」と答えたが、氷に穴を開けて釣りをしている人は残念ながら見かけなかった。

「ここがアルハンゲルスクのシャンゼリーゼ!」と次にマリアが紹介したのは、確かに大通りで道の両側に商店やレストランが数十メートルおきにぽつぽつと点在している。後は雪が積もったまま凍り付き滑って転ばない様に一歩一歩確かめながらでないと歩けない歩道が両脇にあるのだった。その道はずれに唯一一軒あったおしゃれなコーヒー店で暖をとった。この春の始まりの時期、昼間太陽が1〜2時間は出ているだろうか?その熱で雪が少し溶けるけれど、また夜には降り積もり翌朝には真っ白な世界に戻っている、その繰り返し。シャンゼリーゼを訪れたこの日も、夕方から雪が横殴りに降り始めた。

<アルハンゲルスクの街、遠方は凍った北ドヴィナ川>

<ドラムゥィ大劇場>

・ロシア料理
ロシアでは人々はどんなものを食べているのだろう?と私も気になった。が、滞在中一般家庭を訪れる機会は得られなかったから、はっきりした事は言えない。方やホテルで出された料理にはあまり特色は無かった。まず前菜はマケドニア風サラダ。つまり野菜が細かく賽の目に刻まれそこにマヨネーズ味のソースが掛かったもの。野菜の種類は毎回微妙に異なっていて、時には魚介類も含まれていたりするが、見た目は毎回あまり代わり映えがしない。その後にスープ。中に少し具が浮いているコンソメスープ。そしてメインディッシュ。メインは魚のムニエルだったり、豚肉のカツレツだったり、鶏肉の揚げたのとかで、脇にポテトフライトやグラタンドフィノワが添えられている。それ以外には鶏肉のホワイトシチューからスープ気を抜いた様な、ジャガイモと人参と鶏肉が絡まっている料理とかがあった。

しかし食後のデザートがない。私は日本人で、殊に甘いものは敬遠する方だから気にならないのだが、メンバーのフランス人達は皆甘いものに目が無く、食後にデザートが出ないなんて全く信じられない!という顔をしていた。これは本当にフランス人達の変えがたい食習慣なのだ。

最後のオフの日、セントペトラスブルグで念願のボルシチ(Bortsch)を探してレストランに入った。それはウクライナ風ボルシチで、ビート(betterave)よりむしろトマトソース味。食べやすく美味しかったけれど、イメージしていたこってりしたロシア料理!からは遠く、結局今回の旅では本格的な郷土料理は食べ損ねた。

・ロシア語
街で見かける看板はほとんどすべてキリル文字、アルファベットは道路名の標示 (外国人の為に)位しか見かけない。ロシア語はキリル文字で書かれる。キリル文字はギリシャ文字から発展したもので、ABCのアルファベット(ローマ字)もギリシャ文字を起源とするから、いってみれば親を同じくする兄弟である。しかし、アルファベットに慣れた我々には厄介である。どう発音すれば良いのか全く想像がつかない文字も幾つかあるし、またRやNが逆になった文字とか、PはR、HはN、BはV、CはSの発音だったりするから、視覚から受けた刺激を頭の中で即座に別の音声に変換する作業を強いられる。初めはイライラしたけれど、これも頭の体操と考えて努力すると少しずつ看板の表記等が読める様になる。これは楽しい。止まれはストップ、会館はセンター、劇場はテアトルと、表記文字は違えども、ほぼフランス語や英語と同じ意味内容だったりするのだ。

今まで私はこのキリル文字を目にする機会はあっても、読もうと努力したことが無かった。文字だけでなく、ロシアの文化に今まで関心を持てなかった。日本とロシアは隣国でありながら北方領土問題もいまだに解決していないし、冷戦時代には敵国のイメージが長らく続いた。フランスやユニオンヨーロッパ諸国も、ガスや石油を輸入する隣国として経済的には重要視しているけれど、ソビエト連邦時代の軋轢をいまだに引きずり、政治的には関係が正常化しているとは言いがたい。

さて、初めての国に行く時は、空港でトラベル会話の本を買って飛行機の中で挨拶言葉だけは必ずマスターするという早業を私はいつも楽しんでいる。ところが、マルセイユ空港のキオスクにはロシア語トラベル会話の本が棚に並んでいなかった。しまった!でも何故売っていないのだろうかとよく考えて見れば、マルセイユからロシアへ飛んでいる直行便が無いからなのだ。今回の私たちの旅程もマルセイユ〜ミュンヘン〜セントペトラスブルグ〜アルハンゲルスクと乗り継ぐ便で、最初の着陸地はドイツだった。

そんな事もあろうかと、今回は事前にインターネットでロシア語を少しかじっておいた。挨拶言葉は、おはよう、こんにちは、こんばんは、と時刻に対応する挨拶もあるが、何時でも使えるズドラーストヴィチェがある、と知った。これは便利だ、挨拶はこれ一本で行こう。ロシアに着いて最初にタクシーの運転手に「ズドラーストヴィチェ!」と声をかけたが全く相手にされなかった。次にオーガナイザーのカッチャ嬢に試したが一笑に付されてしまった。ここでロシア語は挫けた。結構難しいのだ。カタカナ表記でもサイトによってズドラーストヴィッェ、ズドラーストヴィーチェ、アルファベット表記にもZdrastvuite、Zdravstvouittie 、、、など幾通りもの表記例があり、つまり日本語的発音もフランス語的発音も的確には対応していない。逆に、ドーブラエウートラ(おはよう)、ドーブルィジェーニ(こんにちは)、ドーブルィヴェイチェル(こんばんは)の方が簡単に通じる事が後になって判った。

コンサートの最後に、グループの代表として舞台から聴衆に挨拶するのが習わしだから、今回はドーブリエヴェイチェルとスパシーバの二言だけは何とか覚え、挨拶の冒頭で放った。これは幸い聴衆に受けた。しかしそれ以外ロシア語は知らないから、メンバー紹介は片言の英語で済ませ、その後Bamboo Orchestraを紹介する短いスピーチはカッチャに仏露通訳してもらった。幸い彼女はフランス語がぺらぺらなのだ。

<表示はすべてキリル文字>

・カッチャ嬢
第7回アルハンゲルスク「春の国際フェスティバル」と題された催しへの招待を受けたのは、そもそもこのカッチャ(Katia)が、我々Bamboo Orchestraをネットで見つけて興味を持ったことに始まる。彼女の説明によると、「一年中インターネットで招待するグループを捜す、それが私の仕事。今回は『これこそオリジナルだ』というグループはないだろうかとずっと検索していて、ついにBamboo Orchestraを見つけたの」と私に打ち明けた。彼女の地位は芸術監督補佐、しかし実際にはアシスタントのマリア20才に指示を与えながら彼女がすべての責任者としてフェスティバルを采配している様子だった。それも彼女は何とまだ26才!こんなロシアの片田舎(失礼!)にいながらフランス語が堪能だというのも驚きだが、この年でフェスティバルを切り盛りできるというのも飛び抜けた才能だ。スケジュール調整から、公演契約、外国から来るグループのチケットの手配、通訳、滞在中の演奏家達の世話、夜遅くまで各グループに付き合い、又朝早くから動き回っている、、、。それに難題が降りかかってもニコニコと笑顔を絶やさない。

丁度私たちが二日目のコンサートを控えた午後、セビロドゥヴィンスク市の劇場の食堂で昼食をしているあいだ、隣に座っていた彼女は料理に手を付けず携帯電話でひっきりなしに通話している。ロシア語だから会話の内容は判らないけれど、何か緊急事態が発生したようだ。「どうしたの?」と聞くと、次に来るグループが飛行機を乗り損ない別の飛行機を使ってモスクワ経由で来る。しかし、本来のルートでないため楽器が税関で引っかかり12人の楽団のうち半分が楽器を持たず手ぶらで今晩着く。明日のコンサートの為に楽器をすぐに調達しなければならない。楽器は特殊なものではなくアコーディオンとかトランペットだから楽器屋から借りることは出来るけれど、恐らく明日はてんてこ舞いを強いられるだろう、、、。そんな深刻な事態に直面していても決して笑顔を絶やさない。この若さでどうやってこんな柔軟で強靭な精神を身につけたのだろう、脱帽である。

