矢吹誠さんは現在フランスのマルセイユに在住(在仏17年。2010年現在)し、作曲家、演奏家、楽器創作家、Bamboo Orchestra de Marseille 主宰等々幅広く音楽活動を展開されています。
この度、縁あって段戸音楽会の皆さんとの交流が始まり、お願いをしてエッセーを寄稿していただくことになりました。

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フランス便り No.22
木の下での朗読会                         矢吹 誠 (高22回)

その日は何と夜の11時まで劇場にこもって稽古をしていた。日本では珍しくないかもしれないけれど、フランスでこんな夜遅くまで仕事をするのは極めて稀である。俳優が朗読する詩と音楽のコラボレーション。それも二日間しか稽古日程を与えられておらず、俳優も我々Bamboo Orchestraも「これでは間に合わない!!!」と、夕方までのはずだった稽古を自主的に夕食後も続行する事にしたのだった。パリに住んでいるPhilippe Morier-Genoud(フィリップ・モーリエジュヌ/トゥリフォーの映画にも出ている有名俳優)と南仏マルセイユに住んでいる私たちBamboo Orchestraが、フランスの臍に当たるHaute Loire(オートロワール)県の辺鄙な山の中で、ベルギー出身の若手詩人Ben Ares/Antoine Wauters(ベン・アレス/アントワンヌ・オテル)が書いた詩集Ali si on veutの朗読に音楽を付けるべく格闘していたのだった。


フィリップとアントワンヌ

宿舎の民宿(gite)に戻るとそこには満天の星空が待っていた。まるで星座表を空に貼付けた様なこんな星空を見たのは何年ぶりだろう?、、、私は無我夢中で、子供の頃覚え知った僅かな知識を駆使して傍らにいた私の娘に、北斗七星、カシオペア、白鳥座、蠍座に指を指して解説した。うちの娘は(後で説明するけれど)マルセイユ育ちだから星空を知らない。東京に比べればまるで小さな街でしかないマルセイユも都会だから空気は濁り、夜でも煌煌とついている町の灯りに遮られ星は僅かしか見えない。ここは高度1150mの高原地帯、 シャンボンスルリニョン(Chambon-sur-Lignon)村から少しアルデッシュ県に寄ったところの小さなラモー、Cheyne(シェンヌ)という集落である。

 

フェスティバル

毎年、夏の時期はフランス各地で無数のフェスティバルが開催され、我々音楽家にとってはむしろ稼ぎ時、一般の人達の様にのんびりヴァカンスと洒落込むわけにはいかない。今年は例年と違い、いわゆるコンサートだけでなく無声映画を上映しながらライブ演奏するシネコンサート(小津監督1932年作「生まれてはきたけれど」)を数回、そしてこの詩の朗読フェスティバル「Lectures sous  l’arbre」という一週間の催しの音楽演奏を担当した。会期中、毎日午後木々の下で数人の作家が次々に自分の作品を朗読し、約150人から200人位の聴衆が取り囲み耳を傾ける。隣の草原にはユルト(パオ)が設置され、その中でも少人数を対象にした朗読が平行して行なわれている。自然の真っただ中で文学にいそしむ。作家本人の肉声を聴きながら詩的文学に浸る、、、何と優雅なアンテレクチュアルなひと時だろう?風が清々しい避暑地の大きな木の木漏れ日の下で文学にまどろむのだ。


木の下の朗読

昨年、Macon(マコン)市のSalon du Livre(図書展)でのコンサートを、偶然フェスティバル主催者が聴き、来年20周年の音楽は『これだ!』と私を口説いたのだった。依頼されるまではこんな催しが夏に山の中で行なわれ、それも今回が20回目という伝統ある催しだという事を全く知らなかった。夏のヴァカンス時期とはいえ、詩の朗読などという極めてアンテレクチュアルな催しに2〜3千人もの多くの聴衆が辺鄙な山の中に集まるなんて想像もできなかったのだ。

依頼された仕事は結構大変だった。一つは毎日の朗読会、その都度開始前に音楽を添える。詩の朗読への導入を音楽で促すという洒落た趣向は良いのだけれど、毎回その詩集のイメージを彷彿させる音楽を演奏するとなるとそう簡単ではない。 Bamboo Orchestraは基本的にオリジナル曲しか演奏しないから、私の限られたレパートリーの中から相応しいものを選出するのに頭をいためた。もう20年も演奏していない古い作品までも引っ張り出し編曲し直し当てはめた。そして二つ目の仕事は、上記のアルトーを彷彿させる難解な詩集Ali si on veutの朗読とのコラボレーションを金曜夜に劇場で上演。そして三つ目は日曜夜、最終日のクロチュール(閉会)にBamboo Orchestraトリオのコンサート、、、という具合で、避暑地の清々しい空気の中でとても快適な仕事だったけれど、一週間の間全く休みなしの日々だった。


草原のユルト

 

ジャン・フランソワ

この「木の下での朗読会」の主催者Jean-Francois Manierは、この山の中でCHEYNE EDITEURという出版社を経営し、今まで300タイトルほどの詩集あるいは詩的文学の本を出版している。出版社というと何か大げさだが、山の中の学校だった建物を改造し、そこを自宅兼出版社の仕事場にしているのだ。いってみれば全くの家内工業。驚く事に出版している本の印刷もほとんどここで行い、それも活字を使った活版印刷! 印刷室の壁の棚には活字がぎっしりとならべられ、その向かいにはまるで蒸気機関車を思わせる重厚な作りの活版印刷機、二台のHeiderbergがどっしりと黒光りしている。その存在感は圧倒的だ。(私は咄嗟に、宮沢賢治の銀河鉄道の中でジョバンニが働く印刷所の光景が脳裏をよぎった) 横腹に付けられたプレートに刻まれているのは1850−1960という数字。この機械はフランス広しといえど今では数台しか動いていないそうだ。今時活版印刷に拘っている印刷所なんて商業的に成り立つはずがない。だからこの機械を扱える技術者も数人しかいない。そんな時代を逆行する様な、商業ベースから完全に逸脱した出版社、無名な作家ばかりを扱った詩的文学作品群、逸脱の仕方も半端でない。いわゆる小説ではなく詩的文学にまでに興味を持つ読者層はフランスに於いても実に限られているから、売れる部数はしれている。そんな本達を、活版印刷機で一ページ一ページ砕身の注意を払って印刷し裁断し製本して仕上げる、、、こんな事をしていて採算が取れるわけが無い。しかしそれをジャン・フランソワは見事に成り立たせている。その根性と情熱にはただただ脱帽である。そして、年に一度夏に一週間に渡る朗読フェスティバルの開催。


印刷機とジャンフランソワ

彼がこの催しの支柱であり企画者であるが、それを二人の著名な文学評論家が作家へのインタビューや批評を交えてサポートし、その回りでは20人程のボランティアが出演者の宿の手配、送り迎えから食事の世話まできめ細かく働いている。例えば毎回椅子を並べ替え、聴衆を案内し私たちの演奏のきっかけまで出し、いわば雑用係兼舞台監督を努めてくれていたダニエルは、シェンヌの集落から80km程北に行ったサンテチエンヌ(St Etienne)市の書店主で、毎年夏のこの時期、フェスティバルにボランティアで協力しているのだと後で話してくれた。これらの有志達に支えられてこの文学の香り高いフェスティバルは成り立っているのである。数年前に出演したマルティーグ市の音楽フェスティバルが、200人ものボランティアに支えられているという事に感動した話を書いたけれど、多くのフェスティバル等の催しはこの様な無名のボランティアの協力に依って成り立っている。これがフランスの文化水準、民度の高さなのだと思う。決して商業的ではないのだ。

出会い

さて、初めて参加した文学の香り高い朗読会なのだけれど、正直言って私にはフランス語のポエジーはハードルが高すぎる。普通のフランス語の文章ですら辞書を片手でないと読めないのに、詩的文学は行間やメタフォーまで深読みしなくては詩的世界に入り込めないわけで、私の語学力レベルでは到底歯が立たない。批評家達の引用の中にはボードレール(Baudelaire)ランボー(Rimbaud)、アポリネール(Apollinaire)、ヴェルレーヌVerlaine等、19世紀から20世紀にかけてフランスのポエジーの基礎を築いた高名な詩人達の名前が出てくるけれど、私はそれらの詩集をちゃんと読んだ事もないから現代詩など取りつく島もない。しかし、それら現代作家のポエジーの中でも意外にすんなりと読める本があった。

Iro mo ka moというタイトルの本、作者はIto Nagaと表書きにある。フランス人なのにペンネームがイトナガ?この作者は何者だろう、、、と半信半疑でページを捲った。フランス人が日本の文化に初めて触れた時に感じる違和感を、独自の鋭い観察眼でしかも平易な詩的文章に纏めている。私も同様に日仏二文化の狭間に居るので、逆の立場ではあるがはっとさせられる点も多い。作家本人と出会って話してみると実に気さくな人柄で、流暢な日本語も操る。今回は同伴していなかったけれど奥さんは日本人だと、なるほど!、、、面白いのは、奥さんが日本人だと女性言葉を真似るから「ホントー?オモシロイネー!」といった具合で微笑ましい喋り方になる。 誰もがペンネームのイトナガで呼んでいたが、本名はDominique Delcourt、 本業は何と宇宙物理学者。そして本業の世界でも日本と大いに関係していると話してくれた。2014年に打ち上げを予定されている水星探査プロジェクトBepiColombo、ESAとJAXA日欧初の共同計画、そのフランス側責任者なのだ。

そしてもう一人、天安門以後にフランスに逃れ、L’Annee des fleurs de Sophoraを出版した詩人のMeng Ming(孟明)。彼とも初対面だったけれど私が開口一番、「私たちは敵同士」と振ると、彼もその冗談がすぐに理解できた様で、、、そうそうと笑い合った。回りのフランス人達には何故日本人と中国人が敵同士なのか、という歴史を説明しなければならなかったけれど。彼の詩集のテーマはもちろん彼の置かれた境遇、忍耐と希望の両面を詩の世界に託している。彼は中国当局を刺激する様な過激な発言はひかえているので、中国とフランスを行き来出来る立場にいるけれど、中国本土に戻っている時はもちろん何も発言出来ない、、、と苦渋の表情を見せた。


ドミニクとミンと私

鋭い感受性

今回のフェスティバルへの演奏参加は、私たちにとってはもちろん仕事だったけれど、普段だったら出会う機会などなかっただろう詩人、作家達と出会えた事、そしてジャン・フランソワの様なこだわりに生きている人間を発見した事(彼は私と同じ5月革命世代だ)そして、何が一番嬉しかったかと言えば、竹楽器、竹音楽に対する聴衆の鋭い反応を感じたことである。最後の閉幕コンサートを除けば、我々の音楽演奏は会期中の添え物であって、作家達とその作家が書いた本がメインである。ところが、我々が毎回レクチュールの導入に演奏すると、聴衆は竹楽器の音にほとんど金縛りにあったようだった。今まで耳にした事がない豊かな響き、妙なる竹楽器の音色に完全に魅了されていた。

普段のコンサートでも聴衆は熱狂してくれるけれど、数百人の聴衆のうちせいぜい数人が本当に竹楽器の音に心底感動した、、、と駆け寄ってくる。それに比べると、毎回150人前後という数的には少ない聴衆にも関わらず、その反応はよりアクティブだった。思うに、ポエジー等の詩的文学世界に興味を持つ人達は、より繊細な感受性を身につけているからではないだろうか?、、、どうせ売れないだろうと多寡をくくって20枚程度しかCDを持参しなかったのが、たちまち無くなった。結局最終日のコンサートが終わると追加した分を含め60枚ほどのCDを完売した。私自身はCDの販売にはあまり興味は無い(、、、なぜなら竹楽器の豊かな響きは録音では再現不可能だから)が、売り上げ枚数は聴衆の反応のバロメーターではある。


閉会コンサート

高等専門学校/ENS

さて、宙吊りにしたうちの娘の話を少ししておこう。以前フランスの大学制度について、娘のお陰で多少理解が深まった、、、と書いたけれど、娘は三年間の準備過程(Classe Preparatoire)を経て念願の高等専門学校(ENS/Ecole Normale Superieure)というエリート大学のリヨン校経済学部マスタークラスに合格した。努力の甲斐があったというもの。準備過程はモグラ生活と称され( taupe/その間日の目を見ないし、また皆眼鏡をかけているという揶揄)猛勉強の浪人生活を強いられる。彼女は二年目の試験では希望校の合格ラインに達せず、更に一年延長して三浪したわけだ。日本では、三浪して運良く目指す大学に合格しても大学一年生になるわけだが、フランスではマスタークラス(修士論文過程/大学4年生相当)に直接入る事が出来る、つまり浪人の3年間が全く無駄にならないのである。このENSはパリ市とリヨン市にしか無い。この9月から娘はリヨンに移り住み、私たち両親はマルセイユでちょっと淋しい二人だけの生活に戻った。

 

チャリティー・コンサート

さて、話は変わってかなり旧聞になるが、4月9日マルセイユで「Tsunami2011/Soutien aux Victimes du Seisme du Japon」と銘打って大掛かりなチャリティーコンサートを催した。南相馬市の子供達の為に直接送る義援金を集める為だ。たまたま、福島県に関係のある人からの情報で、南相馬市は福島第一原発から20km圏内で放射能汚染もあり、地震、津波で孤児となった子供達も多く、その街の子供達に集中して送るという事になった。( 赤十字を通じて 義援金を送るのが一般的なのだが)

震災、津波、原発の爆発、、、と日に日に情報が流れる中、うちのアトリエでも誰が言い出すという事もなく、「何か我々も協力出来る事はないだろうか、、、行動を起こさないとね、、、」という話が出ていた。しかし、私としても何かしなければという思いはあっても実際に何が出来るだろう?

1995年の神戸震災の時は、南仏在住の高名なジャズベーシスト、バール・フィリプス(Barre Phillips)が提案して、私のアトリエがある文化施設フリッシュで多くの演奏家、美術家が参加して一大チャリティーイヴェントをくり広げた。もちろん旗揚げすぐのBamboo Orchestraも出演した。この活動「アクトコウベ」は、集めた義援金を神戸に送っただけでなく、その後も数年間南仏と神戸の芸術家達の交流が続いた。

私たち音楽家に出来る事といえば、チャリティーコンサートを催し義援金を集める事に尽きるのだが、ギャラ無しでBamboo Orchestraが出演する事はメンバーに説明して了解をとりつけるだけだから、スケジュールさえ折り合えば簡単に出来るのだが、会そのものを主催するとなると宣伝からモギリまで多くの人が動かなければならず、それをオーガナイズするとなると話は違ってくる。そんな事を考え躊躇している時に、マルセイユ在住の貴衣(タカエ)嬢からメールが入った。「チャリティーコンサートをマルセイユ日仏協会主催で企画したいのですが、Bamboo Orchestraは出演してくれますか?」

もちろん私はすぐに快諾の返事をした。当初彼女は市中心部の教会を会場に予定していた。牧師と面識があり、会場をただで貸してくれると既に承諾がとれているというのだ。しかし教会という空間は残響が長く小さい音の楽器やコーラスには相応しいけれど、音量が半端ではないBamboo Orchestraの場合はいただけない。それに会場は狭く100人位の集客が精々であまり収入が見込めない、という問題もあった。私は「アクト神戸」の例を説明して、どうせならもっと多くの出演者に声をかけて、もう少し大きい会場を探してみたら、、、と規模の拡大を提案した。というのは声を掛ければ数十人のグループや演奏家達が出演したいと申し出るに違いないし、市に掛けあえば市の重要な会場を提供してくれる可能性もある、、、と想定したからだ。そして彼女に、うちのアマチュアのグループ、「Pousses de Bamboo Orchestra」も会場ロビーあるいは外で聴衆の入場前に演奏する事を提案した。罹災した日本の子供達に送る義援金の為に、フランスの子供達が演奏するというのは実に良いイメージだとタカエ嬢も賛同した。

タカエ嬢は実に駆動力があった。早速市の窓口と交渉し、ビューポー(旧港)の脇に聳え立つお城の様な建物Palais du Pharoの900人を収容出来るオーディトリアムをただで借りる、という話まで取り付けた。後で知ったのだが、彼女の実家は神戸で、震災の時に家はつぶれ多くの人々の協力を得た、、、だから、今回の被害を聞いてはいても立ってもいられなかったと言うのだった。

「やったねタカエ!」

「助役の対応も初めは煮え切らなかったけれど、Bamboo Orchestraも出演しますと言ったら急に態度が変わって話が進展したのよ。マコトさんホントにありがとう」と感謝された。手前味噌を承知で言わせていただければ、確かに20年近くこの地で活動を続けて来たので、マルセイユ市の文化関係者でBamboo Orchestraを知らない人はいない。しかしBamboo Orchestraの名前を出したら話が好転したとは嬉しいではないですか、、、。

この企画には、私と同じく南仏で活躍しているソプラノ歌手由紀美嬢、ピアニストの岩本氏、そして国立バレー団に参加している遠藤氏も団員のダンサー17人を引き連れ参加し、美術家の渡辺氏、それにギタリストのペドロ・アレド(Pedro Aledo)、アルメニアのドゥドゥック(オーボエ属の楽器)奏者、レボン・ミナシアン(Levon Minassian)、そして現代音楽のピアニスト、ニコラ・マズマニアン(Nicolas Mazmanian)など南仏在住の日本人アーティストとその友人達が総出演するプログラムになっていった。

当日、 座席数900しか無い会場に1000人以上の聴衆が詰め掛けた。日仏協会関係者は大規模な催しには不慣れで、その上こんなに人が集まるなんて予想だにしていなかったのでてんてこ舞い。日本の災害に関心を持っている人が如何に多かったかという証明でもあるのだが、ほんの二週間の準備期間の間に、マスコミも色々取材協力してくれ、私もテレビのインタビュー、そして新聞にもチャリティーコンサートに出演するBamboo Orchestraの写真が大々的に取り上げられた。このマルセイユ特集紙面は、チャリティーコンサートの記事が第一面、第二面にサッコジ大統領と菅首相が握手している写真(サッコジ氏は丁度この時期日本に行っていた)という風で、チャリティーコンサート開催記事がトップに来るという扱いになっていた。