<ローロンスとカッチャ>

「音楽」は実に神秘的なものだ。なぜなら、音楽は音を構成したものに過ぎないのに、それを聴くと人々は感動する。あるいは別の音楽には感動しない。何が違うのだろうか???紀元前5世紀、アリストテレスの時代から哲学者や美学者、あるいは音楽学者が音楽について様々なうんちくを傾けてきたけれど、何故「音楽」というものに人々が感動するのか?という抜本的な疑問には誰も答えを出せていない。 

今まで縁もゆかりも無かったロシアの最北の地、コンサートのお呼びが掛からなかったら一生出掛ける事などあり得なかった街で聴衆と出会い、私の音楽を聴いてもらい感動を共有した。音楽は国境や人種や言語を越えて直接心と心が通じ合える。こんなすばらしいコミュニケーションの手段は他に無い。私は音楽という仕事を選んで本当に良かったと痛感している。

さて、私がマルセイユに戻って既に一週間が経過したけれど、私の竹楽器達はトラックに揺られてまだ旅の最中。数日前、サントペテルスブルグの税関を無事に通過した、との一報を受け取った。まだポーランドあたりを旅しているのだろうか?主役の楽器達がマルセイユに戻って来て、ようやく今回のコンサート旅行が完了する。

<木箱に収められマルセイユに戻る楽器達>

☆コンサート風景☆






フランス便り No.23
2012年~2013年                          矢吹 誠 (高22回)

先日1月中旬、フリッシュのBamboo OrchestraアトリエにStudio Mobile(可動録音機器)が持ち込まれ、エリック・ベンジー氏(Eric BENZI)自らが調整卓の前に座った。最近の録音は、マイクから拾った音声を直接コンピューターのミキシングソフトの各トラックに入れてしまうデジタル形式なので、以前は不可欠だったテープレコーダーというものは姿を消し、小さなミキシングコンソールとポータブル・コンピューターだけで録音機材は済んでしまう。一昔前、録音スタジオに鎮座していた12ch〜24chのマルチトラック・テープレコーダーというのは、一人や二人では持ち上げることも出来ないような重く精巧な機械で、10cmも幅のある黒い磁気テープが高速で音も無くシュルシュルと回っていたのを思い出す。ミキシングコンソールだって二人掛かりでないと運べない様なしろもので、、、だからスタジオの外でマルチ録音をしようとしたら、機材の運搬、設置だけでとんでもなく大変な作業だった。一昔前?といってもほんの15年程前の話なのだから、この間のテクノロジーの進歩には目を見張るものがある。


さて、エリックはフランスのポップス音楽界では知られた人物で、長年ジャンジャック・ゴ-ルドマンと仕事をし、世界的に有名なカナダの歌手セリーヌ・ディオンに曲を提供したり、最近フランスの世論調査で好感度No.1といわれる歌手イアニック・ノア(カメルーン出身の元テニスチャンピオン)をプロデュースしたりしている売れっ子の作詞作曲家、アレンジャーである。

そんな彼が、パリからマルセイユのフリッシュまでBamboo Orchestraの録音に自らやって来るというのには、それなりの理由がある。この録音は、3月中旬にマルセイユで開催され、世界各国の大統領、首相、大臣クラスが参集する第4回世界水フォーラム(Forum mondial de l’eau/World Water Forum)の開会式で、250人の子供達がエリックの作詞作曲したPorte L’eau(水をあげよう)という曲を合唱し、我々Bamboo Orchestraが生演奏するためなのである。生演奏なのに何故録音が必要なの?と不可解に思うだろうが、各国首脳の開会スピーチのあと直ぐさま同じ会場に楽器をセッティングして演奏するという早業を強いられる段取りで、マイクやPA装置を設置して調整する時間も与えられておらず、、、だから、ここだけの話、いわゆるプレイバック演奏(クチパク)をするのである。

世界水フォーラム

「危機的な水問題についての意識を高め、最高決定機関も含めたあらゆるレベルにおける政治的なコミットメントとアクションを促すこと、地球上のあらゆる生命の利益のため、環境的に持続可能な形での効率的な対話、効率的な水の保全、開発、計画、運営、利水を様々な側面から行われるよう促すこと」Wikipediaにある訳をコピペ)を使命と掲げる「世界水会議」(World Water Council)が主催する世界水フォーラム」は、1997年以来3年に一度開かれている。(2003年第3回フォーラムは京都で開催された)

この趣旨を読んだら誰だって諸手を挙げて賛同するに違いない。日本やフランスなどの先進国では、水道の蛇口を捻ればすぐに水が出るし、その水も飲料水として何の心配も無く飲める。しかし世界中には、清潔な水を口に出来ない人々がたくさん存在しているという事は皆さんもご存知だろう。「水」という生命にとって不可欠なものが安心して手に入らない、、、これは人間の「基本的人権」にかかわる問題で、早急に解決しなければならない。だからこの「世界水フォーラム」は大いに意義があり、私も単に仕事としてだけでなく趣旨にも賛同してこの依頼を快諾したのだけれど、、、事情はそう単純ではないという事が、情報を集めるうちに徐々に判って来た。

世界の首脳が一堂に会し、水問題を話し合う世界水フォーラムなのだから、てっきり国連が主導しているのだとばかり思っていたのだが、この催しに国連はノータッチ。国連が定めた3月22日「世界水の日」の一週間前にタイミングを合わせて開催されるこのフォーラムを主導しているのは、マルセイユに本部がある民間のシンクタンク「世界水会議」(WWC)で、その代表はマルセイユ水道企業(SEM,Societe des Eaux de Marseille)の会長。そして、実はこの企業を傘下に置く世界的なグローバル水道企業スエズ社がバックにいる 、、、と舞台裏はかなり怪しげなのだ。

2006年にメキシコで開催された第4回フォーラム会場では、1万人規模のデモがあったという。メキシコ市民は、すべての人々に不可欠な水を民営化で私企業に独占されるのには反対だと抗議した。それまでに中南米ラテンアメリカ地域で、スペイン、アメリカ、フランスのグローバル水企業がウルグアイ、アルゼンチン、ボリビア等で住民との間で軋轢を起こし、スエズ社にいたってはボリビアでの水道事業を継続できずに撤退したという過去があったからだ。

中南米やアフリカの発展途上の国々では、国の予算が乏しいから公営水道敷設事業がはかどらず、そこに1990年代にグローバル水道事業者が参入した。水道敷設事業はある程度伸展したものの、企業は利潤追求が使命だから、結局水道代が払えない貧しい人々には清潔な水が届かないという矛盾があからさまになった。水道事業の民営化は「人々に公平に飲料水を提供する」という理想は掲げていても、現実は企業経営が優先され理念は反故にされてしまう。

海水が蒸発し雲となり、やがて山岳地帯や大地に降り注ぐ、、、という水の循環は、あらためて指摘するまでもなく地球規模で生起しており、河川にしても大河は国境を越え多くの国で共用されている。だからこそ、人類を含め地球上のあらゆる生物に不可欠な水を、国単位ではなく世界共通の資源として共有し有効利用するという協力体制は推進すべきである。しかし今まで開催された5回に及ぶ水フォーラムでは「水へのアクセス権は基本的人権である」という文章は宣言からはずされ、今回第6回目のフォーラムでも採択される見通しは無い。つまり、世界水フォーラムを水企業が主導しているかぎり、残念ながら企業の利益につながらない宣言は採択しないのである。

メキシコでの第4回フォーラム以降、市民運動側は「水を守る国際フォーラム」(Forum Alternatif Mondial de l’eau) いう運動を展開し、今回もマルセイユの別の会場で同時期にオルタナティヴ・フォーラムとして開催される。「水へのアクセス権」は「基本的人権」であり、すべての人々が享受出来てしかるべきものだ、、、という考えに基づく。正にそうあるべきだと私も思う。しかし現実に発展途上国の都市部で行なわれている水道事業は、公営と民営の間で揺れ動いているだけで結局本当に貧しい人々には清潔な水が届いていない。世界水フォーラムに参集している水道企業、国家の首脳陣が幾ら知恵を絞って美辞麗句を並べたとしても、所詮企業の利益優先という立場から逸脱することはないだろうし、又「水を守る国際フォーラム」に参集している市民運動側が「水は基本的人権」と抗議の声を上げても、それだけでは現実に貧しい人達に水が届くとは思えない。この両者が一体となって議論し、方策を見出さなければ水問題は解決しないだろうと私は思う。

だから今回我々Bamboo Orchestraの立場としては、「世界水フォーラム」では仕事として演奏し、又 「水を守る国際フォーラム」 には子供達のグループ、プッスを連れて支援表明の参加、、、とこの両フォーラムに二股を掛けることにした。

2013年ヨーロッパ文化首都マルセイユ

今年から来年2013年に掛けてこの2年間は、ある意味で私達マルセイユのBamboo Orchestraにとっても大きな転換期となるだろう。それはこの街マルセイユが「2013年ヨーロッパ文化首都」に指定され、ヨーロッパあるいは世界中から訪問者が激増すると予想されるからだ。これはスポーツで言えばオリンピック、あるいは産業における世界博覧会の文化版、ある意味で経済効果を狙った催しなのである。我々芸術家にとっては直接「経済」とは縁がないが、様々な催しが行なわれれば我々の出番が増えることは間違いない。

だからマルセイユでは、昨年から急ピッチで博物館、美術館,劇場の新築、改築が 行なわれ、因に私のアトリエのある旧タバコ工場の廃屋も全面改装の真っ最中である。今は仮住まいを余儀なくされているが、私のアトリエも5月には完成し入居出来る段取りで、今後はアトリエ内に一滴の雨漏りも無く、床上浸水の洪水に見舞われることも無く、のみやネズミの心配も必要なくなり、冬には暖房が入る!!! 以前は私のアトリエ近辺には水道もトイレも無かったから、訪れる学校のクラスの子供達は、先生が引率して数百メートルも用を足しに出掛けなければならなかった。

今まで18年間辛抱して来た仕事環境が改善されるかと思うとホットするが、一方で、芸術家にとっては逆に虐境的環境の方がハングリー精神をかき立てられ精神的にはむしろ健全なのかもしれない、とも思うから複雑な心境でもある。きれいに整備されてしまっては、今までの「フリッシュ」(廃墟)という名前までも返上しなければならなくなる。



さて、そんなこんなで皆が浮き足立っている昨今だが、私の立場は別の意味でも微妙だ。

私は 、何の生産性も無い「芸術」という不可思議なものを追求することに精魂を傾けて来た音楽家だけれど、私の才能、あるいはBamboo Orchestraの芸術性だけを高めたいと考えてきたのではなく、竹というエコロジーな素材を使って楽器を作り、一般の人々が「本当の意味」で音楽を共有できる方法論を模索して来たのだ。本当の意味とは:音楽家が音楽を商品として提供し、一般の人々はそれを受け取って消費するという経済関係ではない共有の仕方を指す。だから聴衆から拍手や賞賛をもらうコンサート活動も重要だが、一方でアトリエ活動、学校や病院での授業や講座にも同様に力を入れている。貧しい地区の子供達と一緒に竹楽器を演奏するのも私の重要な仕事なのだ。

フランスは日本より遥かに貧富の差が激しい。特にマルセイユは地中海の港町でアフリカ、アラブ系移民達であふれている。私が音楽を教えている貧しい地区の中学校ではクラスの90%以上が移民の子供達だ。街が整備され、美術館や劇場が増えることは喜ばしいことだけれど、果たしてこれらの子供達にもイヴェントの恩恵が届くのかどうか?「2013年文化首都マルセイユ」のテーマの一つに「市民の芸術参加」が掲げられているけれど。

ロシア公演


紅海や黒海なら、おそらく誰でもすぐに世界地図が頭に浮かび、それらが何処にあるか容易に指し示すことが出来るだろう。しかし白い海、「白海」(Mer Blanche/white sea)が何処にあるか知っている人はいるだろうか?、、、こういう私だってもちろん全く知らなかったのだが、この海はロシアの北西の果てフィンランドとの国境近くにある。ロシアは広大な領土を有する大国だが、北側の北極海は一年の大半が氷に閉ざされ、方や南はカザフスタンやモンゴルと国境を接しているから、シベリアの果て、極東のオホーツク海側を除けば、海への出口は南に黒海、西にバルト海、そして北の出口はこの白海だけなのである。そこに、ロシア帝国時代に築かれた重要な貿易港アルハンゲルスク(Arkhangersk)という街があり、ここで4月に春を告げる大きなフェスティバルが開催され、Bamboo Orchestraが招待されたという経緯なのである。この街の緯度は北緯65度。白海というのだから冬場は海が凍って真っ白な氷の世界なのだろう! 北緯65度というのがどのくらい北かといえば、極東の日本で比較するなら北海道の遥か北、千島列島を北上しカムチャッカ半島を越え、それよりももっと北極に近いという緯度なのだ。

現在1月の気温は-25度とか、我々が行く4月、春になったとはいえ-5度前後らしい。

メンバーの打楽器奏者達、そして音響と照明のスタッフ(皆私より遥かに若い)は一生行くことはあり得ないないだろう最北の地に行く冒険心に胸を膨らませている。だが私にしてみれば悲喜こもごも、楽器の輸送準備だって大仕事なのだから。700kgもある竹打楽器群を分解し、税関検査の為に中身を事細かくリストアップした上で4個の大きな木箱に上手に納めなくてはならない。輸送中の寒さで恐らく竹楽器は割れたりかなり痛むから、コンサートの前日現地で修理に一日たっぷり費やす必要があるだろう、、、など心配は尽きない。当初モスクワまでは空輸するはずだったのが、ロシアの運送会社がマルセイユまで楽器を取りに来る段取りになった。陸路ドイツ、ポーランド、ベラルーシの国境を越えモスクワまで。そこからアルハンゲルスクまで更に北に800km。ロシアの運送会社に任せて、果たしてコンサートの前日までに楽器がちゃんと届くのだろうか?

そして、一体聴衆が何人いるのだろう?楽器が無事に着いたとしても、、、どうも拍手の音がいつもと違うな?と舞台から観客席を凝らして見たら、千匹のペンギンとアザラシが拍手している、、、なんてことではないだろうか?