会場に入れなかった200人程を断らざるを得ないという、実に残念な結果になってしまったが、市の施設でありセキュリティーが厳格で融通が利かない。立ち見を出すわけにはいかないのだ。うちのPoussesのメンバー40人もロビーでの開幕演奏の後、会場に入って舞台の演奏を聴ける段取りになっていたのに客席は既に満席。渋々楽器を片付け帰路についた。翌日、日仏協会から各自に詫び状のメールが届いた。うちのプッスの子供達も私の演奏やBamboo Orchestraトリオの演奏を聴きたかったに違いないのだが、逆に彼らが入場しなかった分、40人もの一般の人が料金を払って入場し、お陰で義援金を増やすことができた、、、と彼らには納得してもらうしかなかった。

入場料収入、レストラン、販売等の収入、総額2万4千85ユーロ(円に換算すると290万円位)にもなった。 Bamboo OrchestraのCD25枚も特価10ユーロで提供し、CDは瞬く間に売り切れた。この収益250ユーロも全額義援金としこの総額の一部に加算されている。


チャリティーコンサートのポスター

フランス便り No.21
ブルキナファッソ               矢吹 誠 (高22回)

チャーターしたタクシーは赤土のガタガタ道を80km/hほどの速度でとばしていた。この日曜日は唯一の休暇がとれ、せっかくだからとボボジュラッソ(Bobo dioulasso、以下ボボ)からバンフォラ(Banfora)の街までバスで行き、そこからサンドゥー尖峰(Les pics de Sindou)とバンフォラの滝(Cascades de Banfora)を探訪する予定だった。大きな街を結ぶ幹線道路は舗装されているが、そこから一歩でも外れれば赤土のでこぼこ道。平らになっている部分も、行き交う車両の振動でまるで洗濯板の様に規則正しい泥の起伏が続いている。今では見ることもない古いトヨタの四輪駆動車はサスペンションがほとんどへたっているから、路面の振動がまともに体を直撃する。まるで全身マッサージ椅子に座っている体。対向車があれば赤土の土煙は猛烈な勢いで車内を突き抜け、しばらく前が見えなくなる。暑いからもちろん窓は全開だ。

突然、ドスン!と大きな音がしたと思ったら車が横滑りを始めた。いったい何が起こったのか私には皆目理解できなかった。道の両側は低い溝になっていて道路からは7〜80cmの段差がある、そこへ向かって車は突進している。助手席に乗っていた私は、これはもうだめだと直感しドアの上の取っ手を握り締め身を構えた。道路から落下しそうになり運転手は慌ててハンドルを切り返し、今度は反対に尻を振り横滑りしジグザグを繰り返したあげく、ようやく車は停止した。

ともかく命は助かった!ホッとして車から降りて見ると、何と左後輪が無い、、、。数十メートル後方の溝の下に脱落したタイヤが、それも車軸と共にころがっている。カートゥーンのアニメマンガではタイヤがとれても車は走り続け、あるいは主人公がぶつかってぺしゃんこになってもすぐに再生するけれど、現実はそうはいかない。タイヤ三つでは自動車は走り続けられないし、高速で車が溝に落ちれば横転し大破し大けがは免れない。道の両側には時折頭に大きな荷物を頂いた女性達が歩いている、ロバがリヤカーを引いている、 荷台にバナナを積んだ自転車がすれ違う、荷物を満載したトラックが高速ですれ違う。もしこの事故現場に人が歩いていたら悲惨なことになっただろう、もし対向車や後続車があったら私たちの命は無くなっていただろう、、、。

 

初めてのアフリカ

アフリカのブルキナファッソ(Burkina Faso) Bamboo Orchestraの二人の打楽器奏者、ギヨームとナタナエルを伴い、私は10日間の予定で内陸国ブルキナファッソのボボを訪れた。在ボボ・フランス文化センター(Centre Culturel Francais、以下CCF)国際児童演劇祭(Festival International de Theatre Jeune Public、以下FJP)の招きでコンサートとワークショップ。私は今回初めてサハラ砂漠の南、本物の黒いアフリカに降り立った。以前にもエジプトとチュニジアには行っているが、これは地中海沿岸の北アフリカアラブ圏で、本当のアフリカではない。

ブルキナ行きが決まったけれど、準備は簡単ではなかった。

まず黄熱病の予防注射。この証明書を携帯していと入国できない。それも、このワクチンは民間の病院や医者では扱っていないから、わざわざ軍病院にまで出掛けて予防注射を受けた。そしてパリュ(Paludisme/マラリヤ)対策。初めて知ったのだが、マラリヤのワクチンというのは存在しない。ただ、あるのはマラリアに掛かってもすぐに発症しない薬とか、ひどい時には命が危ないマラリアの症状(高熱で震えが止まらない)を軽減する薬とか。そしてそれらの薬は副作用が激しく、吐き気を催したり頭痛がしたり、、、服用しても決して快適ではないとの話。軍病院の熱帯病専門医は、「蚊に刺されてから発症するまでに少なくとも10日程掛かり、滞在期間が短い場合には意味が無い。フランスに戻って来た後、もし熱が出たらすぐに連絡しなさい。それが得策」と教えてくれた。後はマラリア原虫を持った蚊に刺されない様に防御を完璧にすること。部屋に撒く殺虫剤、コンセントに差しておく電気蚊避け装置、そして衣服には蚊除けのスプレー、肌が出ているところには蚊避け塗り薬。もちろん夜の外出は幾ら暑くても長袖シャツに長ズボン、靴下は欠かせない。しかし、マラリヤを伝染するハマダラ蚊は小さく、音も無く近づき、そして刺されてもかゆくもなければ跡も残らない、、、と何だか神秘的な話もきく。この短期滞在中にマラリアに掛かってもしょうがない、予防するに限る。

また、現地で怪我をしたり病気になった場合、アフリカの病院で治療を受けるのは逆に危険が倍増するから、そうした場合にはすぐに本国(フランス)に移送してもらう為の保険、というのも契約した。先の様な車の事故、幸いこの保険を使わずに済んだけれど、、、。

一方、荷物を減らす工夫も骨が折れた。我々の普段の5人編成コンサートで使う竹楽器群は重さ650kg、1m四方の木箱4個以上にもなる。そして今回の様なトリオ編成の場合でも重さ350kg、1m四方の木箱2個分。既に中国とレユニオン島でトリオ編成コンサートの経験があるが、楽器空輸の準備は大変だった。大型荷物は我々演奏家と同じ旅客機には積めないので、事前に別のカーゴ便で運ぶことになる。関税が掛からない様に荷物の中身の事細かなリストを作り、あらかじめ税関に申告しなければならない。これをATAカルネ(Carnet ATA)と言う。そして、一箱150kg以上もある木箱は、我々自身では到底運べないから空港運送専門業者に頼まなければならない、経費も掛かる。今回は予算も限られているので、楽器も手荷物の延長で演奏者と共に旅が出来る最小限の方式を編み出す必要があった。竹マリンバもクロマチック音階ではなくディアトニック7音音階の簡単なものだけにした。 既存のレパートリーの半分はカットし、尚かつ音楽的な豊かさを損なわない様に工夫しながら、限られた楽器でも成り立つ曲を新たに作曲し追加した。

ワガに降り立つ

首都ワガドゥグー(Ouagadougou、以下ワガ)の空港で飛行機から外に出ると、まるでサウナの様な熱風が待っていた。暑いとは覚悟していたけれどこれはもの凄い!空港は工事中の様子で(たぶんずっとこういう状態なのだろう、、、)、空港内部の通路の壁はベニヤ板、床は土間。パスポート検査に並んでいると、横から「マコト?」と声をかけてくる人があった。それがFJPディレクター、アラン・エマ氏(Alain HEMA)だった。私たち三人を別室に招き、そこで知人らしき担当官による簡単なチェックを済ますと、並んでいる人達を尻目に脇通路の監視員に挨拶し我々を導きさっさと検査カウンターの外に出た。どうやら彼は空港関係者にも顔の効く大物らしい。

検査カウンターの後ろはそのまま荷物受け取り場。 ここも土間で、普通の空港で見かけるベルトに乗って荷物がぐるぐる回る様なシステムは無い。天井の扇風機がゆるゆると回っているが、汗がひっきりなしに出てくる。そこに、バゲージを満載した大きな荷車を係員が押してくる。待ち構えていた人びとは、わっと一斉に群がって各自自分の荷物をひったくるのだ。私たちは個人バゲージの他に竹楽器を分解してダンボール箱に詰めたものと簡易包装した荷物が6つ。それらを無事に引き取って外に出る。ここでもアランは係員と談笑し、何の検査も無く待っていたワゴン車に荷物を積み、ワガの宿泊先に出発した。後で判ったのだが、実はアランはテレビの連続刑事ものの主役を演じている俳優でもあり、皆彼の顔を知っているのだった。私たちの目的地ボボは、空港のある首都ワガから3〜400km南西に行った第二の街で(国名がオートボルタだった時代はボボが首都だった)車で5時間も掛かり、夕方に着いた我々はそのままボボまで移動するわけにはいかなかった。私たちの宿舎はなんとソチギ・クヤテ(Sotigui Kouyate)の家だった。 有名だった彼の家だからさぞ豪華だろうと思いきや、単なる民家でもちろん冷房も無ければ、蚊帳も無い。しかし、テラスにあるアフリカ式の籐の寝椅子を見つけ、ここにソチギが特異な眼差しで長い体を横たえて座っていたかと思うと感慨深かった。 何という因縁だろう、私は彼と面識があった。

ソチギ・クヤテは、アフリカを代表する俳優のひとりで、惜しくも先月亡くなった。2009年ベルリン映画祭で男優賞を獲得し、長身で独特の風貌の性格俳優は日本でも彼を知る映画通は少なからずいるに違いない。彼は舞台でも活躍し、特に日本でも上演されたピーターブルック劇団の「マハーバーラタ」では中心的存在だった。 アランも俳優同士で特に親密だったらしく、我々の到着直前に行なわれた大々的な彼の葬儀の段取りにも奔走していたと聞く。

その夜は近所のライブハウスに招かれた。他に言葉が見つからないのでライブハウスと言ったのだが、 道路に面した簡易レストランの脇に演奏用の土間がついている、、、という簡素なもので、照明は薄暗い裸電球が数個ついているだけ。そこでアランが主催する楽劇団テアトル・エクレール(Theatre Eclair)の若い楽団員6人が演奏を披露してくれた。2台のバラフォン、ジェンベ、ドゥムドゥム、そして二人の女性歌手兼ダンサー、、、歌と踊りと強烈なリズム、典型的な西アフリカ音楽だ。 地元ビール「ブラキナ」を飲み、アランが見繕ってくれた食べ物を手づかみで口に運びながら、(といっても暗いから何を食べているのか良くわからない)着いたその夜からアフリカ文化にどっぷり浸かる日々が始まった。

夜が更けても一向に気温は下がらず、ソチギ家の部屋はうだる様に暑い。マラリヤが怖いので窓を開けて寝るわけにはいかない。防虫剤を撒き、部屋を閉め切り、唯一の扇風機を回しながら床についた。扇風機は熱風をかき回すだけで涼しくはならない。汗は流れ続ける、、、結局この夜はほとんど眠れなかった。

翌日、エクレールのバラフォン奏者サミーとジェンベ奏者ヤクバが、我々の荷物をワゴン車のギャラリーの上に高々と積み上げ、正にアフリカスタイルでボボに向かって出発した。首都ワガから第二の都市ボボまでの幹線道路。日本で言えば東京と大阪を結ぶ東海道、舗装されている、検問もあって料金も徴収する。しかし途中は穴だらけの道で、高速で走行するわけにはいかない。中央分離帯はおろか、中央分離ラインも引かれていない場所もある。対向車とすれ違えるだけの10mほどの道幅を、穴を避けながら右に左に迂回し、ときには完全に片車輪を未舗装の路肩の外に出して通らなければならないほど、まるで空爆を受けたかの様に全面穴だらけの場所もあった。最も重要な幹線道路も整備できない、これがブルキナの経済状況だ。

出会い/アトリエ/コンサート

さて、ボボに着いた翌日から何とハードスケジュールが待っていた。10日間の滞在中の仕事はコンサートだけではない。子供達のパレードの指導、現地音楽家達との出会い、マスタークラス、、、。

ボボはブルキナだけでなく中西部アフリカ諸国の中でも音楽の中心地として名を馳せ、有名音楽家を多数輩出している。CCFディレクトゥリス、クリスチンヌ女史は、我々をなるべく多くの地元音楽家達と出会わせようと、早朝からほぼ一時間おきにスケジュールを組んでいた。まず街はずれまでセンターの四駆でグループ「ファラフィナ」に会いに行った。車から降りると通りまでバラフォンの響きが聞こえている、ぬかるんだ泥道を歩いて民家の中庭に入ると、そこで彼らが練習していた。ファラフィナは現在80才ぐらいになるというママ・コナテが1980年代に創出したグループで、 ブルキナのアフリカ音楽を世界に知らしめたグループといっても過言では無い。彼らが数曲演奏を披露してくれた。その後我々に一緒に入って演奏しろと促すので、三人はバラフォンとバラとドゥムドゥムを彼らと共に叩いた。 我々は打楽器奏者なのである程度は即興で対応できるけれど、彼らアフリカ演奏家達の乗りにはとうてい敵うわけがない。こんな風にして午前中に何と三つのグループを訪問、その後も毎日、アダマ・ドラメ、トリオ・ロロ、トゥグマニ・ディアバテなど、ブルキナを代表する演奏家達と出会い、そしてセッションを試みた。

午後は子供達のパレードの指導。フェスティヴァル開幕には、市庁舎からCCFまで子供達の竹楽器演奏でパレードをしたいので指導して欲しいと、あらかじめアランからメールで依頼されていた。短期間でパレードを構成するには、ブラジルのバトゥカダ方式が手っ取り早い。 集まった30人ほどの子供達を三つのグループに分け、それぞれスリッタム(竹スリットドラム)、手マリンバ(二音を手にもって交互に叩く)、ケチャ(竹べら)で簡単な組み合わせリズムパターンを作り、それに太鼓とジェンベを加え、私のホイッスルの合図で二つのリズムを交互に変化させるという方式 。参加したのは、普段音楽には馴染んでいない8〜10才位の小学生たちが中心だが、さすがにアフリカの子供達、リズムの飲み込みが早い。

二日間の練習で何とかパレードができるまでにこぎ着けた。 普段は薄汚れて破れたTシャツを着ている子供達が、当日には一張羅の民族衣装柄のシャツに身を包んで現れた。彼らのあどけない表情の中にも、晴れのパレードに参加する緊張が見てとれ、微笑ましく思った。

続いてその夜には、CCFの野外劇場で我々の開幕コンサート。日没と共に始まったコンサートでは、私たちが予想だにしていなかったことが起きた。何と汗が掌にまで沸き出し、手に持つバチが滑ってコントロールが利かない。 演奏中にびっしょり汗をかくのは普段のコンサートでも慣れているが、掌までがぬるぬるになりバチがしっかり握れないという経験は初めてだった。ギヨームとナタナエルも、 「バチが手をすり抜けて宙に飛んで行ってしまうのではないかと演奏中ハラハラした」、と終演後ホッとしながら同じ感想をもらした。そんな風で演奏者側は危なっかしい心境だったが、会場は満足した聴衆の盛大な拍手でつつまれた。最後のアンコール曲では、パレードに参加した数人の子供達が舞台に登場しアンクルン演奏を披露したのも功を奏し、舞台はもり上がった。

さて、子供達のパレード用竹楽器演奏指導と開幕コンサートを無事に終え、後は地元アフリカ演奏家達へのワークショップ、マスタークラスを残すのみとなった。ところが、パレードに参加し舞台でアンクルン演奏もした5〜6人の子供達は、次の日の午後もCCFの庭に現れて待っていた。「もうアトリエは終わりだよ」と言っても、恨めしそうな顔をするだけで立ち去る気配はない。どうやら竹楽器演奏の虜になった様だ。ナタナエルが見かねて、片付けてしまった竹マリンバを庭に並べ、「にぎわいの森」(La Foret Animee)という簡単な曲を子供達に練習させた。子供達は嬉々として習得し、センター中に竹マリンバ合奏が響き渡った。クリスチンヌも音を聞きつけ「すばらしい、ボボ竹の子合奏団誕生! 」と興奮気味で、ディレクター室のある二階バルコニーから身を乗り出して写真撮影に興じていた。

そうは言っても、我々は二三日後にはフランスに戻らなければならない。竹楽器演奏、そして音楽に目覚めた子供達をこのまま放置して帰国してしまうのは後ろ髪を引かれる思いだ。地元演奏家の中にバラフォン製作も出来るという若者がいたので、 彼に竹マリンバの構造と製作方法を説明し、ぜひ地元の竹を使って試作することを提案した。日本の竹とは種類は違うが、直径10cm程にはなるバンブサ・ビュルガリス(Bambusa vulgaris)という熱帯性の竹がブルキナにも生えている。そして、クリスチンヌとアランには、もし竹楽器が手に入らなくてもアフリカの楽器を使って誰かが指導を継続し、この子供達の情熱を無駄にしないで欲しいと懇願した。

今後の展望

フランスにいると、アフリカとの距離は日本に居る時より遥かに近い。地中海の向こう側はアフリカ!という地理的な近さだけでなく、フランスに住んでいるアフリカ出身者も多く、アフリカ人演奏家との共演機会も少なからずある。しかし実際に現地に行き、地元の演奏家、そして子供達と竹楽器を媒介にして交流するという経験を経て、今までとは違った、生きている生身のアフリカが見えてきた。今回あまりにも多くの情報を一時に受け取ったのでまだ心の整理がつかないが、大げさに言えば「今後私はアフリカとどう付き合うのか?」という課題の海に膝までどっぷり足を浸してしまった、という感覚だ。さっさと岸に引き返して、足を乾かすか?あるいは沖に向かって勇気を奮って泳ぎ出すか、、、?