フランス便り No.22
木の下での朗読会                          矢吹 誠 (高22回)

その日は何と夜の11時まで劇場にこもって稽古をしていた。日本では珍しくないかもしれないけれど、フランスでこんな夜遅くまで仕事をするのは極めて稀である。俳優が朗読する詩と音楽のコラボレーション。それも二日間しか稽古日程を与えられておらず、俳優も我々Bamboo Orchestraも「これでは間に合わない!!!」と、夕方までのはずだった稽古を自主的に夕食後も続行する事にしたのだった。パリに住んでいるPhilippe Morier-Genoud(フィリップ・モーリエジュヌ/トゥリフォーの映画にも出ている有名俳優)と南仏マルセイユに住んでいる私たちBamboo Orchestraが、フランスの臍に当たるHaute Loire(オートロワール)県の辺鄙な山の中で、ベルギー出身の若手詩人Ben Ares/Antoine Wauters(ベン・アレス/アントワンヌ・オテル)が書いた詩集Ali si on veutの朗読に音楽を付けるべく格闘していたのだった。


フィリップとアントワンヌ

宿舎の民宿(gite)に戻るとそこには満天の星空が待っていた。まるで星座表を空に貼付けた様なこんな星空を見たのは何年ぶりだろう?、、、私は無我夢中で、子供の頃覚え知った僅かな知識を駆使して傍らにいた私の娘に、北斗七星、カシオペア、白鳥座、蠍座に指を指して解説した。うちの娘は(後で説明するけれど)マルセイユ育ちだから星空を知らない。東京に比べればまるで小さな街でしかないマルセイユも都会だから空気は濁り、夜でも煌煌とついている町の灯りに遮られ星は僅かしか見えない。ここは高度1150mの高原地帯、 シャンボンスルリニョン(Chambon-sur-Lignon)村から少しアルデッシュ県に寄ったところの小さなラモー、Cheyne(シェンヌ)という集落である。

 

フェスティバル

毎年、夏の時期はフランス各地で無数のフェスティバルが開催され、我々音楽家にとってはむしろ稼ぎ時、一般の人達の様にのんびりヴァカンスと洒落込むわけにはいかない。今年は例年と違い、いわゆるコンサートだけでなく無声映画を上映しながらライブ演奏するシネコンサート(小津監督1932年作「生まれてはきたけれど」)を数回、そしてこの詩の朗読フェスティバル「Lectures sous  l’arbre」という一週間の催しの音楽演奏を担当した。会期中、毎日午後木々の下で数人の作家が次々に自分の作品を朗読し、約150人から200人位の聴衆が取り囲み耳を傾ける。隣の草原にはユルト(パオ)が設置され、その中でも少人数を対象にした朗読が平行して行なわれている。自然の真っただ中で文学にいそしむ。作家本人の肉声を聴きながら詩的文学に浸る、、、何と優雅なアンテレクチュアルなひと時だろう?風が清々しい避暑地の大きな木の木漏れ日の下で文学にまどろむのだ。


木の下の朗読

昨年、Macon(マコン)市のSalon du Livre(図書展)でのコンサートを、偶然フェスティバル主催者が聴き、来年20周年の音楽は『これだ!』と私を口説いたのだった。依頼されるまではこんな催しが夏に山の中で行なわれ、それも今回が20回目という伝統ある催しだという事を全く知らなかった。夏のヴァカンス時期とはいえ、詩の朗読などという極めてアンテレクチュアルな催しに2〜3千人もの多くの聴衆が辺鄙な山の中に集まるなんて想像もできなかったのだ。

依頼された仕事は結構大変だった。一つは毎日の朗読会、その都度開始前に音楽を添える。詩の朗読への導入を音楽で促すという洒落た趣向は良いのだけれど、毎回その詩集のイメージを彷彿させる音楽を演奏するとなるとそう簡単ではない。 Bamboo Orchestraは基本的にオリジナル曲しか演奏しないから、私の限られたレパートリーの中から相応しいものを選出するのに頭をいためた。もう20年も演奏していない古い作品までも引っ張り出し編曲し直し当てはめた。そして二つ目の仕事は、上記のアルトーを彷彿させる難解な詩集Ali si on veutの朗読とのコラボレーションを金曜夜に劇場で上演。そして三つ目は日曜夜、最終日のクロチュール(閉会)にBamboo Orchestraトリオのコンサート、、、という具合で、避暑地の清々しい空気の中でとても快適な仕事だったけれど、一週間の間全く休みなしの日々だった。


草原のユルト

 

ジャン・フランソワ

この「木の下での朗読会」の主催者Jean-Francois Manierは、この山の中でCHEYNE EDITEURという出版社を経営し、今まで300タイトルほどの詩集あるいは詩的文学の本を出版している。出版社というと何か大げさだが、山の中の学校だった建物を改造し、そこを自宅兼出版社の仕事場にしているのだ。いってみれば全くの家内工業。驚く事に出版している本の印刷もほとんどここで行い、それも活字を使った活版印刷! 印刷室の壁の棚には活字がぎっしりとならべられ、その向かいにはまるで蒸気機関車を思わせる重厚な作りの活版印刷機、二台のHeiderbergがどっしりと黒光りしている。その存在感は圧倒的だ。(私は咄嗟に、宮沢賢治の銀河鉄道の中でジョバンニが働く印刷所の光景が脳裏をよぎった) 横腹に付けられたプレートに刻まれているのは1850−1960という数字。この機械はフランス広しといえど今では数台しか動いていないそうだ。今時活版印刷に拘っている印刷所なんて商業的に成り立つはずがない。だからこの機械を扱える技術者も数人しかいない。そんな時代を逆行する様な、商業ベースから完全に逸脱した出版社、無名な作家ばかりを扱った詩的文学作品群、逸脱の仕方も半端でない。いわゆる小説ではなく詩的文学にまでに興味を持つ読者層はフランスに於いても実に限られているから、売れる部数はしれている。そんな本達を、活版印刷機で一ページ一ページ砕身の注意を払って印刷し裁断し製本して仕上げる、、、こんな事をしていて採算が取れるわけが無い。しかしそれをジャン・フランソワは見事に成り立たせている。その根性と情熱にはただただ脱帽である。そして、年に一度夏に一週間に渡る朗読フェスティバルの開催。


印刷機とジャンフランソワ

彼がこの催しの支柱であり企画者であるが、それを二人の著名な文学評論家が作家へのインタビューや批評を交えてサポートし、その回りでは20人程のボランティアが出演者の宿の手配、送り迎えから食事の世話まできめ細かく働いている。例えば毎回椅子を並べ替え、聴衆を案内し私たちの演奏のきっかけまで出し、いわば雑用係兼舞台監督を努めてくれていたダニエルは、シェンヌの集落から80km程北に行ったサンテチエンヌ(St Etienne)市の書店主で、毎年夏のこの時期、フェスティバルにボランティアで協力しているのだと後で話してくれた。これらの有志達に支えられてこの文学の香り高いフェスティバルは成り立っているのである。数年前に出演したマルティーグ市の音楽フェスティバルが、200人ものボランティアに支えられているという事に感動した話を書いたけれど、多くのフェスティバル等の催しはこの様な無名のボランティアの協力に依って成り立っている。これがフランスの文化水準、民度の高さなのだと思う。決して商業的ではないのだ。

出会い

さて、初めて参加した文学の香り高い朗読会なのだけれど、正直言って私にはフランス語のポエジーはハードルが高すぎる。普通のフランス語の文章ですら辞書を片手でないと読めないのに、詩的文学は行間やメタフォーまで深読みしなくては詩的世界に入り込めないわけで、私の語学力レベルでは到底歯が立たない。批評家達の引用の中にはボードレール(Baudelaire)ランボー(Rimbaud)、アポリネール(Apollinaire)、ヴェルレーヌVerlaine等、19世紀から20世紀にかけてフランスのポエジーの基礎を築いた高名な詩人達の名前が出てくるけれど、私はそれらの詩集をちゃんと読んだ事もないから現代詩など取りつく島もない。しかし、それら現代作家のポエジーの中でも意外にすんなりと読める本があった。

Iro mo ka moというタイトルの本、作者はIto Nagaと表書きにある。フランス人なのにペンネームがイトナガ?この作者は何者だろう、、、と半信半疑でページを捲った。フランス人が日本の文化に初めて触れた時に感じる違和感を、独自の鋭い観察眼でしかも平易な詩的文章に纏めている。私も同様に日仏二文化の狭間に居るので、逆の立場ではあるがはっとさせられる点も多い。作家本人と出会って話してみると実に気さくな人柄で、流暢な日本語も操る。今回は同伴していなかったけれど奥さんは日本人だと、なるほど!、、、面白いのは、奥さんが日本人だと女性言葉を真似るから「ホントー?オモシロイネー!」といった具合で微笑ましい喋り方になる。 誰もがペンネームのイトナガで呼んでいたが、本名はDominique Delcourt、 本業は何と宇宙物理学者。そして本業の世界でも日本と大いに関係していると話してくれた。2014年に打ち上げを予定されている水星探査プロジェクトBepiColombo、ESAとJAXA日欧初の共同計画、そのフランス側責任者なのだ。

そしてもう一人、天安門以後にフランスに逃れ、L’Annee des fleurs de Sophoraを出版した詩人のMeng Ming(孟明)。彼とも初対面だったけれど私が開口一番、「私たちは敵同士」と振ると、彼もその冗談がすぐに理解できた様で、、、そうそうと笑い合った。回りのフランス人達には何故日本人と中国人が敵同士なのか、という歴史を説明しなければならなかったけれど。彼の詩集のテーマはもちろん彼の置かれた境遇、忍耐と希望の両面を詩の世界に託している。彼は中国当局を刺激する様な過激な発言はひかえているので、中国とフランスを行き来出来る立場にいるけれど、中国本土に戻っている時はもちろん何も発言出来ない、、、と苦渋の表情を見せた。


ドミニクとミンと私

鋭い感受性

今回のフェスティバルへの演奏参加は、私たちにとってはもちろん仕事だったけれど、普段だったら出会う機会などなかっただろう詩人、作家達と出会えた事、そしてジャン・フランソワの様なこだわりに生きている人間を発見した事(彼は私と同じ5月革命世代だ)そして、何が一番嬉しかったかと言えば、竹楽器、竹音楽に対する聴衆の鋭い反応を感じたことである。最後の閉幕コンサートを除けば、我々の音楽演奏は会期中の添え物であって、作家達とその作家が書いた本がメインである。ところが、我々が毎回レクチュールの導入に演奏すると、聴衆は竹楽器の音にほとんど金縛りにあったようだった。今まで耳にした事がない豊かな響き、妙なる竹楽器の音色に完全に魅了されていた。

普段のコンサートでも聴衆は熱狂してくれるけれど、数百人の聴衆のうちせいぜい数人が本当に竹楽器の音に心底感動した、、、と駆け寄ってくる。それに比べると、毎回150人前後という数的には少ない聴衆にも関わらず、その反応はよりアクティブだった。思うに、ポエジー等の詩的文学世界に興味を持つ人達は、より繊細な感受性を身につけているからではないだろうか?、、、どうせ売れないだろうと多寡をくくって20枚程度しかCDを持参しなかったのが、たちまち無くなった。結局最終日のコンサートが終わると追加した分を含め60枚ほどのCDを完売した。私自身はCDの販売にはあまり興味は無い(、、、なぜなら竹楽器の豊かな響きは録音では再現不可能だから)が、売り上げ枚数は聴衆の反応のバロメーターではある。


閉会コンサート

高等専門学校/ENS

さて、宙吊りにしたうちの娘の話を少ししておこう。以前フランスの大学制度について、娘のお陰で多少理解が深まった、、、と書いたけれど、娘は三年間の準備過程(Classe Preparatoire)を経て念願の高等専門学校(ENS/Ecole Normale Superieure)というエリート大学のリヨン校経済学部マスタークラスに合格した。努力の甲斐があったというもの。準備過程はモグラ生活と称され( taupe/その間日の目を見ないし、また皆眼鏡をかけているという揶揄)猛勉強の浪人生活を強いられる。彼女は二年目の試験では希望校の合格ラインに達せず、更に一年延長して三浪したわけだ。日本では、三浪して運良く目指す大学に合格しても大学一年生になるわけだが、フランスではマスタークラス(修士論文過程/大学4年生相当)に直接入る事が出来る、つまり浪人の3年間が全く無駄にならないのである。このENSはパリ市とリヨン市にしか無い。この9月から娘はリヨンに移り住み、私たち両親はマルセイユでちょっと淋しい二人だけの生活に戻った。

 

チャリティー・コンサート

さて、話は変わってかなり旧聞になるが、4月9日マルセイユで「Tsunami2011/Soutien aux Victimes du Seisme du Japon」と銘打って大掛かりなチャリティーコンサートを催した。南相馬市の子供達の為に直接送る義援金を集める為だ。たまたま、福島県に関係のある人からの情報で、南相馬市は福島第一原発から20km圏内で放射能汚染もあり、地震、津波で孤児となった子供達も多く、その街の子供達に集中して送るという事になった。( 赤十字を通じて 義援金を送るのが一般的なのだが)

震災、津波、原発の爆発、、、と日に日に情報が流れる中、うちのアトリエでも誰が言い出すという事もなく、「何か我々も協力出来る事はないだろうか、、、行動を起こさないとね、、、」という話が出ていた。しかし、私としても何かしなければという思いはあっても実際に何が出来るだろう?

1995年の神戸震災の時は、南仏在住の高名なジャズベーシスト、バール・フィリプス(Barre Phillips)が提案して、私のアトリエがある文化施設フリッシュで多くの演奏家、美術家が参加して一大チャリティーイヴェントをくり広げた。もちろん旗揚げすぐのBamboo Orchestraも出演した。この活動「アクトコウベ」は、集めた義援金を神戸に送っただけでなく、その後も数年間南仏と神戸の芸術家達の交流が続いた。

私たち音楽家に出来る事といえば、チャリティーコンサートを催し義援金を集める事に尽きるのだが、ギャラ無しでBamboo Orchestraが出演する事はメンバーに説明して了解をとりつけるだけだから、スケジュールさえ折り合えば簡単に出来るのだが、会そのものを主催するとなると宣伝からモギリまで多くの人が動かなければならず、それをオーガナイズするとなると話は違ってくる。そんな事を考え躊躇している時に、マルセイユ在住の貴衣(タカエ)嬢からメールが入った。「チャリティーコンサートをマルセイユ日仏協会主催で企画したいのですが、Bamboo Orchestraは出演してくれますか?」

もちろん私はすぐに快諾の返事をした。当初彼女は市中心部の教会を会場に予定していた。牧師と面識があり、会場をただで貸してくれると既に承諾がとれているというのだ。しかし教会という空間は残響が長く小さい音の楽器やコーラスには相応しいけれど、音量が半端ではないBamboo Orchestraの場合はいただけない。それに会場は狭く100人位の集客が精々であまり収入が見込めない、という問題もあった。私は「アクト神戸」の例を説明して、どうせならもっと多くの出演者に声をかけて、もう少し大きい会場を探してみたら、、、と規模の拡大を提案した。というのは声を掛ければ数十人のグループや演奏家達が出演したいと申し出るに違いないし、市に掛けあえば市の重要な会場を提供してくれる可能性もある、、、と想定したからだ。そして彼女に、うちのアマチュアのグループ、「Pousses de Bamboo Orchestra」も会場ロビーあるいは外で聴衆の入場前に演奏する事を提案した。罹災した日本の子供達に送る義援金の為に、フランスの子供達が演奏するというのは実に良いイメージだとタカエ嬢も賛同した。

タカエ嬢は実に駆動力があった。早速市の窓口と交渉し、ビューポー(旧港)の脇に聳え立つお城の様な建物Palais du Pharoの900人を収容出来るオーディトリアムをただで借りる、という話まで取り付けた。後で知ったのだが、彼女の実家は神戸で、震災の時に家はつぶれ多くの人々の協力を得た、、、だから、今回の被害を聞いてはいても立ってもいられなかったと言うのだった。

「やったねタカエ!」

「助役の対応も初めは煮え切らなかったけれど、Bamboo Orchestraも出演しますと言ったら急に態度が変わって話が進展したのよ。マコトさんホントにありがとう」と感謝された。手前味噌を承知で言わせていただければ、確かに20年近くこの地で活動を続けて来たので、マルセイユ市の文化関係者でBamboo Orchestraを知らない人はいない。しかしBamboo Orchestraの名前を出したら話が好転したとは嬉しいではないですか、、、。