アフリカ音楽には、音楽にとって本質的で大切な要素がある。譜面などには拘束されず、音楽と踊りが一体になり、体から音楽が沸き上がる。「魂の躍動」と言ってもいい。私の音楽哲学としても、ヨーロッパの頭でっかちな音楽よりは、そういう体から沸き上がる音楽に軍配を上げる。ただ彼らの音楽はすばらしいけれど、竹という素材にこだわり竹音楽を追求している私が、彼らアフリカの演奏家達と共同して果たして何が創出出来るだろうか?という設問が待っている。つまり音楽語法の違う私、そしてBamboo Orchestraとアフリカの演奏家がどのような方法、回路を通じて真の共同創作が実現できるか?である。彼らの民族楽器、コラやバラフォンなどのメロディー楽器、ジェンベ、バラ、ドゥムドゥムなどの打楽器にベースギターやキーボードやドラムスを加えた、近年のアフリカンポップス。これは簡単にできるし流行っているけれど、その様な発展のさせ方に芸術的意味があるとは思えない。アフリカ音楽を生かしたもっと本質的で創造的な方向は無いだろうか?それも竹楽器の音色を生かした新しい音楽の可能性がきっとあるに違いない、、、と模索しているのだ。

ご存知の様に、アフリカには音楽を始めとした文化的豊かさ、そして人間的豊かさと、一方で経済的貧困が同居している。今回飢えて死にそうな人には出会わなかったけれど、音楽家達といえども生活は苦しそうだった。とにかくフランスや日本などの先進国との経済格差は甚だしい。それにブルキナファッソ北部はサハラ砂漠に接しており、砂漠の拡大、南下を防がないと、貧困は増々深刻になる。日本からも外務省の外郭団体JICA(ジャイカ/国際協力機構)の海外青年協力隊の若者達が、数多くブルキナでも活動している。現地でそんな彼らにも出会った。

たとえボボの子供達が嬉々として竹楽器を演奏してくれたとしても、 単にアフリカに私が考案した竹音楽を普及しようと目論んでいるのではない。実は音楽という狭いレベルではなく、「竹を巡る総合的な文化」がアフリカに根付くこと。そこから恐らくアフリカ文化の新しい方向、発展が可能かも知れない、、、と夢想しているのだ。今の段階では詳しいことは何も言えないが、アフリカにも竹が生えているのに、その竹を有効に利用している場面には出会わなかった。もちろん竹製の楽器も見かけなかった。

竹がエコロジーで有用な植物だということは、この稿でも何度も話しているけれど、アフリカでも竹を有効に使うことが出来るはずだ。竹から紙が作れる、竹から糸がとれ布が織れる、合板が作れる。これらの産業はインドネシア、インド、中国では既に盛んに行なわれ、それぞれの国の経済を支えている。そしてもっと環境に優しい方法は、フランスの企業が考案した自然の竹林をそのまま使った下水浄化装置だ。

竹の根が地中に広く張っていることは昔から知られている。「地震があったら竹林に逃げ込め」と言う、その通り。この広く張った竹の根の吸水力は他の樹木とは比較にならないほど大きい。

もちろん、水の少ない砂漠に竹を直接植えることは出来ない。しかし人里、人が定住し村を構成しているところでは、必ず水があり生活排水が出る。その排水を竹林に導き竹を生育すると共に、広く張った竹の根の強い吸水力と殺菌作用で、薬品などを使わずに下水の浄化が出来てしまう!自然のサイクルをそのまま利用した排水処理装置。こんな単純な発想、誰でも思いつきそうなシステムだが、伐採した竹材の利用という面では様々に考案した日本人も、自然の竹林をそのまま利用するという着想はできなかった。この方式はフランスの企業が国際特許を取得し、フランス国内では既に各地で実現されている。また、はばかりながら私たちBamboo Orchestraも彼らと共同し「総合的な竹文化振興」を画策しているのだ。なぜなら竹林は毎年ある程度伐採することで活性化し、、、つまり竹材が自ずと生み出される、それを有効に文化的に利用することが次の段階で求められているから。

そう、私が目論んでいるのは単なる竹音楽ではない。「竹を巡る総合的な文化」がアフリカに根付くこと。ひょっとしたらその事によって、アフリカに今まで誰も想像しなかった、新しい未来が開けるかも知れない。
  
フランス便り No.20
ジャパン・エクスポ、そして義父の他界               矢吹 誠 (高22回)

人ごみをかき分けかき分け、やっとの思いでBamboo Orchestraの展示スタンド(ブース)に辿り着いた。人にぶつかることなく真っ直ぐには歩けない。 右に左に迂回し、身をかわしながら、何処からこれだけの群衆が湧き出てくるのだろう?といぶかった。会場を埋め尽くしているのはMANGA(漫画)のキャラクターに変装した少年少女達。ここは東京、原宿ではない。 先週末土曜日、南仏マルセイユのJapan Expo. Sud (南の日本展)会場である!

 大きなダヴィデ像に向かって一直線、地中海の砂浜に突き当たるプラド大通りの根元、ロンポワン・プラド(プラドロータリー)に面したパークシャノ・エクスポ会場で、2月19、20、21日の週末三日間Japan Expo. Sudが開催された。ジャパン・エクスポは名称通り「日本」がテーマだけど、内実はマンガ中心で、ビデオゲームやマンガキャラクターのついた関連商品、あるいはコスプレ用コスチュームの販売ブース、日本刀の模造品を処狭しと並べる店などが何十と軒を連ねる。そして一方の畳を敷きつめたコーナーでは柔道、空手、合気道など日本武道の模範演技、そして着付け、書道、生け花、折り紙、指圧、、、等日本文化に関わる日仏協会等も展示やデモンストレーションをしている。しかし、圧倒的に「マンガ」がこの展示会の目玉であり、そしてそのマンガ文化を求めて無数の若者達が会場にやって来ている。遠くはトゥールーズから電車で4−5時間掛けて来ている若者もいた。

  

このエクスポは、パリでは既に11年目。南仏マルセイユでも昨年に続いて二回目になる。うちのBamboo Orchestraは、コンサートと展示双方で参加。五人編成クインテットのプロコンサート、そして子供達のPousses de Bamboo Orchestra (プッス/竹の子合奏団?)も会場の大舞台で演奏し大喝采を受けた。会期中三日間続けた展示ブースは、しばしばコスプレ組に乗っ取られ、コスプレ撮影コーナーと化した。

       

マンガの浸透

ことほど左様に、フランスでは今マンガがブームである。もちろん日本産のマンガ。私も小学生の頃には鉄腕アトム、鉄人二十八号等を読みふけった記憶はあるが、一定の年齢で卒業した。しかし日本ではマンガから卒業しない人達も多くいる。大人になりサラリーマンになっても山手線の中で少年マンガを読んでいる人、あるいは駅の売店に溢れている大人向きマンガ雑誌達。マンガという視覚的刺激には飽きてしまった私にはこの心理、現象はあまり理解できない。一時谷岡ヤスジの不条理なマンガが注目され、私もその表現方法に社会への鋭い洞察が感じられ楽しんだ記憶はあるけれど、私にとってのマンガはそれ以上ではない。

       

昨年のJapan Expo. 体験で免疫ができたのだろうか? 今年は、これらコスプレ少年少女の群れにかこまれてもショックが少なかった。 最初は「こいつら、何考えてんだ!」と違和感と激しい嫌悪感をおぼえた。また、日本に発するマンガ文化がこのような形でフランスの子供達にまで影響を及ぼしていることが、果たして正しいのだろうか???と疑問になった。人間、異質なものに接するとすぐには理解できず拒否反応を起こす。それも、世代が違う子供達の奇天烈な行動は理解不能!、、、と思考回路を閉じてしまう。私も最初の印象はそうであった。

このマンガ展に来ているフランスの若者達と接してみると、彼らが非常に大人しく、気の優しい少年少女達であることに驚く。例えばうちのスタンドの楽器に興味を引かれて近づいてくると、多くの子供達が楽器の上に置いてあるバチを手にして叩いても良いかとたずねてくる。その点極めて礼儀正しい。私は若者相手の対応が面倒だから、店番の年寄りの様にスタンドの奥で座って見ているのだが、会場に溢れる喧噪の中では声は届きにくいから楽器を指差したりして身振りで許可を求めてくる。私は「良いよ」と首をたてに振って答える、、、というやりとりを何度もした。

そして、コスプレで見事に変身しているかれらは、カメラを向けると本当に嬉しそうににポーズをとる。その態度はとても純真で素直である。「いたいけな子供達」という表現はこの場合適切ではないかもしれないが、それ程ナイーブなのだ。彼らにとっては、まるでカーニバルで仮装行列をしている感覚なのだろう。大人でも子供でも、あるハレの日、ハレの瞬間、それは例えば春を迎えるカーニバル等お祭りの日。この時は誰がどんな格好に変身しようと許される。普段の単調な生活からこの時ばかりは解放される「ハレ」の心理である。少年少女達も、このエクスポ会場でお祭りのハレの時間を体験しているに過ぎない、、、と、そう理解すれば実に納得がいく。ただ、彼らがマンガの主人公の衣装をインターネットなどで購入して纏うという、創意工夫の無い受動的な態度は残念であるが、、、。これも今日の消費社会ではしょうがないことなのか?

一方、子供達の心を引きつけるマンガを描いている漫画家達の創造性には脱帽する。私もかつては一時美術大学に籍を置いたけれど、情けないことに自分の絵心の無さは十分承知しているから、(それが理由で大学を中退したわけではないけれど、、、)単純な線だけで様々な動作、表情や感情をデフォルメして見事に表現できるこれら漫画家達の才能をうらやましく思う。

 

平和な社会

「文化というものは、 水の様に高いところから低いところに流れて行く 、、、」と喩えるけれど、 日本のマンガ文化がフランスの文化より高いから流行っているのだとは思えない。コスプレ少年少女に対する違和感は、実際に彼らと接してみて少なくなったとはいえ、この様な現象がなぜ発生し伝搬するのか?という所以については少し考察しておく必要があるだろう。

日本とフランス。もちろんフランスだけでなくヨーロッパ諸国、アメリカ合衆国などの先進国都市部では、環境が同質化している。家電製品や自動車等生活用品の充実、そしてコンピューター、ビデオゲーム、デジタルカメラ、携帯電話等のテクノロジー製品が街にあふれ、中産階級の子供達は金銭的な心配もなくそれらの物質文化を享受することが出来る。街はいたって平和だ。犯罪は何処でも発生するけれど、他国から理不尽な侵略を受けたり、内乱といった戦争状態にあるわけではない。合衆国のサブプライムローンに端を発した経済不況が世界を覆っているとはいえ、これらの国々で本当に明日食べるものに困っている人は少ない。一方、アフリカや中近東、インドや中国農村部、中南米諸国等では、何の蓄えも無く飢えに苦しんでいる人達がいる。軍事政権、あるいは戦争から命からがら逃れ難民キャンプで日々を過ごしている人達も世界中にどれだけ存在することか?ハイチの地震災害の復興にはまだまだ時間が掛かるだろうけれど、世界中から注目され援助が集まっているポートプランス市の住民達の状況は、他の地域に比べればまだましかもしれない。

もし、会場を埋めているフランスの子供達がそんな環境で生まれ育っていたとしたら、果たしてコスプレで身を包むだろうか?と考える。第一そんな地域でコスプレ衣装は手に入らないだろうけれど、そういう意味ではなく心理的な問題としてだ。物質的に豊かな生活も悪くはないが、私には決定的に何かが欠乏しているのではと感じる。そしてこの種の欠乏感は、繊細な少年少女ほど心の奥深くで、本人が客観的に意識すること無く、敏感に感じていると想像する。

一見奇異なコスプレ少年少女達、でも中身は実に素直な子供達なのだから、大人達は彼らにもっと本質的に豊かなものを与えてあげるべきではないだろうか?つまり精神的に満足できる真の豊かさをだ。私のしているのはささやかな行為ではあるが、マンガに興味を持ち会場を訪れた彼らに、 何の変哲もない竹筒、自然の素材にちょっと手を加えるだけで豊かな音色の竹楽器が生み出せ、音楽というコミュニケーションを誰もが楽しむことが出来る、、、 「音楽」はインターネットからダウンロードする以外にも楽しむ方法はあるのだ、、、と知ってもらい、少しでも彼らの創造力を刺激し、本当の精神文化的豊かさを模索するきっかけになれば、と少なからず期待しているのだ。

 

豊かな精神文化とは

実は、私のこんな考えは身勝手なものではない。このジャパン・エクスポを10年に渡って主催して来た青年 Romain DASNOY (ロマン・ダノワ)も同じ考えであり、また彼は驚くほど日本文化に通じている。恐らく30才台半ばだろうこの青年は、日本の映画や音楽やあらゆるものに造詣が深い。因にJapanExpo.Sud公式サイトに先日まで掲載されていた私のインタビュー記事は、私のファンでもあるロマン自身が用意したもので、質問内容はまるで音楽ジャーナリストの様に微に入り細にわたっていた。私の音楽の中に武満徹、スティーブ・ライヒと通ずるものがあると見抜き、比較していた。

前回で些か懲りたから、今回もコンサートは引き受けるが展示ブースは辞退したいと申し出たら、「このエクスポでBamboo Orchestraは重要な存在、経費も持つから是非三日間展示して欲しいと」とロマンに懇願され、渋々承知した経緯があった。大舞台での演奏はうちの子供達メンバーも喜ぶから良いのだが、広い展示ブースは常に2〜3人の監視が必要だし、キャラクター商品を並べるブースとは違い売る物は何も無い。たとえただで展示会場を与えられても、疲れるだけであまり気が進まなかったのである。

さて、「何時の時代でも、若者達というものは謂れの無い焦燥感にさいなまれているもの」と達観し、「いずれ大人になれば考えも変わるさ」と、これら流行の社会現象に翻弄されている若者達を放置することも出来るかも知れない。 例えば私たちの青春時代、日本では1970年の学生運動、フランスではメ・スワサントゥィット(Mai 68)だった 。メ・スワサントゥィットを日本では「パリ5月革命」と訳しているけれど実際には「68年5月」という年月を表わす名称に過ぎない。しかし、1968年5月の学生蜂起に端を発し、フランスではそれまでのシャルルドゴール政権が交代し、大学内の自治制度だけでなくあらゆる意味で文化的な変革がなしとげられた。しかし一方日本の学生運動は結局何の成果ももたらさず、徒労に終わった。、、、と、私個人の苦い思い出はともかくとしても、 焦燥感を抱く繊細な若者達に本当の意味で精神的に豊かな人間性を育める環境を整え提供することは、その後の社会を形成する上で極めて重要だと私は考える。何しろ現在の若者達が次の世代には大人になり社会を担うのだから。

消費経済優先社会が、純真な若者達を都合の良い顧客として利用するのは赤子の手をひねる様に簡単かもしれないが、結局その彼らが精神的に貧しい創造性のない大人になって次の世代の社会を構成する、、、という悪循環を続けていては、社会が本当の意味で精神的に豊かにならない。1970年、学生運動を経験し果敢に戦ったはずの私たちの世代が、今50才〜60才になって実際どのような形で、行動で日本の社会あるいは世界で文化的に貢献しているだろうか?と問いかけてみれば、 今現在の若者達の心の中に精神文化的豊かさを育む必要性があると私が拘っている意味が理解していただけるだろう。学生運動とコスプレ、表に現れる形は違っても、若者達の精神的欠如感、焦燥感の発露というレベルでは全く同じだと思うのだ。ただ時代の空気が違ったに過ぎない。

義父を見送る

さて、このエクスポの時期に重なって、妻ナディンヌの父ミッシェルが他界した。丁度一年ほど前から肺癌との闘病生活がはじまり、息を引き取る直前の二週間は、死を間近に控えた患者を収容する特別病院、セント・エリザベット・クリニックに入院していた。我が家から歩いても行けるサンク・アヴェニューの高台にあるセント・エリザベットは修道院を改装した荘重な建物で、病院の冷たいイメージとは違い看護婦達も実にきめ細やかな対応をし、照明も内装も暖色、床はフローリング、 神父が毎日個室を訪問して患者と対話したり、と出来得る限り快適な環境を整えてあげることができた。火葬場に送り出す前には、このピエール神父が敷地内にあるシャペルで告別式も執り行ってくれた。

病院に入ったり出たりを重ねた一年間の闘病生活は、家族達も気持ちの重い日々を過ごした。医師の診断通り徐々に体力が衰えてゆき、半年前には声帯を壊し会話がはっきり出来なくなり、 最後の三ヶ月は歩く力もなくなりベッドから離れても車椅子、そして最終的にはベッドからも起きあがれなくなった。肺癌の痛みはモルヒネで押さえていたから苦痛の表情はあまり見受けなかったのが、彼にとっても家族にとっても唯一の幸いであった。本人には癌とは告知しなかったけれど、回復する見込みが無く日々体力を失い、死に近づいていることを彼もある時点で悟ったに違いない。何しろ会話が好きで陽気な人だったから、半年前から声が出なくなって好き勝手なことが言えなくなったのが、何より大きなショックだったようだ。

マルセイユで生活すること既に17年、 近所に住んでいた義父ミッシェルとはこの間ほとんど毎日の様に顔を合わせていた。マルセイユ生まれではあるが、両親はフランコ政権時代に故郷を逃れてフランスに移住したスペイン人。血は争えない、陽気で屈託が無い。日本に残している私の実父も健在だけれど、 ミッシェルは私にとってはこの17年間実の父親同然であった。いつも冗談を言い、私が真面目な顔をしていると、『スーリー!』(souris! 微笑め!)と言って無理矢理笑顔を作らせられた。始めは余計なお世話だと不快感が先に立ったが、何度も言われていると、この助言はなかなか気が利いているとわかった。無理をしてでも笑顔を作ると、その顔の表情に影響されて気持ちまで変化し楽になるから不思議だ。