この企画には、私と同じく南仏で活躍しているソプラノ歌手由紀美嬢、ピアニストの岩本氏、そして国立バレー団に参加している遠藤氏も団員のダンサー17人を引き連れ参加し、美術家の渡辺氏、それにギタリストのペドロ・アレド(Pedro Aledo)、アルメニアのドゥドゥック(オーボエ属の楽器)奏者、レボン・ミナシアン(Levon Minassian)、そして現代音楽のピアニスト、ニコラ・マズマニアン(Nicolas Mazmanian)など南仏在住の日本人アーティストとその友人達が総出演するプログラムになっていった。

当日、 座席数900しか無い会場に1000人以上の聴衆が詰め掛けた。日仏協会関係者は大規模な催しには不慣れで、その上こんなに人が集まるなんて予想だにしていなかったのでてんてこ舞い。日本の災害に関心を持っている人が如何に多かったかという証明でもあるのだが、ほんの二週間の準備期間の間に、マスコミも色々取材協力してくれ、私もテレビのインタビュー、そして新聞にもチャリティーコンサートに出演するBamboo Orchestraの写真が大々的に取り上げられた。このマルセイユ特集紙面は、チャリティーコンサートの記事が第一面、第二面にサッコジ大統領と菅首相が握手している写真(サッコジ氏は丁度この時期日本に行っていた)という風で、チャリティーコンサート開催記事がトップに来るという扱いになっていた。

会場に入れなかった200人程を断らざるを得ないという、実に残念な結果になってしまったが、市の施設でありセキュリティーが厳格で融通が利かない。立ち見を出すわけにはいかないのだ。うちのPoussesのメンバー40人もロビーでの開幕演奏の後、会場に入って舞台の演奏を聴ける段取りになっていたのに客席は既に満席。渋々楽器を片付け帰路についた。翌日、日仏協会から各自に詫び状のメールが届いた。うちのプッスの子供達も私の演奏やBamboo Orchestraトリオの演奏を聴きたかったに違いないのだが、逆に彼らが入場しなかった分、40人もの一般の人が料金を払って入場し、お陰で義援金を増やすことができた、、、と彼らには納得してもらうしかなかった。

入場料収入、レストラン、販売等の収入、総額2万4千85ユーロ(円に換算すると290万円位)にもなった。 Bamboo OrchestraのCD25枚も特価10ユーロで提供し、CDは瞬く間に売り切れた。この収益250ユーロも全額義援金としこの総額の一部に加算されている。


チャリティーコンサートのポスター

フランス便り No.21
ブルキナファッソ               矢吹 誠 (高22回)

チャーターしたタクシーは赤土のガタガタ道を80km/hほどの速度でとばしていた。この日曜日は唯一の休暇がとれ、せっかくだからとボボジュラッソ(Bobo dioulasso、以下ボボ)からバンフォラ(Banfora)の街までバスで行き、そこからサンドゥー尖峰(Les pics de Sindou)とバンフォラの滝(Cascades de Banfora)を探訪する予定だった。大きな街を結ぶ幹線道路は舗装されているが、そこから一歩でも外れれば赤土のでこぼこ道。平らになっている部分も、行き交う車両の振動でまるで洗濯板の様に規則正しい泥の起伏が続いている。今では見ることもない古いトヨタの四輪駆動車はサスペンションがほとんどへたっているから、路面の振動がまともに体を直撃する。まるで全身マッサージ椅子に座っている体。対向車があれば赤土の土煙は猛烈な勢いで車内を突き抜け、しばらく前が見えなくなる。暑いからもちろん窓は全開だ。

突然、ドスン!と大きな音がしたと思ったら車が横滑りを始めた。いったい何が起こったのか私には皆目理解できなかった。道の両側は低い溝になっていて道路からは7〜80cmの段差がある、そこへ向かって車は突進している。助手席に乗っていた私は、これはもうだめだと直感しドアの上の取っ手を握り締め身を構えた。道路から落下しそうになり運転手は慌ててハンドルを切り返し、今度は反対に尻を振り横滑りしジグザグを繰り返したあげく、ようやく車は停止した。

ともかく命は助かった!ホッとして車から降りて見ると、何と左後輪が無い、、、。数十メートル後方の溝の下に脱落したタイヤが、それも車軸と共にころがっている。カートゥーンのアニメマンガではタイヤがとれても車は走り続け、あるいは主人公がぶつかってぺしゃんこになってもすぐに再生するけれど、現実はそうはいかない。タイヤ三つでは自動車は走り続けられないし、高速で車が溝に落ちれば横転し大破し大けがは免れない。道の両側には時折頭に大きな荷物を頂いた女性達が歩いている、ロバがリヤカーを引いている、 荷台にバナナを積んだ自転車がすれ違う、荷物を満載したトラックが高速ですれ違う。もしこの事故現場に人が歩いていたら悲惨なことになっただろう、もし対向車や後続車があったら私たちの命は無くなっていただろう、、、。

 

初めてのアフリカ

アフリカのブルキナファッソ(Burkina Faso) Bamboo Orchestraの二人の打楽器奏者、ギヨームとナタナエルを伴い、私は10日間の予定で内陸国ブルキナファッソのボボを訪れた。在ボボ・フランス文化センター(Centre Culturel Francais、以下CCF)国際児童演劇祭(Festival International de Theatre Jeune Public、以下FJP)の招きでコンサートとワークショップ。私は今回初めてサハラ砂漠の南、本物の黒いアフリカに降り立った。以前にもエジプトとチュニジアには行っているが、これは地中海沿岸の北アフリカアラブ圏で、本当のアフリカではない。

ブルキナ行きが決まったけれど、準備は簡単ではなかった。

まず黄熱病の予防注射。この証明書を携帯していと入国できない。それも、このワクチンは民間の病院や医者では扱っていないから、わざわざ軍病院にまで出掛けて予防注射を受けた。そしてパリュ(Paludisme/マラリヤ)対策。初めて知ったのだが、マラリヤのワクチンというのは存在しない。ただ、あるのはマラリアに掛かってもすぐに発症しない薬とか、ひどい時には命が危ないマラリアの症状(高熱で震えが止まらない)を軽減する薬とか。そしてそれらの薬は副作用が激しく、吐き気を催したり頭痛がしたり、、、服用しても決して快適ではないとの話。軍病院の熱帯病専門医は、「蚊に刺されてから発症するまでに少なくとも10日程掛かり、滞在期間が短い場合には意味が無い。フランスに戻って来た後、もし熱が出たらすぐに連絡しなさい。それが得策」と教えてくれた。後はマラリア原虫を持った蚊に刺されない様に防御を完璧にすること。部屋に撒く殺虫剤、コンセントに差しておく電気蚊避け装置、そして衣服には蚊除けのスプレー、肌が出ているところには蚊避け塗り薬。もちろん夜の外出は幾ら暑くても長袖シャツに長ズボン、靴下は欠かせない。しかし、マラリヤを伝染するハマダラ蚊は小さく、音も無く近づき、そして刺されてもかゆくもなければ跡も残らない、、、と何だか神秘的な話もきく。この短期滞在中にマラリアに掛かってもしょうがない、予防するに限る。

また、現地で怪我をしたり病気になった場合、アフリカの病院で治療を受けるのは逆に危険が倍増するから、そうした場合にはすぐに本国(フランス)に移送してもらう為の保険、というのも契約した。先の様な車の事故、幸いこの保険を使わずに済んだけれど、、、。

一方、荷物を減らす工夫も骨が折れた。我々の普段の5人編成コンサートで使う竹楽器群は重さ650kg、1m四方の木箱4個以上にもなる。そして今回の様なトリオ編成の場合でも重さ350kg、1m四方の木箱2個分。既に中国とレユニオン島でトリオ編成コンサートの経験があるが、楽器空輸の準備は大変だった。大型荷物は我々演奏家と同じ旅客機には積めないので、事前に別のカーゴ便で運ぶことになる。関税が掛からない様に荷物の中身の事細かなリストを作り、あらかじめ税関に申告しなければならない。これをATAカルネ(Carnet ATA)と言う。そして、一箱150kg以上もある木箱は、我々自身では到底運べないから空港運送専門業者に頼まなければならない、経費も掛かる。今回は予算も限られているので、楽器も手荷物の延長で演奏者と共に旅が出来る最小限の方式を編み出す必要があった。竹マリンバもクロマチック音階ではなくディアトニック7音音階の簡単なものだけにした。 既存のレパートリーの半分はカットし、尚かつ音楽的な豊かさを損なわない様に工夫しながら、限られた楽器でも成り立つ曲を新たに作曲し追加した。