かれの口調には南仏地中海地方特有のなまりがあり、le vent (ヴォン/風 ) をル・ヴァン、le matin(マタン/朝)をル・マテンとちょっと口を開け過ぎた発音になる。私は日本人で、もちろんフランス語の発音は上手ではないけれど、わざと義父に向かって「あんたの喋るのはフランス語じゃないよ」とけしかける。すると向きになって「気取ったパリジャンじゃないのだから、これでいいんだ」と反発する。もちろん、お互い冗談と心得た上での会話なのだけれど。

日本の文化にも興味を持ち生魚の刺身も好きだった。しかしスペイン気質は変えられない。粘る米は米じゃない!と日本米を否定した。にぎり寿司も上の具だけしか食べない。「あんたは、日本や他の食文化が理解できない頑固者だ」と攻撃すると、「米はベタついてはだめ、一粒ずつ分離しなければ美味しくない」と最後まで譲らない。確かにパエリャが粘る日本米では美味しくないのは判るけれど、にぎり寿司の米がぱさぱさでは 、第一握ることもできないだろう!そんなとりとめの無い議論をしょっちゅう楽しんだ。私も冗談は嫌いではないから、口角泡を飛ばしお互い意見を譲らず食い下がっても、馬が合った。しかし冗談の反面、根は極めてまじめで正義感にあふれ、思いやりが深く他人の悪口など決して口にせず、義理の父という繋がり以上に人間的な大きさと親しみを感じる人だった。

 妻の落胆、悲しみは大きかった。ナディンヌは一人っ子で子供の頃母親が事故で長期入院し、その間父親ミッシェルが子供の面倒を見、育てたから人一倍父娘の絆が強かった。彼女は看護やつれになりながら最後までけなげに父の面倒を見、看取った。親戚一同に連絡を取り、葬儀の段取りを全て終え、妻もやっと気持ちが落ち着き悲しみから立ち直った様だった。

フランスの医療制度

一年間義父の闘病生活に付き合って知ったのだが、フランスでは社会保障制度が完備し医療費がほとんど掛からない。Securite Sociale(セキュリテ・ソシアル/社会保障)、そしてMutuelle(ミュチュエル)という任意加盟の保険と合わせると、薬、入院費がほとんどただで済む。一年間の闘病生活も経済的な負担は皆無だった。一般病院だけでなく、リハビリの療養施設、自宅に戻った時、朝昼夜と日に三回、注射や洗浄などをしてくれる看護婦の来訪、車椅子、可動式ベッド、酸素供給装置等の借用費も全てただだった。それになんと葬式の費用まで保険ミュチュエルで賄えた。さすがフランスである。

義父が病床についてから、日本の友人とのメールのやり取りの中でフランスの医療システムについて触れると、「日本では 一回の抗がん剤の投与に1万5千円も掛かる」「ある知人は一ヶ月の入院費が40万円にもなった、、、」と返事が来た。これでは、貧乏人は病気にもなれないないし、この数字を聞いただけで気分が悪くなり直るべき症状も悪化してしまうだろう、、、と話した。

最近は日本も不況で失業者が増え、路上生活者も今まで以上で深刻だと聞くけれど、フランスと日本は同じ程度の先進国。それもフランスは農業国で日本の様な最新のテクノロジー技術は開発できず、経済的には日本の足下にも及ばない。そしてフランスに失業者が多いのは今に始まったことではなく、昔から。でも皆あまり汲々とはしていない。何が違うのだろうか?それは、一つには社会保障制度のおかげだろう。病気になっても大半の人は治療費に困ることは無い。失業しても失業保険で次の職を得るまで生活でき、退職したら多くはないけれど年金で何とか生活できる、、、だから人びとは気分的にゆとりがありあくせくしていない。

日本は国民総所得世界第二位と、世界経済を主導していながら何故か日本人一般には心理的な生活の余裕というものが感じられない。国民が一丸となり、がむしゃらに「日本」という名の自転車を一生懸命漕いでいるというイメージだ。そしてこの漕ぐ足を止めたら転んでしまうのでは?と心配している。自転車が止まったら足を地面に付ければ良いのだし、また時々降りて草原で横になって休息し又漕ぎ出せば良いではないか、、、 。

社会保障制度が完備しているというのは、つまり本人がそれまで社会保険に加盟して支払って来たことの見返りに過ぎない。確かな数字が判らないから日本の医療保険額との比較はできないけれど、フランスでは強制的にあるいは自動的に収入から社会保障費をさっ引かれ、又支払っている額もかなり大きい。

私の様な演奏家、いわゆる自由業であっても、社会保障、年金等の費用は、ギャラが個人に渡る以前に既に主催者の手元から徴収されている。例えば私が一回のコンサートで300ユーロ貰えたとすると、ほとんどその倍の額600ユーロを主催者は用意しなければならない。そして半分をそれら社会保障、年金等に支払うのである。だから私個人にしてみれば、いちいち払っているという実感は少ない。でも、手元に渡るギャラと同じ額がさっ引かれている???、、、フランスではなんでこんなに社会保障費が掛かるのだろうか?と今までいぶかっていた。しかし実際に義父の例を体験して、なるほどこれがフランスの社会保障制度かと納得がいったのだった。

フランス便り No.19
夏の南仏、そしてふたりの知人               矢吹 誠 (高22回)

ボンヌヴァカンス!!!(Bonnes vacances!) 

6月末、仕事を終えて仲間と別れる時、この挨拶を軽快に交わし合う。 それぞれが楽しい長期休暇の期待に心が膨らんでいるから、声は上ずっている。これからの二ヶ月間、基本的に仕事仲間と出会う機会も無いのだ。「ボンヌ ヴァカンス!」この言葉の響き、そして各自の心の中に去来する期待感とイメージは日本語に翻訳しようがない。

フランスでは、7月、8月と二ヶ月間がヴァカンス期間。 とは言っても一般の公務員やサラリーマン達がまるまる二ヶ月休めるわけではなく、普通は一ヶ月、また少ない人は二週間だけ。この二ヶ月間のなかで7月上旬に休みを取る人、7月中旬から8月中旬派、あるいは8月上旬派,下旬派、、、とそれぞれ職場ごとにローテーションを組むわけだ。そうでないと職場が完全に麻痺してしまう。しかしこの夏の二ヶ月の間は、県や市の文化担当のオフィスに連絡を取ろうとしても、肝心の担当者がヴァカンスに出てしまっている事が多く、結局ほとんど仕事にならない。一方、学校、各施設関係はまるまる二ヶ月休みに入るから、一般の先生達は何とほぼ二ヶ月間たっぷり余暇を楽しむことが出来る、これがフランスである。

さて、先月の6月は年度末。私も学校関係で行っているアトリエ活動の最終発表が重なってかなり多忙を極めた。それが終わったかと思うのもつかの間、今度は各地での夏のフェスティヴァルが待っていた。先週などは一週間の間毎晩コンサートが続いた。Bamboo Orchestraのコンサートは体力を使うパフォーマンスなので、 コンサートが続くのは嬉しいけれど体力的にはかなりきつい。連日の公演では腕や体に溜まった疲労を回復する暇がない。この点ではスポーツ選手と状況は変わらない。うちの一番若いメンバーの打楽器奏者、ニコラ(Nicolas)22才ですら音を上げていたのだから、もうすぐ60才に手が届く私の疲労度はお察し頂けるであろう。

フェスティヴァル


連日公演の最後は、マルセイユから西に40kmほど行ったマルティグ(Martigues)という街。「プロヴァンスのベニス」とちょっと大げさな宣伝文句があるが、街の中を運河が巡っていてなかなか情緒がある街である。その運河上に大きな仮設舞台を設置し、対岸に2800人も収容できる階段席を設ける、、、と各地で行われるフェスティヴァルの中でもかなり規模が大きい。ここのフェスティヴァルはフォルクローリック(民族的)な音楽、ダンスを中心にしたもので、世界各国から民族的なグループを十数団体招いている。今回が21回目。一週間の間街中がお祭り状態。昼間はアトリエや街頭でのデモンストレーション、夜は二つの離れた舞台で各グループが入れ替わり立ち代わり、色とりどりの民族衣装を翻し歌ったり踊ったり 、それが毎晩朝の二時三時まで、、、。

我々と舞台を共にしたのは、マレーシアの太鼓グループ、グアドゥループのアフリカ系ダンスグループ、北オセチアの中央アジア的民族舞踊。われわれBamboo Orchestraの役割は、それら異種文化のグループを舞台上で繋ぎ合わせる糊の役目。ディレクターの意図は、ただ各グループが入れ替わり立ち替わり舞台を飾るのではなく、異文化を交錯させたいとの狙いで、私は4グループが合奏できる様に曲をアレンジしたり、指示したりと、単なる出演者以上の役割を演じさせられた。 Bamboo Orchestraは、竹という自然の素材を使っている音楽だから民族音楽に近いけれど、伝統音楽からはほど遠い現代の音楽。しかしいわゆる「現代音楽」の様に頭でっかちではなく、誰にでも受け入れられる(accessible)要素の音楽であるから、この様な民族的な舞台を期待して集まった聴衆も実に良い反応をしてくれ、拍手が止まなかった。

その他には、南米からはコロンビア、ボリビア、ブラジル、アフリカからはナイジェリア、南アフリカ、マイヨット、東ヨーロッパからはスロヴァキア、、、と実に多彩な出演者である。 各グループが数人の演奏陣に20人程のダンサーといった構成で、総勢2〜3百の人数。各国からフランスまでの往復交通費だけでもかなりの額が予想されるから、このフェスティヴァルの総予算は膨大なものだ。しかし出演者達の宿泊はホテルではなく、有志の家に二人、三人、と分宿している。つまり、この大勢の海外からの出演者の宿泊場所を確保する為には、少なくとも百軒ぐらいの家が無償で部屋を提供しているわけで、その協力体制だけでも賞賛すべき事。その上、運営には何と500人ものボランティアが裏で働いている。大多数は学生あるいは退役した年金生活者達、つまり若者やおじさんやおばさん達で、彼らが実にきめ細かく面倒を見てくれる。もちろん、20年以上の歴史があるフェスティヴァルだから組織立った運営のノウハウは手慣れているわけだが、ボランティア達がまるで一つの家族の様に協力し合っているのは実に微笑ましい。楽器を運んでくれたおじさん運転手とそんな世間話をすると、「そうなんだよ。 ボランティア達が 一年一回この時期に同じ顔を合わせるのは、うれしいもんだ。このマルティグの街に住んでる人も多いけれど、毎年遠くの街からも手伝いに来てくれているんだよ」

昼、夜、数百人が食事をする食堂だって混雑しててんてこ舞いだ。ここでも数十人のボランティア達が受付から配膳まで、テキパキと心配りが行届いていて気持ちが良い。 多くの人数に一時に食事を提供する為には、学食風になってしまうのは致し方ない。うちのフランス人演奏メンバーの中には、食事がおいしくないと文句を言っている者もいたが、全ては協力を惜しまず働いてくれているボランティア達のお陰だと思うと、そんな贅沢な事はとても言えた義理ではない。

街をあげてのこの様なフェスティヴァルは、 すばらしい文化政策だとあらためて実感した。一般の人達がただ観客として、聴衆として観客席に座るだけでなく、フェスティヴァルを裏で支える、、、日本だって村祭りなどはそうだったはずだ。神輿を担ぐ人、神楽を踊る人、屋台で笛や太鼓を演奏する囃子方など表に見える人達だけでなく、多くの村人達が炊き出しをしたり準備をしたりと、地域の人々が一緒になって作り上げていたものである。このマルティグのフェスティヴァルもコミュニティーの大規模な村祭り、と考えれば実に納得がゆく。

山火事

10日程前、風が強かった。マルセイユ近隣の別の街でコンサートを終え朝の二時頃自宅に戻ると、家に中に妙に焦げ臭い匂いが漂っていた。台所の鍋を焦がした匂いではない。木材が燃えるたき火の様な匂いだ 。窓の外に目をやると、向かいの山々が赤く燃え上がっている!山火事だ。夜に入っては消火作業も中断せざるを得ず、火は容赦なく燃え続け頂上を目指している。我が家は街中で山からは距離があるから「対岸の火事」。暢気な事を言えば、まるで「大文字焼き」見物の様相。 ただし数キロ離れた街中にある私の家の中にまで山火事の匂いが漂うというのは、かなりの規模で燃えた事になる。

ここ数日、南仏だけでなくギリシャ、イタリア、コルシカ島、サルディーニャ島、スペインと地中海沿岸の広範囲地域で大規模な山火事があった。スペインでは火に巻かれて消防士が数人死亡した。地中海沿岸では、夏になると気温は上昇し乾燥しているからすぐに山火事が起こる。原因は火のついたタバコの投げ捨てによる火災もあるが、どうやら大半は誰かが火をつけているらしい。幸い私の家から見えたマルセイユ近郊の山火事は民家への延焼は食い止められたが、サルディーニャ島やスペインでは、多数の家が炎に飲み込まれ人的被害にまで拡大した。

 消火作業は地元の消防士、そしてカナデール(Canadairs)という消防飛行機やヘリコプターによる上空からの水の散布に頼るのだが、いったん乾燥した木々に火が付くと風に煽られ消火作業は困難を極める。それに日没後は飛行機も飛べないし、消防車も近づけない山の上では、山火事も放置するしか無い。緑が少なくただでさえ石灰岩の地肌を多く晒しているマルセイユ近郊、そして地中海沿岸の山々の草木が燃えて黒白の山になってしまうのは何とも痛々しい。うちの演奏メンバーの中でも二人は人里離れた山間部に住んでいるから、夏の間は気が気で無いとよく言う。 森に囲まれた自然の中でのんびり住むのは快適だが、 一方では別の心配をしなければならない。

そう、一昨日コルシカ島南部の火災では、二人の消防士が放火魔の嫌疑で拘束された。この消防士は正規の消防士ではなく緊急時対応の予備軍で、消火作業に携われば報酬も出るという立場にあったようだ。確かに消防士にとっては、火事がなければ仕事がない。そして消火作業は危険だけれど、火に立ち向かう消火作業は高揚した気分になるというのも判らないでもない。

山火事の話題で世間話しをていたら、ある友人は、大統領サッコジの提唱した「多く仕事をして、多く稼ごう!」というキャッチフレーズにあおられて放火魔になったにちがいない、と冗談で話を落としていたが、冗談でなく消防士の放火魔とは困ったものである。

天野之弥氏

「人前で演奏を披露するのはこれが初めてです、、、」と、薄い頭髪に手をやって照れながら天野之弥 (Amano Yukiya)氏がクラシックギターを演奏してくれたのは10年前の1999年。 三年間務めたマルセイユ総領事職を離任するお別れパーティーを官邸で催し、知人達を招待した席でのことだった。

そのかれが、何とこのたび国際原子力機関 IAEA (International Atomic Energy Agency 、フランスでの呼称はAIEA /Agence internationale de l'énergie atomique)の事務局長に選出された。国際原子力機関は、原子力の平和利用を促進し軍事利用を監視する組織で、昨今は北朝鮮やイランの核査察に携わる国際的に極めて重要な機関である。 国際原子力機関は2005年度に前事務局長のモハメド・エルバラダイ氏と共にノーベル平和賞を受けている。

マルセイユには日本領事館がある。首都のパリに日本大使館があり領事館も併設されているが、 フランスはかなり広いので(在留手続きの為に、いちいち南仏マルセイユからパリに出向かなければならないのは大変である)、南仏地方の在留邦人の為にマルセイユにも領事館が設置されている。その総領事として天野氏は1997年に赴任して来た。

領事達はほぼ三年ごとに赴任先が変わる。私がマルセイユに住んでから既に15年以上経つので、その間にはマルセイユ総領事も5〜6人が入れ替わった事になる。南仏に住んでいる人の絶対数は少ないし、私も既に古株組だから、日本関係の催し物の度に総領事や領事館の職員と顔を合わせる事になる。もちろん彼らも私のBamboo Orchestraのコンサートを聴きにしばしば足を運んでくれる。そんな言って見れば家族的な付き合いの中でも、天野総領事は抜きん出ていた。というのは歴代総領事の中でも彼が一番若かったし、気さくな振る舞いと、そして文化についても真摯に語り合う事が出来るひとだった。総領事に赴任してくる人の多くは官僚的で、ただ三年が無事に過ぎて他に移る為の時間稼ぎ、と言った印象である。なぜなら、総領事の仕事は言っちゃ悪いけどたいした仕事ではないのだ。大使は日本の顔であり、大使館も国家間の紛争があれば大使館の前がデモ攻撃の対象となる。一方領事館は基本的に在留邦人の面倒を見るだけだから、職員達は忙しくしているが、その長である総領事はたいした役割をしているわけではない。日仏関係の催しで挨拶するとか、、、その程度の仕事しか無い。それなのに、フランス語でまともに挨拶も出来ない総領事がいたりするから情けなくなってしまう。「フランスに赴任するならフランス語ぐらい少しは勉強してから来い!」と言いたくなってしまう。また定年間際の最後の仕事で、ただ時間が経つのを待っているだけ、つまり全く何もしない総領事もいた。そんな中で、積極的に私たち在留邦人と関わり、催し物にも頻繁に顔を出し、最後に、政界や経済界の人ではなく一般の知人達を招いて離任パーティーをした総領事は彼一人だ。

総領事公邸の中庭で催された離任パーティーその夜、確か天野氏のギター演奏の前には南仏在住の高名なフリージャズベース奏者バール・フィリップス(Barre Phillips)が演奏した。そしてバールに誘われて、私も彼とデュオによる即興演奏をした様に思う。私は厨房から音の出そうな鍋などを借りて、酔いに任せてそれらを叩きまくったのを覚えている 。そしてその後、天野之弥氏が頭を掻きながらクラッシックギターの演奏を披露したのだった。