ワガに降り立つ

首都ワガドゥグー(Ouagadougou、以下ワガ)の空港で飛行機から外に出ると、まるでサウナの様な熱風が待っていた。暑いとは覚悟していたけれどこれはもの凄い!空港は工事中の様子で(たぶんずっとこういう状態なのだろう、、、)、空港内部の通路の壁はベニヤ板、床は土間。パスポート検査に並んでいると、横から「マコト?」と声をかけてくる人があった。それがFJPディレクター、アラン・エマ氏(Alain HEMA)だった。私たち三人を別室に招き、そこで知人らしき担当官による簡単なチェックを済ますと、並んでいる人達を尻目に脇通路の監視員に挨拶し我々を導きさっさと検査カウンターの外に出た。どうやら彼は空港関係者にも顔の効く大物らしい。

検査カウンターの後ろはそのまま荷物受け取り場。 ここも土間で、普通の空港で見かけるベルトに乗って荷物がぐるぐる回る様なシステムは無い。天井の扇風機がゆるゆると回っているが、汗がひっきりなしに出てくる。そこに、バゲージを満載した大きな荷車を係員が押してくる。待ち構えていた人びとは、わっと一斉に群がって各自自分の荷物をひったくるのだ。私たちは個人バゲージの他に竹楽器を分解してダンボール箱に詰めたものと簡易包装した荷物が6つ。それらを無事に引き取って外に出る。ここでもアランは係員と談笑し、何の検査も無く待っていたワゴン車に荷物を積み、ワガの宿泊先に出発した。後で判ったのだが、実はアランはテレビの連続刑事ものの主役を演じている俳優でもあり、皆彼の顔を知っているのだった。私たちの目的地ボボは、空港のある首都ワガから3〜400km南西に行った第二の街で(国名がオートボルタだった時代はボボが首都だった)車で5時間も掛かり、夕方に着いた我々はそのままボボまで移動するわけにはいかなかった。私たちの宿舎はなんとソチギ・クヤテ(Sotigui Kouyate)の家だった。 有名だった彼の家だからさぞ豪華だろうと思いきや、単なる民家でもちろん冷房も無ければ、蚊帳も無い。しかし、テラスにあるアフリカ式の籐の寝椅子を見つけ、ここにソチギが特異な眼差しで長い体を横たえて座っていたかと思うと感慨深かった。 何という因縁だろう、私は彼と面識があった。

ソチギ・クヤテは、アフリカを代表する俳優のひとりで、惜しくも先月亡くなった。2009年ベルリン映画祭で男優賞を獲得し、長身で独特の風貌の性格俳優は日本でも彼を知る映画通は少なからずいるに違いない。彼は舞台でも活躍し、特に日本でも上演されたピーターブルック劇団の「マハーバーラタ」では中心的存在だった。 アランも俳優同士で特に親密だったらしく、我々の到着直前に行なわれた大々的な彼の葬儀の段取りにも奔走していたと聞く。

その夜は近所のライブハウスに招かれた。他に言葉が見つからないのでライブハウスと言ったのだが、 道路に面した簡易レストランの脇に演奏用の土間がついている、、、という簡素なもので、照明は薄暗い裸電球が数個ついているだけ。そこでアランが主催する楽劇団テアトル・エクレール(Theatre Eclair)の若い楽団員6人が演奏を披露してくれた。2台のバラフォン、ジェンベ、ドゥムドゥム、そして二人の女性歌手兼ダンサー、、、歌と踊りと強烈なリズム、典型的な西アフリカ音楽だ。 地元ビール「ブラキナ」を飲み、アランが見繕ってくれた食べ物を手づかみで口に運びながら、(といっても暗いから何を食べているのか良くわからない)着いたその夜からアフリカ文化にどっぷり浸かる日々が始まった。

夜が更けても一向に気温は下がらず、ソチギ家の部屋はうだる様に暑い。マラリヤが怖いので窓を開けて寝るわけにはいかない。防虫剤を撒き、部屋を閉め切り、唯一の扇風機を回しながら床についた。扇風機は熱風をかき回すだけで涼しくはならない。汗は流れ続ける、、、結局この夜はほとんど眠れなかった。

翌日、エクレールのバラフォン奏者サミーとジェンベ奏者ヤクバが、我々の荷物をワゴン車のギャラリーの上に高々と積み上げ、正にアフリカスタイルでボボに向かって出発した。首都ワガから第二の都市ボボまでの幹線道路。日本で言えば東京と大阪を結ぶ東海道、舗装されている、検問もあって料金も徴収する。しかし途中は穴だらけの道で、高速で走行するわけにはいかない。中央分離帯はおろか、中央分離ラインも引かれていない場所もある。対向車とすれ違えるだけの10mほどの道幅を、穴を避けながら右に左に迂回し、ときには完全に片車輪を未舗装の路肩の外に出して通らなければならないほど、まるで空爆を受けたかの様に全面穴だらけの場所もあった。最も重要な幹線道路も整備できない、これがブルキナの経済状況だ。

出会い/アトリエ/コンサート

さて、ボボに着いた翌日から何とハードスケジュールが待っていた。10日間の滞在中の仕事はコンサートだけではない。子供達のパレードの指導、現地音楽家達との出会い、マスタークラス、、、。

ボボはブルキナだけでなく中西部アフリカ諸国の中でも音楽の中心地として名を馳せ、有名音楽家を多数輩出している。CCFディレクトゥリス、クリスチンヌ女史は、我々をなるべく多くの地元音楽家達と出会わせようと、早朝からほぼ一時間おきにスケジュールを組んでいた。まず街はずれまでセンターの四駆でグループ「ファラフィナ」に会いに行った。車から降りると通りまでバラフォンの響きが聞こえている、ぬかるんだ泥道を歩いて民家の中庭に入ると、そこで彼らが練習していた。ファラフィナは現在80才ぐらいになるというママ・コナテが1980年代に創出したグループで、 ブルキナのアフリカ音楽を世界に知らしめたグループといっても過言では無い。彼らが数曲演奏を披露してくれた。その後我々に一緒に入って演奏しろと促すので、三人はバラフォンとバラとドゥムドゥムを彼らと共に叩いた。 我々は打楽器奏者なのである程度は即興で対応できるけれど、彼らアフリカ演奏家達の乗りにはとうてい敵うわけがない。こんな風にして午前中に何と三つのグループを訪問、その後も毎日、アダマ・ドラメ、トリオ・ロロ、トゥグマニ・ディアバテなど、ブルキナを代表する演奏家達と出会い、そしてセッションを試みた。

午後は子供達のパレードの指導。フェスティヴァル開幕には、市庁舎からCCFまで子供達の竹楽器演奏でパレードをしたいので指導して欲しいと、あらかじめアランからメールで依頼されていた。短期間でパレードを構成するには、ブラジルのバトゥカダ方式が手っ取り早い。 集まった30人ほどの子供達を三つのグループに分け、それぞれスリッタム(竹スリットドラム)、手マリンバ(二音を手にもって交互に叩く)、ケチャ(竹べら)で簡単な組み合わせリズムパターンを作り、それに太鼓とジェンベを加え、私のホイッスルの合図で二つのリズムを交互に変化させるという方式 。参加したのは、普段音楽には馴染んでいない8〜10才位の小学生たちが中心だが、さすがにアフリカの子供達、リズムの飲み込みが早い。