天野氏が国際原子力機関IAEAの事務局長に選出されたのは、日本人として、知人として誇りに思うが、今は北朝鮮そしてイランの核査察が難航して大変な時期。彼の人柄については私も太鼓判を押せるけれど、果たしてこの時期にどれだけ成果をあげられるだろうか? 被爆国日本を代表した彼の両肩に掛かった責任を思うと、、、 声援を送ると同時に、大丈夫かなとちょっと心配にもなる

 

勅使河原三郎

現代舞踊のダンサー勅使河原三郎は日本でも有名なのだろうか?ヨーロッパのダンス界では既に確固としたスター、知らない人はいない。作品を発表するだけでなく大手の国立バレー団からも振り付けを頼まれている。先日、サブローがマルセイユのフェスティバルでソロ作品を披露した。彼とは22年来の知り合いである。

1987年、東京銀座に「セゾン劇場」 がオープンする事になり、その柿落としの特別公演の音楽を私が担当した。演出は長年仕事を共にした遠藤啄郎氏で、出演者には、能楽師観世鉄之丞、狂言の野村万之丞、歌舞伎界からは尾上菊之丞、菊紫郎、、、とそうそうたる古典舞踊家の面々に混じって、当時はまだ今程には知名度が無かった勅使河原三郎がいた。彼は実に不思議な踊りをし、強烈な印象だった。当時既に土方巽に発する舞踏という新しい踊りは既に認知されていたが、それとも全く違う彼独自の踊りだ。今日、若者の間ではポピュラーになったブレイクダンスなどに近い動きとも言えるのだが、単純に表現すれば体中の関節が外れてしまったかの様な意表をつく踊りである。どうしたらこんな関節が逆に曲がってしまう様な動きが出来るものだろうか?と狐につままれた様な不思議な感覚にされてしまう。そして当時彼の得意は、踊っていたかと思うと突然倒れるのだ。まるで操り人形の糸が切れたかの様に突然床に崩れ落ちるのである。そしてまたふわっと無重力に立ち上がり踊り続ける。こんな踊りは見た事が無かった。

その時一回だけ仕事を共にして以来22年、その後出会う機会は無かった。その彼が、7月上旬、フェスティヴァル・ドュ・マルセイユのメインの出し物として招かれていた。今回のソロ作品「Miroku」は、舞台三方を完全に水色の壁で閉じ、コンピューターで制御された闇と光りが変化してゆく中で、彼独特の個的な踊りが終始する。弥勒というタイトルからもっと静的な踊りに変化しているのかと想像したけれど、彼のダイナミックな踊りは全く衰えを見せていなかった。

 終演後、照明器具が並んでいる舞台裏を通り、「ボンソワール」とスタッフ達に挨拶をしてもすぐには返事が返ってこない。彼の舞台を支えているスタッフ達は日本人でもフランス人でもなくドイツ人とアメリカ人達だった。サブローは既に日本に依拠しているダンサーではなかった。楽屋にサブローを訪ねた。私がマルセイユに住んでいるとは全く知らなかったようだ。「音楽の矢吹さん?、、、と聞いて、すぐに記憶が蘇ってきましたよ!」懐かしく手を握り合った。

翌日彼は私のフリッシュのアトリエを訪ね、旧交に花を咲かせた。「 確か『須弥山遥』という曲でしたよね」22年前に彼が踊った私の曲名を覚えていた。私はフランスでも相変わらず同じ事をやっていますよ、とアトリエの竹楽器群を紹介した。「昔の楽器はもっと小さかったのでは?」と彼が訊く。確かに、日本では場所が無くて大きな楽器は作れなかった。今の様に自由に大きな楽器が作れ、そのまま置いておけるのも、フリッシュという広いアトリエ・スペースのお陰だ。

一年の半分は海外で仕事をしている彼も、未だに事務所は東京に構え東京に住んでいる。彼の様に海外で評価を得た芸術家は、もちろん安定して仕事を続けられる環境にあるが「日本は文化的には貧しいですよ」と嘆いていた。件のセゾン劇場もずいぶん以前に閉鎖になり映画館に鞍替えしてしまったとか。

「フランスは良いですね。舞台芸術家には失業保険制度(Intermittent du spectacle)、舞台作品にも著作権(SACD)があり、自分が作った作品は出演料だけでなく作品の著作権料まで貰えるんですね、、、これってヨーロッパの中でもフランスだけですよ」と感心していた。

15年以上フランスに住んで活動していると、この様な芸術家の扱いがあたり前の様に思ってしまっていたが、そう言われると確かにフランスの芸術家保護政策は群を抜いている。コンサートをすれば、出演料の他に楽曲の著作権(SACEM)そして、演劇作品などへ音楽提供ではSACDから著作権料が支払われる。お金の出所は、もともとコンサートや演劇上演の主催者が支払っており、 SACEMやSACDはそれを徴収し手数料を取ったうえで作曲家に還元しているにすぎないのだが、このシステムが小人数の聴衆を相手にしたコンサート、小さな演劇公演にまできちんと機能している。日本でも、著作権協会JASRACは目くじらを立てて著作権使用料をカラオケバーなどから巻き上げているが、結局ヒット曲を書いている既に金持ちである商業的な作曲家や音楽産業が潤っているだけで、無名な作曲家、創造的な仕事をしている芸術家には何の役得も無い。フランスと日本、同じ著作権を徴収するシステムがあっても悲しいかな内実は全く違っている。

「こうしていろんな国で仕事をしていると、時々、今自分がどこに居るのか判らなくなってしまいます」と苦笑いしていたサブロー、世界の舞台で踊り観客を魅了し続けている勅使河原三郎、翌日はギリシャ公演へと旅立って行った。

フランス便り No.18
国際感覚?               矢吹 誠 (高22回)
抜ける様に青い空がひろがる。そしてその空の青さを引き立てている輝く白い雲たち。五月の南仏は実に清々しい。暑くもなければ寒くもない。だが、この快適な時期は長くは続かない。寒さが終わったかと思うのもつかの間、五月下旬にはもう初夏の日差しが始まってしまう。人々は海岸に繰り出し、まだ海水は冷たいのに気の早い人は泳ぎ始める。

En avril , ne te decouvre pas d’un fil
En mai , fais ce qu’il te plait

直訳:四月、糸一本も取り除いてはいけない 五月、好きな事をしなさい
意訳:四月は天気が良くても薄着しちゃだめ、でも五月になったらもう大丈夫

これはフランスの格言(proverbe)である。 avril とfil が「イル」という音で、またmaiと plaitが「エ」という音で韻を踏んで(rime)いて、いかにもフランス流の粋な 言い回しである。( フランスの格言に言及するなど、 今回はちょっと高尚な出だし!)この格言は実に的を射ている。四月になるとやっと暖かくなりほっとするけれどまだまだ油断は禁物。しかし五月の声を聞けばもう寒さの心配はなくなるというわけだ。

南フランスは一年中温かいと想像するかもしれないが、そうではない。冬は結構寒い。零下10度や15度まで下がるパリ程ではないにしろ、南仏でもときには零下2、3度までは下がる。そしてミストラルという北風が吹くから冬の時期にはコートやマフラーは欠かせない。そしてやっと冬が終わったかと思うと、中間の春が短くすぐに夏がやってくる。だから今この時期は春というより冬と夏の中間地点、ほんのわずかな清々しい快適な時期なのである。

さて、五月フランス演劇界ではモリエール賞が授与された。これはフランス映画界のセザール賞に対抗して1987年に創設された賞で、もちろんモリエールという名称は17世紀に活躍したフランス演劇の生みの親である俳優、喜劇作家に因んでいる。最優秀作品賞、主演男優賞、女優賞、劇団賞、舞台美術賞、、、など映画賞と同様に様々な項目の受賞対象がある。その中に2006年から児童演劇賞 (Moliere du spectacle jeune public) 部門が創設され、何と今年のこの栄誉を私のアトリエの隣人、劇団スカパ (Skappa) のイザベル(Isabelle Hervouet)が獲得した! 私は、丁度雑誌記者が彼女をインタビューしている最中に通りすがった。私が「Felicitations! おめでとう」とキスをすると、 演劇界最高の栄誉を獲得したイザベルは「Merci ありがとう」実に嬉しそうに微笑んだ。しかし、 彼女は普段私をあまり快く思ってはいない、、、つまり、 私たちは残念ながらあまり仲の良い隣人関係ではないのである。

マルセイユのサンシャール駅に近い私達のフリッシュ・ラ・ベルドメのアトリエは、以前既にお話ししている様にタバコ工場の廃屋を再利用した建物である。市がタバコ公社から買い上げ数年前にリフォームする約束だったのが未だに手つかずでほとんど見捨てられた状態。私たちのアトリエは元駐車場の空間をベニヤ板で仕切っただけのもので、雨漏りはするは、集中豪雨があると洪水にはなるは、暖房はほとんど効かず、水道やトイレも近くには無い、、、といった案配で、決して快適なアトリエではない。私も隣人も全く同じ環境にある。そして最も問題なのは、しきり壁は防音装置も施されていないただのベニヤ板。受賞したイザベルの劇団Skappaと私のBamboo Orchestraのアトリエは、ベニヤ板の壁一枚を隔てたきわどい隣人関係なのである。

劇団スカパの得意とする児童劇は、幼稚園児や保育園児から小学校低学年の低い年齢の観客を対象にした作品で、台詞は極めて少ない。児童劇といっても人形劇ではなく、オブジェや照明を駆使した影絵などが入り交じった実に詩的な作風で、フランス人ならではの繊細な演劇世界である。だから彼らが稽古をしていても我々が邪魔される事は少ないのだが、逆にうちの稽古やアトリエ活動は音量が半端ではないから、さぞや隣人は迷惑と想像する。想像だけではなく、実際しょっちゅう彼女から文句を言われている。しかしこちらは音を出すのが仕事だし、この安普請の環境を承知で此処にいるのだから、隣人に騒音で迷惑を掛けるのは心苦しいが致し方ない。お互い稽古日の調整はしているものの、やはり頻繁にうるさい音を出しているのは当方で、騒音に悩まされているのは先方である事は間違いない。

そんな微妙な隣人関係とはいえ、文化の中央パリではなく南仏マルセイユのフリッシュで細々と活動しているイザベルの仕事が評価され栄誉を与えられたのは私も実にうれしい。金色に輝くモリエールの胸像を手に取らせてもらった。見かけによらずずっしりと重い。フランス演劇界の最優秀賞、モリエールはなかなか威厳がある。私が「おめでとう」と彼女の仕事を賞賛したから、この時は寛容にもモリエールを手にイザベルが微笑んで私と仲良く写真に納まってくれたけれど 、、、。



フランスの言語習慣
さて、先日友人と世間話をしていて、滑稽なしぐさが話題になり「ほらあったよねモンティピトン!70年代のナンセンスな映画、、、知らない?」と怪訝な顔をされた。

私は映画通とは言えないから、見た事の無い映画も多い。1970年代といえば私はまだ日本にいたわけで、当時ゴダールやトリュフォーやフェリーニの映画を見に名画座に足繁く通ったのを思い出すが、当時コミックやナンセンス映画にはあまり関心が無かった。唯一、アメリカのメル・ブルックスの意表をつく高尚なギャグには拍手を送った覚えがある、、、しかし「モンティピトン」?なんて耳にした記憶はない。

家に戻り、インターネット・YouTubeで「Montipiton」と検索すると「Monty Python」というタイトルが出て来た。これはひょっとして モンティーパイソンのこと!?  Monty Python をフランス語的に読めば確かにモンティ・ピトンと発音できる!、、、やれやれこれだったのかと安堵した。それも友人は途中で切らずにモンティピトンと続けて一気に発音するから、何のことやらさっぱり判らなかった。外国語がフランスに入ってくるとフランス流に変化させたり、アルファベットをフランス語読みする習慣だから聞き慣れない言葉にはとまどってしまう。

ソクラテスはソクラット(Socrate)だし、ソホクレスのギリシャ悲劇オイディプス王は「ウディップ・ロワ・ドゥ・ソフォクル」(Oedipe roi de Sophocle)、トロイ戦争のアキレウスはゲール・ドゥ・トロワ(Gerre de Troie)のアシーユ(Achille)となる。初めて音だけ耳から聞いた時には、ウディップがオイディプス、アシーユがアキレウスとは頭の回路がすぐには結びつかないのだ。

これならまだ良い。例えば現在のバチカン法皇ベネディクト16世をフランスではブノワ・セーズ(Benoit seize)と言う。ラテン語ではベネディクトゥ、イタリア語でもベネデット、英語ではベネディクトという法皇名をなぜフランス語だけ「ブノワ」に変えなければならないのか不思議に思う。 亡くなった前の教皇ヨハネパウロ2世もフランスではパップ・ジョンポール・ドゥー(Pape John-Paul II)と言っていた。ヨハネパウロはフランス語になるとジョンポールになってしまうのだ。

英語、フランス語、イタリア語、、、などアルファベットのローマ字(ラテン文字)圏では同じABCを使っているにもかかわらず、発音がまったくかけ離れていたりするから厄介である。英語のパイソンがフランス語になるとピトン。書かれたものを見せられればパイソンをフランス人がピトンと発音する事は納得できるけれど、音だけ聞いた限りでは想像もつかない。もちろん英語の人名Pythonをパイソンと日本ではカタカナ書きするけれど、これだって英語の発音とカタカナの音はずいぶん違う。

日本の言語習慣
日本語は表音文字の「ひらがな」と表意文字の「漢字」を組み合わせ、それに外来語はカタカナ表記するという三つの要素を巧みに織り交ぜ、複雑だがなかなか優れた表記法。逆に漢字を発明した元の中国は漢字しかないから大変だ。外国語が入ってくるとそれを漢字に置き直す。基本的に音が似た漢字を当て字するのだが、ケンタッキーフライドチキンは「肯徳基」、マクドナルドは「変当労」、コカコーラは「可口可楽」になる。しかし漢字には意味が付随しているから、視覚的には変な感じ(漢字?)がする事は否めない。だから表音文字も持っている日本語の方がより融通が利き、外来語をカタカナ表記して区別する方法は便利で明快ではある。確かに便利なのだが、逆にカタカナ表記すると外国語本来の姿が阻害され元の綴りが判らなくなってしまうから、この外来語カタカナ表記方法が適切なのかどうかは疑問に思う。 外来語をカタカナ表記する場合は、必ず元のローマ字表記(ラテン文字)を併置して欲しいと思うのは私だけだろうか?

一番困るのは、日本では中国の地名や人名を日本語読みする事だ。フランスで最初の頃「タンの時代」(L’epoque de Tang)と聞いても何の事か判らなかった。唐は中国ではタンと発音し英語でもTangフランス語でもTangである。我々は学校では唐(トウ)の時代と習うから、タンとトウとが頭の中でなかなか結びつかない。マオツィートンもそうだ。私たちはモウタクトウしか知らない。

数年前フランスから中国に公演に行った。余暇博覧会(L’exposition des loisirs)が南中国上海の近くで開催され、それに南仏のワインとか特産品の展示、そして南仏への観光を宣伝するのが目的で、我々が会場で演奏することになった。(南仏の伝統音楽ファランドールではなくBamboo Orchestraが南仏宣伝の音楽として選ばれたのは、たいへん名誉なことではある)主催者から「博覧会はShanghaiの近くのHangzhouという都市で開催される」と知らされた。日本でも上海はジョウカイとは読まずシャンハイと発音するからフランス語の Shanghaiが上海であることは容易に想像がつく。しかし上海から300km位離れた都市Hangzhou(ハンズー)というのは何処のことだろう?これはすぐには判らない。フランス語の中国地図と漢字で地名が書かれた中国地図を比較してやっとハンズーとは杭州の事だと判明した。私は杭州はコウシューとしか習っていないからハンズーと杭州は結びつき様がない。

漢字は六世紀の時代から日本語に取り入れられ、中国語の発音を日本語化し(音読み)一方日本語に既にあった同じ意味の音も振り当てる (例えば昔という漢字を「セキ」と「むかし」と二通りに読む)という混合を巧みに行って日本語を作り上げた。 これは実に優れた選択だったと思う。

しかし、 漢字は元々中国のものであり中国では中国流の発音をしているのだから、それを尊重するのは中国を理解する上で大切な事だと思う。また国際的な観点で考えても、杭州を「こうしゅう」とだけ教えないで中国ではハンズーと読むのだという知識を、日本の教育現場あるいは情報媒体(新聞やテレビ)で少しは与えてくれても良いのではないか、という気がする。中国の人名や地名は、漢字を日本語読みせずに中国の発音を尊重してカタカナ書きあるいはローマ字書きを併記する方法は出来ないものだろうか?