二日間の練習で何とかパレードができるまでにこぎ着けた。 普段は薄汚れて破れたTシャツを着ている子供達が、当日には一張羅の民族衣装柄のシャツに身を包んで現れた。彼らのあどけない表情の中にも、晴れのパレードに参加する緊張が見てとれ、微笑ましく思った。

続いてその夜には、CCFの野外劇場で我々の開幕コンサート。日没と共に始まったコンサートでは、私たちが予想だにしていなかったことが起きた。何と汗が掌にまで沸き出し、手に持つバチが滑ってコントロールが利かない。 演奏中にびっしょり汗をかくのは普段のコンサートでも慣れているが、掌までがぬるぬるになりバチがしっかり握れないという経験は初めてだった。ギヨームとナタナエルも、 「バチが手をすり抜けて宙に飛んで行ってしまうのではないかと演奏中ハラハラした」、と終演後ホッとしながら同じ感想をもらした。そんな風で演奏者側は危なっかしい心境だったが、会場は満足した聴衆の盛大な拍手でつつまれた。最後のアンコール曲では、パレードに参加した数人の子供達が舞台に登場しアンクルン演奏を披露したのも功を奏し、舞台はもり上がった。

さて、子供達のパレード用竹楽器演奏指導と開幕コンサートを無事に終え、後は地元アフリカ演奏家達へのワークショップ、マスタークラスを残すのみとなった。ところが、パレードに参加し舞台でアンクルン演奏もした5〜6人の子供達は、次の日の午後もCCFの庭に現れて待っていた。「もうアトリエは終わりだよ」と言っても、恨めしそうな顔をするだけで立ち去る気配はない。どうやら竹楽器演奏の虜になった様だ。ナタナエルが見かねて、片付けてしまった竹マリンバを庭に並べ、「にぎわいの森」(La Foret Animee)という簡単な曲を子供達に練習させた。子供達は嬉々として習得し、センター中に竹マリンバ合奏が響き渡った。クリスチンヌも音を聞きつけ「すばらしい、ボボ竹の子合奏団誕生! 」と興奮気味で、ディレクター室のある二階バルコニーから身を乗り出して写真撮影に興じていた。

そうは言っても、我々は二三日後にはフランスに戻らなければならない。竹楽器演奏、そして音楽に目覚めた子供達をこのまま放置して帰国してしまうのは後ろ髪を引かれる思いだ。地元演奏家の中にバラフォン製作も出来るという若者がいたので、 彼に竹マリンバの構造と製作方法を説明し、ぜひ地元の竹を使って試作することを提案した。日本の竹とは種類は違うが、直径10cm程にはなるバンブサ・ビュルガリス(Bambusa vulgaris)という熱帯性の竹がブルキナにも生えている。そして、クリスチンヌとアランには、もし竹楽器が手に入らなくてもアフリカの楽器を使って誰かが指導を継続し、この子供達の情熱を無駄にしないで欲しいと懇願した。

今後の展望

フランスにいると、アフリカとの距離は日本に居る時より遥かに近い。地中海の向こう側はアフリカ!という地理的な近さだけでなく、フランスに住んでいるアフリカ出身者も多く、アフリカ人演奏家との共演機会も少なからずある。しかし実際に現地に行き、地元の演奏家、そして子供達と竹楽器を媒介にして交流するという経験を経て、今までとは違った、生きている生身のアフリカが見えてきた。今回あまりにも多くの情報を一時に受け取ったのでまだ心の整理がつかないが、大げさに言えば「今後私はアフリカとどう付き合うのか?」という課題の海に膝までどっぷり足を浸してしまった、という感覚だ。さっさと岸に引き返して、足を乾かすか?あるいは沖に向かって勇気を奮って泳ぎ出すか、、、?

アフリカ音楽には、音楽にとって本質的で大切な要素がある。譜面などには拘束されず、音楽と踊りが一体になり、体から音楽が沸き上がる。「魂の躍動」と言ってもいい。私の音楽哲学としても、ヨーロッパの頭でっかちな音楽よりは、そういう体から沸き上がる音楽に軍配を上げる。ただ彼らの音楽はすばらしいけれど、竹という素材にこだわり竹音楽を追求している私が、彼らアフリカの演奏家達と共同して果たして何が創出出来るだろうか?という設問が待っている。つまり音楽語法の違う私、そしてBamboo Orchestraとアフリカの演奏家がどのような方法、回路を通じて真の共同創作が実現できるか?である。彼らの民族楽器、コラやバラフォンなどのメロディー楽器、ジェンベ、バラ、ドゥムドゥムなどの打楽器にベースギターやキーボードやドラムスを加えた、近年のアフリカンポップス。これは簡単にできるし流行っているけれど、その様な発展のさせ方に芸術的意味があるとは思えない。アフリカ音楽を生かしたもっと本質的で創造的な方向は無いだろうか?それも竹楽器の音色を生かした新しい音楽の可能性がきっとあるに違いない、、、と模索しているのだ。

ご存知の様に、アフリカには音楽を始めとした文化的豊かさ、そして人間的豊かさと、一方で経済的貧困が同居している。今回飢えて死にそうな人には出会わなかったけれど、音楽家達といえども生活は苦しそうだった。とにかくフランスや日本などの先進国との経済格差は甚だしい。それにブルキナファッソ北部はサハラ砂漠に接しており、砂漠の拡大、南下を防がないと、貧困は増々深刻になる。日本からも外務省の外郭団体JICA(ジャイカ/国際協力機構)の海外青年協力隊の若者達が、数多くブルキナでも活動している。現地でそんな彼らにも出会った。

たとえボボの子供達が嬉々として竹楽器を演奏してくれたとしても、 単にアフリカに私が考案した竹音楽を普及しようと目論んでいるのではない。実は音楽という狭いレベルではなく、「竹を巡る総合的な文化」がアフリカに根付くこと。そこから恐らくアフリカ文化の新しい方向、発展が可能かも知れない、、、と夢想しているのだ。今の段階では詳しいことは何も言えないが、アフリカにも竹が生えているのに、その竹を有効に利用している場面には出会わなかった。もちろん竹製の楽器も見かけなかった。

竹がエコロジーで有用な植物だということは、この稿でも何度も話しているけれど、アフリカでも竹を有効に使うことが出来るはずだ。竹から紙が作れる、竹から糸がとれ布が織れる、合板が作れる。これらの産業はインドネシア、インド、中国では既に盛んに行なわれ、それぞれの国の経済を支えている。そしてもっと環境に優しい方法は、フランスの企業が考案した自然の竹林をそのまま使った下水浄化装置だ。

竹の根が地中に広く張っていることは昔から知られている。「地震があったら竹林に逃げ込め」と言う、その通り。この広く張った竹の根の吸水力は他の樹木とは比較にならないほど大きい。

もちろん、水の少ない砂漠に竹を直接植えることは出来ない。しかし人里、人が定住し村を構成しているところでは、必ず水があり生活排水が出る。その排水を竹林に導き竹を生育すると共に、広く張った竹の根の強い吸水力と殺菌作用で、薬品などを使わずに下水の浄化が出来てしまう!自然のサイクルをそのまま利用した排水処理装置。こんな単純な発想、誰でも思いつきそうなシステムだが、伐採した竹材の利用という面では様々に考案した日本人も、自然の竹林をそのまま利用するという着想はできなかった。この方式はフランスの企業が国際特許を取得し、フランス国内では既に各地で実現されている。また、はばかりながら私たちBamboo Orchestraも彼らと共同し「総合的な竹文化振興」を画策しているのだ。なぜなら竹林は毎年ある程度伐採することで活性化し、、、つまり竹材が自ずと生み出される、それを有効に文化的に利用することが次の段階で求められているから。

そう、私が目論んでいるのは単なる竹音楽ではない。「竹を巡る総合的な文化」がアフリカに根付くこと。ひょっとしたらその事によって、アフリカに今まで誰も想像しなかった、新しい未来が開けるかも知れない。