一方、中華人民共和国という国名は英語でPeople's Republic of China (チャイナ)フランス語ではRepublique populaire de Chine(シンヌ)。 語源を辿れば、秦の時代から中国大陸地方では住んでいる人も一般にシナと呼んでいたのだし、インドから仏教が伝わったその時代に中国人の訳経僧が既に中国を「支那」と表記しているというのだから、支那という漢字、シナという音は何ら差別的ではなくむしろ国際的な呼称なのである。私たちの世代では子供の頃ラーメンを支那そばと呼んでいたが、私は単に懐かしいだけでなくラーメンとカタカナ書きするよりも 「支那そば」の方が響きも良いしこちらの方が美味しそうだと感じる。

文化習慣の違い
ラーメンの話の続きで言えば、日本の習慣で麺類を音を立ててすする事は当たり前であり、特にざるそばなどの冷やした麺類は清々しささえ感じ、その方が美味しそうだと思えるのだが、ヨーロッパでは好まれない。好まれないどころか嫌な顔をされる。

私は、25年前初めてパリに遊学した時、キャフェのカウンターで、身なりの整った令夫人がクロワッサンをコーヒーに浸してズルズルと食べているのに嫌悪感を覚えた。ズルズルと音を立ててはいないのだが正にズルズル、ベチャベチャと食べているのだ。浸したクロワッサンからコーヒーが垂れるから少し横を向いて真っ赤な口紅で縁取った口を大きく開け、コーヒーの滴るクロワッサンを運ぶのを見てげんなりした。私には麺類を音を立てて食べるより、パン類をコーヒーや紅茶にビチャビチャと浸してズルズルと食べる方が汚らしい、、、と感じるのだが。

日本とフランスの文化習慣の違いに言及し、「やだねー、日本人は音を立てて麺をすするんだってね、、、」という話題になると、必ずこう言って切り返すのだ。「何でクロワッサンやバターを塗ったパンやビスケットやマドレーヌをコーヒーや紅茶に浸さなきゃならないの?食べた後飲み物を口に含めば同じ事ではないの?どうしても浸したいのなら、浸したものをスプーンで掬って口に運んだらどうなの?スープなら判るけど、何とも見苦しいよ!」と。それに「何度も浸しているうちに、ビスケットやマドレーヌのかけらがコーヒーや紅茶の中に沈むし、バターの油が飲み物の表面に浮いてくるし、、、汚いったらありゃしない!」

フランス人達は「そうかい?日本人から見るとそんなに見苦しいかい?」と意表をつかれてたじたじとする。こうして私は自分たちの文化に誇りを持っているフランス人たちを凹ますことが出来る。といっても友人同士の間での会話だから、面白がって相手の文化をやり玉に上げることができるのだけれど、、、。

魚の生き造り
日本の居酒屋や料亭で出される生き造り。身は既に刺身にされ切り刻まれているのにまだ口をぱくぱくと動かしている魚、手足を動かしているイカ。何とも残酷な料理方法である。ずいぶん昔の事ではあるが、最初に供された時にはかなりショックを受けたのを未だにはっきりと覚えている。しかしその後は見慣れてしまったのか残酷だという感覚は薄らいでしまった。もちろん日本の文化を知らないフランス人にとってこういう料理はショックである。

昨年、来日公演でフランスメンバーを連れてまず九州に降り立った。その夜主催者に歓待され日本家屋の居酒屋の座敷に通された。入口にあった生け簀のイカを注文すると皿の上で刺身になったイカがくねくねとまだ足を動かしている。フランス人打楽器奏者達は「オー」と喚声を上げ、デジタルカメラを取り出し動画撮影に興じていた。

生きているまま身を刺身にしてしまう日本の活き造りには慣れてしまったけれど、最近テレビのルポルタージュ番組で見た中国の活き造りには今更ながらドキッとした。中国では魚を生きたまま唐揚げにしてしまうのだ!魚をそのまま油に入れたらすぐに死んでしまうから、魚の頭部をゴムの手袋で持って支え、魚の身だけ煮立った油に浸けて揚げてしまう。だから中国の活き造りは身が唐揚げになった魚の口がぱくぱくと動いている、、、。生きた魚の身を切り裂いて刺身にしてしまうのと、油で揚げてしまうのと残酷さという観点では些かも変わり無いはずなのだが、煮立った油に入れる方がよりおぞましいと感じるのは単なる習慣の違いなのだろうか?

国際感覚
思いつくままに、言語や文化の違いについてとりとめもなく書いてしまったが、実は結局何を言いたいかというと、このような国の違いによる文化の表層的な差異というものが存在するけれど、 果たしてそれが本質的な問題なのかどうか?という問いかけだ。

日本の国内に於いても、東北地方に住んでいる人と九州に住んでいる人では生活習慣が違うし、方言という言語習慣も違うわけで、むしろその違いは人間の多様性、地方地方での文化の豊かさとして評価できはすれど、決して負の要素ではありえない。むしろその違いを尊重し合い、寛容に楽しむ事が必要である。フランスでも地方地方で方言があるし、フランスと日本を比較すれば言語も違えば生活習慣だって全く違う。でも違うから面白いのであって、相手の文化を受け入れられない、、、となったら単なるナショナリストだ。最近はなはだ思うのは、世界中、言語、文化習慣(コード)、人種、肌の色など表層の違いはあっても本質的に「人間」としては何も違わないのでは?ということ。 つまりどこの国、どこの地方に住んでいる人も考えてる事はそれほど異なってはいないと感じるのである。

「国際感覚を身につける」という表現がある。フランスのテーブルマナーで、何本も皿の脇に並べられたフォークやナイフの順番を熟知していて間違いなく使えるとか、ワインの試飲の作法を知っているとか、フランス語が流暢に喋れるとか、、、 その手の知識があったり出来るのはすばらしいことだが、フランス人の真似が上手に出来る事が国際感覚ではないはずだ。たとえフランス語が上手に喋れても、大切なのは何を言いたいか、何を言うかだ。重要なのは話の内容である。そして問われるのは、喋るだけでなくその人が実際に何をし、何ができるかだ。

フランスには頭の切れる人もいれば鈍い人もいる。金持ちもいれば貧乏人もいる。正直な人もいればずるい人もいる。親切な人もいれば自分勝手な人もいる。フランス人でもフランス語をきちっと発音できる人もいれば、モゴモゴと何を言っているのやら滑舌のはっきりしない人もいる。健常者もいれば障害者もいる。音楽の分野の話でいえば、私のアトリエに来るアマチュアの中にも音感、リズム感の優れた人もいれば、プロの演奏家の中にも音感、リズム感の悪い人もいる、、、という具合で、表情や髪の毛の色や体型は違っていても、日本に住んでいる日本人もフランスに住んでいるフランス人も人間として何の違いも無いのだ。

例えば日本人同士、会話には全く支障がなくても、仲良く出来る人もいれば気が合わない人もいる。日本の外の世界でも同じ事。そして人間関係で大切なのは表層の違いを云々するのではなくなるべく共通点を見出すことであり「他人を尊重したり」「優しくいたわったり」という「寛容な心使い」が最も大切なのだ。

私の考える国際感覚とは、「人間は皆同じ」という考えに立脚すること、そして何よりも大切なのは「心」「心根 」であり、地球上どこに住んでいても「等身大の一人の人間として、相手を認め相手とどう付き合うことができるか?」そのひとことに尽きる、のである。

P.S 
これを書き始めた5月中旬、実に清々しい日々だったのが、これを書き終わった今五月下旬は(あれから一週間しか経っていないのに) 、じりじりと太陽が照りつけ初夏を通り越してまるで7、8月の気候である。


フランス便り No.17
Bamboo Orchestra来日公演             矢吹 誠 (高22回)

まずは時事的な話題から

オバマ氏を大統領に選んだアメリカ合衆国国民に大拍手、フランスからも心から祝辞を送ります!

今までU.S.Aが大嫌いだった私も、これで少しは好きになれるかもしれません。フランスに住んでいる私にとっても、いや、世界中の人々にとってアメリカ合衆国の大統領が誰か?というのは大問題です。ここ数年間、巨大な軍事力と経済力を背景にカウボーイ・ブッシュの好き勝手な振る舞いに、合衆国国民だけでなく世界中の人々が大迷惑を受けてきたのです。フランスの世論調査ではフランス人の86%の人々がオバマ新大統領を歓迎しています。

11月5日早朝(USAでは4日深夜)、フランスのテレビでもシカゴで勝利演説するオバマ氏の映像が生中継されていました。早速シカゴに住んでいる日本人友人に祝電eメールを送ったら、

「矢吹さーん お祝いのeメールありがとう。

 そうです、そうです、アメリカだけでなく世界各国が共同に祝う日でした。長く辛抱して待っていた日がついに訪れ、私たちはとっても感激と希望であふれています。昨晩グラントパークでのオバマのラリーに参加して、オバマのスピーチを聞きに行きました。沢山の人々が涙を流してこの偉大な歴史の新しい始まりを喜んだのです。

家に帰ってきたのは朝2時半でした。

オバマはアメリカだけでなく世界を結合させる大統領になると思います。」

 

、、、と翌日返事が来ました。

本当に世界が変わって欲しいと、誰もが願っています。

フロンティア精神

アメリカ合衆国は巨大な国です。国土の広さにしても異常です。4年前、Bamboo Orchestra Japanのコンサート・ツアーの助っ人でノースダコタ(North Dakota)という、カナダと国境を接する合衆国中北部の州を訪れた事があります。この州には観光客がおもしろがる様な名所などは全く無いので、外国人、いや合衆国に住んでいるアメリカ人だってめったに行かない場所です。

私が訪れたのは三月。昼間でも気温は零度前後、夜にはマイナス15度にまで下がるまだまだ冬の時期でした。風景は見渡す限り真っ平ら、何もありません。夏の時期には一面トウモロコシや麦畑なのでしょうが、ただ茶色に枯れ果てた平原が地平線まで続くだけ。四方を見渡しても起伏が全く無いのです。その中にアスファルトの道路が南北に一直線。この州も、もちろん共和党ブッシュ政権を支えてきた地域でした。その時思いを馳せたのは、子供の頃に見聞きした賛美されたアメリカと、現実としての『アメリカ開拓史』の落差についてでした。

戦後すぐの時期に生まれ育った私たちの世代にとって、アメリカの文化と発展の歴史は手本とすべきものの代表格でした。小学生の頃テレビが家庭にも普及し始め、大相撲中継やNHKのど自慢と共に子供達をテレビに釘付けにしたのは、アメリカ製テレビドラマでした。『ララミー牧場』や『名犬リンチンチン』では開拓者の勇気と正義、そして『うちのママは世界一』、『パパは何でも知っている』、『名犬ラッシー』などの家庭ドラマからは、アメリカ社会の豊かさを見せつけられました。アメリカの子供達には一人一人立派な子供部屋が与えられ、広いキッチンの隅にある巨大な冷蔵庫にはいつも大きな瓶に入った牛乳がある、、、物にあふれたアメリカの豊かな家庭生活。私たちは、これらモノクロ画面のテレビドラマを食い入る様に見て育ちました。勇気と正義、自由と博愛、家族愛、動物との交流など、そこに描かれているヒューマニズムは良い事ずくめで、そんな社会を築き上げたアメリカ人は日本人にとって模範であり、アメリカの開拓精神、建国精神は賞賛すべきものとして、当時幼かった私の脳裏に焼き付いたのでした。

しかし歴史的現実は全く違っていたのです。

19世紀初頭、現在の南部ルイジアナ州から北はノースダコタ、モンタナ州までの北米中部の広大な土地をフランスから格安で買収すると、今までそこに住んでいた原住民、アメリカインディアン達を駆逐しながら西へ西へと侵略を続け、ついにはカリフォルニア、オレゴンの西海岸まで辿り着き、北米大陸の東から西までをアメリカ合衆国領土としたのです。アメリカ合衆国建国の歴史とは、客観的に考えれば、所有者のはっきりしていなかった広大な土地に乗り込んで行って、早い者勝ちとばかりに奪い合い自分のものだと主張していった歴史なのです。そんなあまりにも自分勝手な行為を「フロンティア精神」として賞賛し、私たち日本の戦後世代の子供達までも、アメリカ文化はすばらしいもの、、、と教えられたのでした。

ブッシュ政権を支えてきたのは、未だにその侵略的行為を善と考えているアメリカ人達です。テキサス州を強奪したスペイン戦争、ハワイの併合、アラスカの併合、そしてベトナム戦争もイラク戦争も彼らにとっては常に正義なのです。

アメリカインディアン

さて、ノースダコタ州都ジェイムスタウン(Jamestown)に着いたその夜、主催者ははるばる日本からやってきた演奏家達一行を歓迎するレセプションを開いてくれました。市長自ら、市の紋章である白いバッファローのバッジを一人一人メンバーに手渡し歓待してくれました。レセプション終了間際、たまたまテーブルの前の席に座っていたオルガナイザーのテイラー女史が、『何かこの街で特別にしたい事はありますか?』と私に振ってくれたので、無理だろうとは思いながら『インディアンに会うことは出来ないだろうか?』とたずねた。ノースダコタ州近辺はもともとスー族(Sioux)の居留地でしたが、地図で見る現在のインディアン保護区は街からは何百キロメートルも離れていて、とても仕事を抜け出して会いに行くわけにもいかなかった。ところが驚いた事に「それは簡単!丁度インディアンの音楽家を街の大学に招いて講義してもらっているところだから、明日にも会わせてあげる、、、」と彼女は言うのでした。翌日、仕事を終え大学に出掛けてゆくと、壇上には真っ赤なインディアンの装束をまとい、頭には羽飾りを付け、胸板の厚い堂々とした体躯の本物のインディアンが、大学生十数人を相手にインディアンの歴史、哲学、文化を講義しているところだった。

彼の名前はキース・ベア(Keith BEAR)。インディアン・フルートを吹く音楽家でCDを何枚も出している著名人だが、物腰は柔らかく気さくな男で、彼との出会いはとても印象深いものだった。開口一番、私は「あなた方を一般にアメリカインディアンと総称しているけれど、私もそう呼んで構わないだろうか?」と質問した。なぜならインディアンとはインド人という意味であり、15世紀にインドを目指したコロンブス以来の間違った呼称だからだ。

彼はちょっと首を傾げてニヤッとしてから「皆がそう呼んでいるから別に構わないさ」と、気にはしていない様子だった。また、私はわざと「インディアンというと西部劇では駅馬車を襲う悪役にされてしまっているけれど、、、」と質問して、彼から憤慨した答えが返ってくるのを期待したら、

「あれはお笑い草さ。映画の中ではアワワワとか鬨の声を発するだろう? あれはね、インディアンの女性しかやらない風習なんだよ。だから駅馬車を襲撃するインディアンはみんなオカマなのさ」と、したたかにかわされた。

そして 「私の家族は、元ミズリー川流域の肥沃な土地に住んでいたのだが、ダムの建設で村は川底に沈んでしまい、代わりにインディアン保護区として与えられた高台の土地は痩せていて穀物は良くは実らないし、生活が困難なんだ、、、」とこぼした。彼は我々のコンサート会場にも現れ、とても興味深げにBamboo Orchestraの創作竹楽器群に触れ、各楽器の音色のヴァリエーションに驚嘆していた。

ともあれ、アメリカインディアンが竹楽器を演奏したのはこれが世界で最初だっただろう。

さて話を現代に戻せば、、、今年いっぱいで辞めるブッシュ大統領はテキサス州出身。テキサスには有名なアラモの砦の悲劇譚がある。元々メキシコ領土だったテキサス地域に侵攻してきたアメリカ白人勢力を食い止める為に、メキシコ側が砦を攻撃したに過ぎない。しかしアメリカ側は「やられたからやり返せ」と、これを口実にしてテキサスを奪い取りアメリカ合衆国の一つの州としてしまったのである。だから、そんな土地で育った正にカウボーイ、ジョージ・W・ブッシュの考え方も判るというものだ。

ところで、ブッシュ政権下の国務長官コリン・パウエルColin Powell)コンドリーザ・ライスCondoleezza Rice)も黒人系だったわけで、今回のオバマ氏が黒人系だというだけで過剰な期待をしてしまうわけにはいかないだろう。(これはもちろん冗談)しかし、つい数十年前、20世紀中頃までアメリカ合衆国では人種差別が公然と行われていたのだから、オバマ大統領誕生は21世紀初頭を飾る偉大なる出来事と言って過言では無いでしょう。

 

来日公演

さて,話は変わって、、、先月10月は、何と日本にコンサートツアーに行っていました。公演地は福岡、東京、京都、富士の4カ所。私にとっては帰国公演ですが、グループの打楽器奏者達4人はフランス人ですし 「Bamboo Orchestra de Marseille」はフランスの演奏グループですから『来日公演』と言っても差し支えないのです!

この言葉には実に不思議な響きがあります。来日とは「日本に来る」事であり「来日公演」は「日本に来て公演」する事にしか過ぎなのに、この言葉には実に過大なイメージが付加されています。普段は見る事も出来ない西欧のあこがれのスター、グループがはるばる日本にやってきて公演する、、、というイメージ。そして、裏では大手の商業的音楽プロモーター(呼び屋)が公演日程を一括してお膳立てをしているのです。

しかし我々の場合はメディアに乗った有名グループでもないし、プロモーターも居ないという、全く違った条件下の「来日公演」でした。各地では、それぞれ個別の主催者が自治体などから少しばかりの助成金を得、あとは有志の人達が労力を惜しまず手弁当で協力し準備し受け入れてくれたのです。ですからぎりぎりの経費とわずかなギャラ。仏日間の飛行機移動も当然エコノミー席。(、、、実は私は椎間板ヘルニアなので、長時間エコノミー席での飛行機の旅は辛いものがあります。今回も最初の公演地九州福岡で痛みが始まり、各地で整骨院や鍼治療に駆け込み何とか持ちこたえ、無事に公演をこなす事が出来ましたが、、、)

そして、Bamboo Orchestraの主役である竹楽器群も経費節約のため一切フランスから運搬せず、各地元で揃えてもらう段取りにしました。私たちは小さな手持ちの楽器とバチ類を各自のトランクに分散して入れ、演奏者5人と手荷物だけの移動という、その意味では軽装な旅公演でした。

私たちがコンサートで使う竹楽器群は重さ約750kg。解体して箱に詰めても1m四方の箱4個にもなり、その往復輸送だけで百万円近くもの経費が掛かってしまいます。Bamboo Orchestraの竹創作楽器群はきわめて特殊なものですから、楽器店で購入したり借用できる類いのものではありません。しかし都合が良い事に、Bamboo Orchestraというのは一つの音楽運動で、日本各地のアマチュアのバンブー・オーケストラは私が創作した竹楽器群を見本として楽器作りをしていますから、各グループもほぼ同じ形式の楽器を製作し使っているのです。

竹の産地である日本で公演するのに、わざわざフランスで作った竹楽器を運んでくるというのもばからしい話ですし、それだけでなく、我々フランスチームが彼ら日本のグループの楽器を借りて演奏する事で、楽器改良への新たなアドバイスも直接出来るというメリットもあるのです。このフランス便りを読んで頂いてる向きには既にご理解いただけていると思いますが、「Bamboo Orchestra」という言葉は竹楽器演奏グループの名称というだけではありません。「山から竹を切り出し、その竹材を使って自分たちで楽器を作り演奏する。そこには世代を越えて子供もおじいちゃんも参加している」、、、竹という自然の素材を使って気軽に音楽を奏で、人間関係をより豊かなものにしようとする音楽の運動の云いでもあるです。

例えば、誰かが音楽を楽しもうと考えたとします。 おそらく大多数の人はプロの演奏家あるいは歌手のコンサートに足を運ぶか、CDを買って聴くか、最近ではインターネットからダウンロードしてiPodで聴くというのが一般的でしょうか。また、聴くだけでは飽き足らず自ら演奏しようとする人は、高いお金を出して楽器店で既成の楽器を購入して一生懸命に練習するでしょう。

優れた演奏家達と音楽産業が音楽を提供し、一般の人々は音楽を商品として受け取り消費する、、、という、音楽を巡る人間関係も資本主義の消費経済的関係に取り込まれ、われわれはそのシステムに慣れっこになってしまっています。音楽とは本来そんな資本経済的な関係とは別のところにあったのではないだろうか?もっと豊かな人間関係の発露として、音楽を楽しみ共有することが出来ないだろうか?そんな疑問を持った人達が、日本各地で市民バンブーオーケストラを創設しているのです。山里に幾らでも生えている竹を使って楽器を作り音楽をする。竹は草の仲間ですからある程度伐採しても自然破壊にはならず、きわめてエコロジーな植物だという利点も同時にあるのです。



福岡

初日は九州福岡市郊外の那珂川町。ここに小学生の子供達を含めて30人程のメンバーが参集している「バンブーオーケストラ那珂川」というアマチュア市民グループがあり、彼らが中心になって全国の市民バンブーオーケストラに声をかけ、「竹の里フェスタ」を開催しています。今年は3回目。遠くは福島県からも「うつくしまバンブーオーケストラ」8人のメンバーが駆けつけていました。 全国に20程あるアマチュア市民バンブーオーケストラに中では、今のところこのグループが北限です。日本の中でも北に行く程、寒い地帯になるほど竹は生育しにくくなります。東北青森にも竹はありますが、竹打楽器作りで重要な孟宗竹は生えていない。そして北海道には竹はほとんど無く、笹類だけである。

日程は10月11、12日の2日間。那珂川ミリカローデン町民ホールの中庭に竹灯籠を無数に並べて火を点し、その揺れる灯りを背景にして前夜祭。そして翌日は私の講演会とマルセイユのフランス人打楽器奏者達も参加して各楽器に分かれたワークショップ。そして最終日は、前半各アマチュアグループのコンサート、後半は我々マルセイユBamboo Orchestraのコンサート、そして最後は聴衆も巻き込んだ参加者全員の大合奏で締めくくりました。

今回私たちが日本で演奏したコンサートは、7月にパリで初演した新しい作品Un jour ils ont rencontre un bambou...”(ある日,彼らは竹に出会った、、、) 普段の様に冒頭から舞台いっぱいに竹楽器を配置して演奏を始めるのではなく、この作品では舞台上にはただ切ったままの数本の竹材が転がっているだけ。その変哲も無い竹片や竹筒を叩くシンプルな音の組み合わせから音楽が始まり、後半では「竹マリンバ」などの鍵盤竹打楽器群が登場し、より豊かで複雑な曲構成になってゆきます。

如何にして単なる竹片、竹筒から音を紡ぎだすか?そしてその竹が奏でる音色が組み合わさって音楽として昇華する瞬間の神秘性。つまり、私が25年間絶え間なく続けてきた音を探求する作業、竹から様々な音色を引き出す行為、ひいては「Bamboo Orchestraの音楽哲学」をそのまま舞台上に視覚化した作品とも言えるのです。

 


東京

地理的に考えれば、福岡の次に京都に寄った方が効率的に決まっていますが、そうもいかなかったのです。10月13日の祝日「体育の日」にあわせて、東京新宿西口都庁前の都民広場で竹楽器のイヴェントがあり、12日福岡で「竹の里フェスタ」を終えるとすぐその日の夕刻には飛行機で羽田に移動しました。 イヴェントは「リズム&ミュージックTOKYO KIDS」というタイトルで、竹楽器を製作して演奏する子供達が主役、我々プロの演奏家達はそれを補佐するという役割である。

この企画は、2016年オリンピックを東京に招致できたら、その開会式には何千人、あるいは何万人もの子供達の竹楽器演奏で開幕しようというプロジェクトなのだ。そしてこの日はその第一段階としてのイヴェント。9月から楽器作りワークショップに参加し、自分たちで作った楽器を手にした400人あまりの子供達の周りには、各地の和太鼓グループ、韓国や沖縄のグループ、そして鬼太鼓座、ジャズサックスの梅津和時さん等、そして我々マルセイユBamboo Orchestra、、、と総勢7〜800人ぐらいの演奏人に、その周りを数千人の観客が囲み広場を埋め尽くした。

もちろん、東京にオリンピックが招致できなかったらこの膨大な企画の半分は意味が無くなってしまうのだけれど、もしそれが実現しなかったとしても、東京という巨大な都市に、マルセイユで私が実施している様な竹楽器を演奏する子供達のグループを創設しようという動きが底辺にはあるので、私はどちらに転んだとしても多いに協力するつもりなのだ。

都民広場には、この段戸会HPの繋がりで高校時代の同級生、同窓生数人が馳せ参じてれました。同級生といえども40年という年月を経ては顔を見てもすぐには思い出せずに戸惑う場面もありましたが、このフランス通信を連載している意義が少しはあるのだと思うとうれしい限りでした。





京都

京都は、当初今回のツアー候補地には入っていませんでした。「経費だけならどうにか捻出できそうだ、、、」という主催者が現れ、その志をかって全くギャラ無し公演を引き受けたのです。京都は竹文化の中心ですから公演地としては重要ですけれど、 公演決行の引き金になったのは、実は京都のフランス学校(在日フランス人子弟の為の学校)でした。

関西フランス学校校長に昨年9月から赴任したクリスチャン・レイ氏。彼との繋がりは、昨年春フランス北西部ブルターニュ地方の中心ナント市で、私が竹楽器のワークショップを実施した事に始まります。当時、偶然彼は私が指導した小学校の校長で、竹楽器の教育効果に魅せられ「秋から京都のフランス人学校の校長として赴任する事になったのだけれど、ぜひ京都の学校でも竹楽器の授業をしてくれないだろうか、、、」と私に持ちかけたのだった。私は教育的竹音楽の日本への逆輸入、それも日本にあるフランス人学校を通じて、そして竹文化の中心である京都という場所、、、私は一も二もなく賛同したのだった。

私は日本の学校教育の中でも、竹楽器、竹音楽をぜひ取り入れて欲しいと願っている。フランスでは簡単にできる事が、残念な事に竹がどこにでも生えている日本では逆に難しいのだ。

かつて私がまだ日本で活動していた頃、確か1990年代初頭だっただろう。文部省の教育方針が変更され、「音楽教育も今までの様に西欧音楽一辺倒ではなく、日本の伝統音楽や民族音楽を取り入れなさい」という通達があった。しかし現場にいる音楽の先生の多くは西洋音楽しか勉強してきていないから、急に文部省の上の方からそんな通達が出ても、何をしていいか判らない。日本の伝統音楽も民族音楽も全く知らないのだ。そんな先生達に何が教えられるだろうか?

ある中学の音楽の先生が私のところに電話をかけてきた。彼女は「モデル授業実施を引き受けてしまったけれど、どうして良いか判らないから助けてくれ」と言うのだ。そこで私はクラスに竹を持ち込み生徒達に楽器を作らせ合奏するという授業を行った。しかし20年近く前のその当時、私の様な音楽教師の免許も持っていない者が学内で授業をするというのは、特殊な事態だったのだ。

フランスでは、私が学内で授業をするのに全く抵抗はない。フランス語も流暢には話せず、フランス国籍もなく、教師の免許も持っていない私を学校に招き、それに対してフランスの教育省は助成金を交付する。担任教師、音楽の先生、校長など現場の先生達が意義あると認めれば実現するのである。

だから今回の京都の件も、日本の学校教育の中に竹音楽を普及させる為の足がかりになれば面白いと踏んだのである。しかしフランス学校には事情もあり、一年経過してもなかなか実際にワークショップを実現させる機会、資金を見つける事が出来なかったらしく、京都に赴任したクリスチャンからは、その後積極的な要請は無くなってしまったのだった。そこで、今回Bamboo Orchestraがせっかく日本に行くのだから、京都でも公演をしてそれが何らかの刺激になればと画策したのだ。

公演当日の午後、時間を縫ってフランス学校を訪れ、フランス人の生徒達7〜80人の前で演奏を披露し交流した。そしてクリスチャン夫妻だけでなく、生徒達の何人かも親を伴ってコンサートを聴きに来てくれた。

京都には昔から竹文化があり、例えば茶の湯で使う茶筅や茶杓も竹製である。京都は竹の産地で、嵯峨野や洛西には大きな竹林がある。しかしなぜ京都に竹林があるのか、なぜ京都に竹文化が集中したのか、、、というのはあまり知られていない。

ある学者の説を披露すれば、、、飛鳥時代から平安時代初期の頃に南九州に住んでいた隼人族たちというのは、島伝いに南方からやってきたマレー系民族で、彼らは独特の竹文化を持っていた。その彼らが大和族に平定されて捕虜となり、平安京(京都)周辺に移住させられ竹細工などに従事させられた。その文化がいずれは茶の湯の武家文化にもつながってゆくという話なのだ。そしてこの京都には、日本の竹文化を代表し世界に紹介する窓口になっている「日本竹文化振興協会」本部がある。だから京都でBamboo Orchestraが公演する事は、東京で公演するのとはまた違った意味合いがあったのである。

京都「リサーチパーク・アトリウム」でのコンサートでは、伏見工業高校の生徒達も自分たちで竹楽器を作り特別参加した。この生徒達から後に送られてきた感想文には、「竹楽器でこんな様々な音が出る事に驚いた!自分たちで楽器が作れ演奏できる楽しさを体験した!」といったものが多い。竹林のすぐ近くに住み、竹文化の中心に居ても、竹の可能性はまだまだ知られていない。だから、我々のコンサートが子供達だけでなく京都の一般聴衆にも刺激になった事は確かだ。竹文化振興協会もこのコンサートに助成し、役員の何人かも会場に聴きに来てくれたから、これから京都でも少しは何かが始まるだろうと期待している。





最後に富士市でのコンサート

富士市は和太鼓グループ鬼太鼓座の本拠地である。今年2008年初旬、鬼太鼓座ヨーロッパツアー、バルカン半島とイタリー公演に単身ゲスト参加した話は既に書いたけれど、今回は、富士市ロゼシアターでの劇場公演と、富士芸術村での野外公演で、鬼太鼓座とBamboo Orchestraが本格的に共演した。 今後、鬼太鼓座には竹楽器を取り入れる意図があり、我々の方も既に和太鼓と竹楽器のアンサンブルの曲が幾つもあるので、このコラボレーションは双方にとってもなかなか意義があった。

私はかねてからうちのメンバーのフランス人打楽器奏者達に、普通のパーカッションと和太鼓演奏の違いについて説明してきた。なぜならコンセルヴァトワールで習う西洋音楽の打楽器奏法、あるいはドラムやコンガなどのポップス系の打楽器演奏にしても、手首とバチの動きだけで事足りる。後は細かいリズムの技術的な問題やノリを論じるだけだ。一方和太鼓は、まず体全体を使ってバチを太鼓面に打ち込まなければ楽器が鳴ってくれない。それに、長時間太鼓を叩き続ける為には体力だけでなく精神力も問われる。同じ打楽器演奏とはいえ考え方、演奏方法にはかなりの開きがある。それは幾ら言葉で説明しても理解できるものではない。

うちのメンバー達は、鬼太鼓座の演奏を舞台袖で直に目撃した事によりかなりの衝撃を受けた事は事実だ。もちろん彼らに、鬼太鼓座の様に太鼓を叩いて欲しいと要求するつもりは無い。しかしテクニックだけを云々する普通の打楽器演奏とは全く違った発想の打楽器演奏が存在するという事を、実際に目の前で見て実感しただけでも大きな進歩だと言える。

 

という具合で、今回のマルセイユBamboo Orchestraの来日公演は、一つのプロモーターが商業的にオーガナイズしてくれるものとは違い、事前準備も条件も決して楽な旅ではなかったけれど、各地の連携がスムーズに行きコンサートはいずれの地でも大成功をおさめた。

ともかく、私がフランスで続けているBamboo Orchestraの音楽が、日本でも拍手喝采で受け入れられたこと、日本の聴衆に竹楽器の新しい可能性を提示できた事をうれしく思う。また我々の舞台に刺激されて、各地のアマチュアグループも創造的な意味でレベルアップしてくれる事を期待している。

Bamboo Orchestra」は、プロ・アマの違い、音楽的技術の多寡を越えた地点で、今までの音楽とは全く違ったアプローチが出来る事に意義があると私は考えるのです。竹楽器でしか出来ない音楽を作り出す事、竹楽器でしかあり得ない舞台を作る事、竹楽器だからこそ可能な音楽を通じた人間関係、自然と人間の関係、、、「Bamboo Orchestra」を言い出した創始者としての私は、常にみんなの一歩、あるいは半歩は先を歩いて問題提起し続けるのが使命だと考えているのです。

フランス便り No.16
日仏交流150年             矢吹 誠 (高22回)

日仏友好150年
9月、新学期が始まった。学校に通う子供達だけでなく、我々芸術家にとっても9月が年度始め。少なからず骨休みになった夏のヴァカンス時期が過ぎ、また日常の忙しさに突入である。
年度始めの恒例の挨拶は 「ヴァカンスはいかがでしたか?」、、、南仏に住む一般フランス人達はコルシカ島、チュニジア、モロッコ、スペイン、イタリー、イビザ、、、と出掛けて行き、その夏休みの思い出を実に楽しそうに話し、質問した方も飽きること無く「ヘー!」とか「フムフム、、、」とうなずいて聞いている。楽しみを分かち合おうという友情なのだろうか?あるいは来年のヴァンスの参考にしようという下心なのだろうか?、、、 この手の会話が上手に出来ないとフランス社会に溶け込んだとはいえない。しかし私は苦手である。私はただ「一週間パリ・プラージュで日光浴!」と答えて相手を煙に巻く。質問した方はただ目を丸くして呆気にとられ、笑いを誘うのだ。
数年前から、夏になるとセーヌ川岸の普段は抜け道となっている車道を閉鎖し、そこに大量の砂を運び込み人工的な砂浜を作る。これを「パリ・プラージュ」(パリの砂浜)と称する。私が8月の一週間をパリで過ごしたのは事実なのだが、 南仏マルセイユに住んでいる私が、わざわざ北上しパリ・プラージュに日光浴に出掛けた、、、というのは、もちろんジョークである。
今年の夏は、 マルセイユの自宅でぐだぐだ過ごす例年のヴァカンスとはちょっと違っていた。それは18才になるうちの娘が、一ヶ月間パリで政治科学の特別講習を受けていたからである。娘は今春バカロレアを優秀な成績で通過し、9月から二年間の「グランゼコール準備課程」 (Classes preparatoires)に進み、その準備過程に進学する前準備のために、夏休みを返上して勉強していたのだった。 妻は一ヶ月の間私をマルセイユにほったらかしにして、娘に付き添って教育ママ(?)を演じていた。私も一週間ほど娘の顔を見にパリに出掛けたのだった。

フランスの高等教育制度
今までフランスの大学、高等教育制度については全く関心が無かったが、娘のおかげで少しは理解せざるを得なくなった。高校を卒業したら大学に進むか就職するか、、、日本のそれはさほど複雑ではない。しかし、こちらではいささか違う。高校最終学年の終わりに大学入学資格試験バカロレア(baccalaureat)、日本で言えば共通一次試験の様なものを受ける。及第点を取ればとりあえずは合格。そして大学(universite)は狭き門ではない。一方、一般大学の他に高等専門学校グランゼコール(Grandes ecoles)というちょっと入学が難しい大学も存在する。ここに進学するには、まずはいくつかの高校に併設された「準備課程」で猛勉強をして、狭き門のグランゼコールを目指す事になるのだ。
うちの娘の自慢をしているようでどうにもバツが悪いのだが、、、彼女は私と違ってやたらに勉強好きで努力家だ。 一般フランス人の子供達、特に南仏の子供達はあまり勉強はしない。その中にあって寸暇を惜しんで勉強しているうちの娘はずいぶん特殊な存在。それだけでなくコンセルヴァトワール・ピアノ科にも在籍し、今年は第三段階の最終コース、これもかなり難しい。だから娘は実に寝る暇の少ない生活をしている。 妻や私は、娘に勉強を強要した事は一度も無いし、コンセルヴァトワールも本人が選択した事だ。確かに父親の私は音楽を職業にしているけれど、自分の子供に音楽を強制する気もなければ仕事にして欲しいと考えた事も無い。本人自身も、ピアノ科在籍を続けているけれど職業ピアニストになる気は無い。もっと他にやりたい事があるらしいのだ。しかしここに至って、本当にピアノとグランゼコールの準備過程を両立できるのか?心配ではある。

コンピューターがクラッシュ
何と前回フランス便りNo.15から4ヶ月も間が空いてしまった。時間はあっという間に経つ。一昨年は毎月の様に御届けしていたこのフランス便りも、昨年に入って二ヶ月に一度にペースにダウン、そして今年(2008年)はついに息切れし、今回などは4ヶ月もご無沙汰。 初夏には、パリのエッフェル塔近く、伝統美術館ケ・ブランリ(Musee Quai Branly)の半野外劇場で新しい作品を発表したり、スペイン、サラゴサ万博会場で演奏したりと多忙を極めていた事は事実なのだが、理由はそれだけではない。5月に突然私のコンピューターが壊れてしまったからなのだ。
コンピューターが壊れる、ハードディスクがクラッシュしてしまう、、、というアクシデントはあり得る事として頭の角にはあったのだが、まさかそんな不幸が私の身に降りかかろうとは誰が予測するだろうか?しかし鉄槌は下された!
5月のある日、私は愛用しているノート型パソコン(Mac) を居間のテーブルの上に置いたまま蓋を閉め、スリープ状態にして出掛けていた。留守番をしていた娘の言うには、突然“ガリガリガリ”と芝刈り機(tondeuse du gazon)のようなものすごい音が居間の方から聞こえ、始めは家の外から聞こえるのかと思って近づくと、何と私のパソコンが発しているのだった。娘はどうする事も出来ずただ電源を切った、、、というのだ。帰ってきてその話を聞き、まだ救いはあるだろうと起動しようとしても機械はOSを見つける事も出来ない。コンピューターを買った時に付随していた説明書を本棚の角から引っ張り出してきてあるあらゆる措置を試みても反応がない。
コンピューターに強い友人の所に持ち込んでいろいろ試しても、やはりラチが明かない。どうもハードディスクの回転が止まってしまったらしい。彼は「最後の手段として、裏蓋を開けてハードディスクをトントンと軽く叩いてショックを与える事で、回転が引っかかっている場合には解除できる可能性がある、、、ハードディスクが回りさえすれば急いでその隙にバックアップを取る事が出来る」というのだ。しかし、トントンと叩いたら私のハードディスクは2~3秒ガガガとものすごい騒音を立てた後、 微動だにしなくなった。バックアップを取る暇は無かった。 完全に昇天したのだ!
ここ一年半ぐらいの仕事、譜面や原稿や何やら、、、とにかく全ての作業をコンピューターに頼っている昨今だから、これらのデータが無くなると茫然自失。
本当に目の前が真っ白になった!
いつ何があるかわからないから「必ずバックアップを取っておく様に」とは誰しも言う事だけれど、私は暢気な事に怠っていた。楽譜などは既にプリントアウトしているものが多いから、面倒だがまた一から書き直せば良いのだが、書き貯めた原稿、二、三年中に纏める事を目指していた「Bamboo Orchestraの音楽論」の原稿数十枚を失ったのは大きい。もちろん私に頭の中にあるものだから、また書けば良いのだが、その労力を考えると呆然としてしまった。この脱力感から立ち直るのは容易ではない。
「そんな、コンピューターに頼った生活をしているお前が悪いのだ、自業自得、あきらめて出直しな。これも一つの試練さ!」と私の中で別の人格があざ笑う。そう、確かにそう。ほんの一昔、15年か20年前には楽譜は手書きしていたし、ものを書く時には原稿用紙に向かった。コンピューターで楽譜も掛ければ原稿も書ける、と便利になった事で安易に手を抜いていた自分が悪い。
、、、と半ば強引に自分に言い聞かせては見るのだけれど、ショックから立ち直るには時間がかかる。このフランス便りだってワードソフトで書いて、Eメイルで日本のHP編集担当者に送付し掲載してもらっているから成り立っているので、その日常的だったシステムが突然切断させられると、本当に崖から突き落とされたようで、この境遇から這い上がる気力はすぐには湧いてこない。送るべき担当者のメールアドレスさえ無くなってしまったのだ。
こうして16号を御届けできるのも、少しは傷が癒えたという事なのです。今回はまとまりが無いけれど、かろうじてベッドから起き上がれる様になった病み上がりの言葉、、、と、大目に見て頂く事にしましょう。

日仏交流150年祭
今年2008年が「日仏交流150年祭」だというのはご存知でしたでしょうか?つまり今から150年前、1858年に鎖国していた日本の江戸幕府が、初めてフランスと日仏友好通商条約を締結し、それ以来日本とフランスの交流は始まったのだと。何と明治維新の10年前、歴史の本でも読む様な実感しか湧かないのだが、、、考えてみれば、私がフランスに滞在し活動を始めてから既に15年経つのだから、これは既に150年の十分の一だ。150年の歴史とは結構長い気がするけれど、私の15年間というのもほんの昨日の事なのだから、150年という一人の人間から見ると長く感じられる時間も、つい昨日の事とも言えるのである。
そうはいっても、150年前の「欧州派遣団」の写真を見ると、みんなちょんまげに袴姿、腰には刀を差している。現在の私たちの生活からは想像も及ばない。彼らがマルセイユに上陸し、こんな姿でパリの街を歩いていたかと思うと仰天してしまう!かの福沢諭吉もメンバーであったそうだ。当時彼らの目に映ったヨーロッパとはいかなるものであっただろうか? そして、そんな彼らの経験が土台となり 150年後の現在の我々があるのかと思うと、、、実に感慨無量である。

さて、「2008年は日仏交流150年祭、この機会に日仏間でもっと交流を深めましょう」と、一昨年から政府、外務省が喧伝していた。だから、それなりの予算を組んで交流事業の音頭を取るのかと思いきや、日本の外務省は助成金を全く用意してはいなかった。「草の根で皆さんどんどん交流してください」と人々を促す言葉の真意は「政府は一切お金の面倒はみませんよ」ということであり、交流関連事業には「認定ロゴ掲載を許可します」と。そんなラベルを掲載したところで一銭の足しにもなりゃあしない。全く日本政府、外務省は何を考えているのやら?
一方フランス政府はどうかというと、外交的には日本の音頭取りに共鳴してはいるものの、こちらも助成金は一切無し。ご存知の様に、フランスは大統領が変わってから日本には見向きもしなくなった。現大統領サッコジ氏は、同じ党派でありながら親日家だった前シラク大統領氏が大嫌いだから、わざとその反対の態度に出ているのだろうか?先日も洞爺湖のサミットで日本に行ったにも関わらず、日本の首相との会談はすっぽかしたというではないか。
またクシュネル外相も、アフリカや中近東問題、特にここ1~2週間はグルジア紛争、シリア外交に忙しく、アジア、特に日本に対しては全く関心を示さない。もっともグルジアを巡っては、また俄にアメリカとロシアの冷戦が始まりそうで、EU議長国としてサッコジ氏共々東奔西走しているから、日仏交流150年祭なんて吹っ飛んでしまうのは致し方ないのではあるが、、、。

Bamboo Orchestraフェスティバル
私も「日仏交流150年祭」は良い機会だと思い、日仏両国の竹楽器を演奏している子供達のグループ交流企画を立てていろいろ根回しはしたのだけれど、在東京フランス大使館文化担当官も「企画には大いに賛同しますが、フランス政府には助成金はありませんから、どうぞがんばってスポンサーを見つけてください」と励ましてくれただけだ。結局スポンサーは見つからず、私たちが提案した企画は日の目を見る事がなかった。
しかし偶然な事に、今年、それも来月10月にはマルセイユBamboo Orchestraの日本公演が実現する運びとなったのです。公演地は福岡、京都、東京、富士と4箇所。(ご関心の向きは詳細情報をお問い合わせください)九州福岡では、県民文化祭「竹の里フェスタ2008in那珂川」という催しに参加。この「竹の里フェスタ」は既に三年続いている催しで、いってみれば日本各地のBamboo Orchestraが一堂に会する Bamboo Orchestraフェスティバルである。
既に以前お話ししたと思うのだが、私がフランスに発つ前、今から15年以上前に竹産地のいくつかの自治体に「市民Bamboo Orchestraを作りませんか?」と提案したものの、窓口では全く相手にされなかった。ところが現在では、日本各地に20グループほどのアマチュア市民Bamboo Orchestraが誕生し活動しているのだ。大半は自治体の音頭取りではなく手弁当で運営しているから、経済的には決して楽ではないようだが、その中でも九州福岡の「Bamboo Orchestra那珂川」は県からも助成金を引き出し、全国各地の市民Bamboo Orchestraを集めてフェスティバルを企画しているのだからたいしたもの。今回は、創始者の私とマルセイユのBamboo Orchestraが特別招待されたのである。
「裏山に生えている竹を切って来て、それで楽器を作り、皆で音楽を奏でる、、、」という単純明快なBamboo Orchestraの構想が、15年前の日本では理解されなかった。 しかし今では、私が活動しているフランスやヨーロッパだけでなく、留守にしていた日本でも着実に根を下ろし始めたのである。
この変化には、人々の意識の中で環境問題が一層深刻になって来たことも理由としてあるだろうし、消費社会に対する疑問、異議申し立て、世代を超えた地域文化を再構築しようという欲求、、、など様々な要素があるのだろう。

P.S 謝罪
前回のフランス便りNo.15の中で、「アメイジング・グレイス」という曲が、映画『タイタニック』の中でも聞こえていた、、、と言ったのは間違いでした。フランス人友人の言を鵜呑みにして書いてしまったけれど、ずっと気になっていました。タイタニック沈没直前に楽士達が奏でていたメロディーというのが史実として残っていて、その一つでもっとも有名なのは、「主~よ~、みも~とに~、、、」という賛美歌320番(Hymn No.393 Nearer, My god, to thee. . . )です。雰囲気がアメイジング・グレイスと似ているので友人も勘違いしたのでしょう。しかし確かめもしないで書いた私の責任です、ここに訂正しておきます。


フランス便り No.15
アメイジング・グレイス             矢吹 誠 (高22回)


先週末、午前中家で仕事をしていると、同じく南仏に住んでいる日本人の友人M氏から電話があった。「やあ久しぶり、元気ですか?バルカン半島はどうでしたか?」と、私が演奏旅行に行っていた事を聞き知っていたらしく挨拶がてらに質問してきた。私が何から話そうかと思いあぐねていると、 彼は話しを遮って単刀直入に本題に入った。、、、私の近況を聞くために電話してきたのではなかったのだ。

「実はジャックが昨夜亡くなったんです、、、」

それは、私たち共通の友人の訃報だった。マルセイユから北25km程にある街Aix en Provence(エクソンプロヴァンス市)に住んでいた彼は、昨日朝家で突然倒れ、救急車で病院に運ばれた。その後ヘリコプターで専門医のいるマルセイユのチモンヌ総合病院に緊急移送され、一時は取り直したかに見えたが、夕方容態が急変しそのまま息を引き取ったとの事。原因は腹部の動脈瘤破損だったそうだ。私はこの病気には全く詳しくなかったのだが、電話の向こうの説明では、動脈の管が古くなったゴム管の様に弾力が無くなり血液の流れが悪くなり膨張し、最後には破裂してしまう、、、というもので、初期症状も無く事前に予知するのは困難、突然訪れ、また緊急手術も成功率が低いと。

M氏は葬儀の日取りなどを詳しく説明してくれたが、生憎週末、週明けも公演が続いていて顔を出せそうも無い。「とにかく何とか都合をつけてみる、、、」と曖昧な返事をしたまま電話を切った。

亡くなったジャックは高校の英語教師で私と同年輩。奥さんは日本人で、日仏カップルという共通項で親しくしている家族のひとつだった。残された奥さんと子供の顔を思い浮かべると、いたたまれない気持ちだった。

 

南仏日本人会

 

南仏に住み着いている日本人は少ない。せいぜい100人〜200人前後。パリと違って、いわゆる日本人が得意とするビジネスが成り立つ場所ではないから、仕事がらみで住んでいる人は稀だ。むしろ家庭の事情で、つまり南仏のフランス人と結婚した故に南仏に住み着いたという人がほとんどである。日本人男性でフランス人女性と結婚して南仏に住んでいる人を捜すと、画家、ダンサー、大学の日本語科教授、領事館の職員、、、あまり多くはない。むしろ逆のケース、フランス人男性と結婚した日本人女性の方が多いだろうか。唯一日本人同士の夫妻は、もう40年近く住んでおられ、フランスに最初に合気道を広めたT氏夫妻。御高齢であるにもかかわらず今でも全国を飛び回って指導に当たられている。合気道は、柔道、空手と並んでフランスでは人気のある日本の武道で、全国主要都市には必ず道場がある。 T氏がフランスに渡った当時はまだ長距離旅客機が無く、ご夫妻は南回りの船旅で二ヶ月掛かってマルセイユの港に降り立ったそうである。

 

そんな合気道普及のパイオニアでありながら実に気さくなT氏を名誉会長に据え、南仏に住んでいる数十人の家族的な集まりが「プロヴァンス日本人会」(Japonais de Provence)である。

二ヶ月に一回、季節の話題を満載した会報を編集して送ってくれる。内容はフランス料理の日本人向けレシピだとか、交通事故に巻き込まれたときの対処の仕方だとか、クレジットカードの盗難の話しだとか、フランスに住んでいて困った時の各自の体験を披露して、同じ環境に居るもの同士の情報交換の場として機能している。ボランティアで編集に従事してくれている有志達には感謝している。

 

南仏に住んでいる日本人は少ないから、ほとんどが顔見知りである。と言ってもしょっちゅう顔を合わせるわけではなく、初夏のバーベキューパーティー、忘年会、新年会とか一年の間にほんの数回の機会だ。集まりは常に週末だから、 週末にコンサートの仕事がある私には逆に都合が悪い事が多い。だから日本人会に所属していても、南仏在住の日本人達と顔を合わせるのはせいぜい一年に一回か多くて二回である。

そんな日仏混合家族達の中でも特に親しい家族は、日本人会の集まりとは別に家庭に招いたり、一緒にピクニックに出掛けたり、食事を共にする事がしばしばある。そんな家族の一つがジャック・ニューリー家であった。

 

死と宗教

 

毎日、テレビからはイラクで何人殺された、パレスチナでアフガニスタンで、、、と死の報道には慣れっこになってしまっているが、 この様なテロや戦争は何とかならないものだろうか?というやりきれない思いはあっても、 実際に死者を目の当たりにしているわけではないから、それ以上には感情が動かない。しかし、家族や親類、知人や友人の死というのは重くのしかかる。それが病気や如何ともし難い理由であったとしても、つい最近まで元気に会話していた人が急に逝ってしまうのは感情的になかなか受け入れられない。

 

死に立ち会うのは勇気がいる。悲しみに打ちひしがれている家族にどんな言葉をかけてあげる事が出来るだろうか、、、と考えただけで気が重くなる。

我々人間は、遅かれ早かれ死ぬ運命にあるのだし、明日は自分の番かもしれないのだから、何かもっと冷静に死を受け止める、あるいは受け入れる事は出来ないものだろうかと思う。

 

かといって私は宗教は敬遠している。人々が宗教を信じる事には全く異議はなく、宗教を必要とする多くの人々が存在し、宗教を信じる事によって心の平静を得られるのだったら、それは必要だし有意義な事だ。ただ多くの宗教が排他的な性格を帯び、宗教の名の下に反目しあったり戦争をするのだったらもってのほかだと思う。根源的な宗教心というのはどんな宗派であれ純粋なものだと思うのだが、いざ教団ができ人々がそこに参集すれば、人間関係つまり政治そして権力が発生し、又経済活動から利害の対立が始まる。

 

私自身にも宗教心は十分ある、、、と思う。自然の力、宇宙の摂理の偉大さに対する敬服。人間の力の到底及ばない世界。その摂理のなかで、我々は生まれそして去ってゆく。草木や動物達と全く同じ様に。だから全ての命は尊い。自分自身、そして人類は奢る事無く謙虚な気持ちでいなければならない、と思うのだが、だからといって一つの神を信じる気にはなれない。人間の存在を超越する大いなる力の存在があり、その下で賜った僅か数十年という短い時間なのだから、自分の人生を楽しむ事も大切だが、自分に与えられた能力を最大限生かし、精一杯世の中のために努力し、 謙虚に善行を積む以外何ができるだろうか、、、と考えるけれど、それ以上には、一つの宗教に帰属してその教義を信じる気にはなれないのだ。

 

仏教と神道

 

私たち日本人には、仏教があり神道がある。神道は元々アニミズムだから、信仰の対象は太陽だったり大きな山だったり古い大木だったり岩だったり、、、と自然物で、本質的に自然に対する畏怖、敬服であるから理解しやすい。一方仏教の方はヒンズー教徒仏陀が黙ってヨガの瞑想をしたのが始まりであり、どんな仏教の宗派にせよ常に個人の内面の問題を諭している。だからこの二つの宗教は教義上対立する要素が無い。だから神仏混合は成立するのだ。

 

かつて、私は奈良東大寺二月堂の修二会、通称「お水取り」儀式を題材にして音楽作品を作った事がある。その時にお水取りの式次第を調べたら、まずこの儀式に参加する11人の練行僧達は、神社にお参りしてお水取り儀式の成就を祈願すると知った。東大寺の格式ある僧達が神道の神社にお参りするのだ!そして、儀式の最初には八百万の神々を勧請する。つまり日本全国津々浦々にいる神道の神々の名前を一つ一つ読み上げ、よろしくと挨拶をするのだ。これが仏教が日本に入ってきた天平時代の最初の大寺、奈良の東大寺で、 現在に至るまで1250年以上続けられている儀式だという事に目をみはった。そしてまた面白いのは、二月堂のすぐ前にお水取りに行く井戸がある。井戸の上には祠があり其の扉の回りにはしめ縄が掛けられている。しめ縄はもちろん神道の結界を示すおまじないだ。この様に、日本に仏教が入ってきた途端に仏教と神道とは矛盾せず争う事無く共存したのだ。 日本に新たに参入した仏教が、古株の神道の神々に頭を下げて「よろしく」と仁義を切るというのもほのぼのとしているが、そんな儀式を連綿と続けている日本は、実に調和のとれた平和な国である。仏教も神道も宗教には違いないが、特に信者にならなくても誰もが両方を自然に受け入れられるというのは悪くない。元旦には神社で手を合わせ、葬式は仏式で、、、と。しかし、こういう曖昧さは今に始まった事ではなく、1200年以上も前から日本人が続けているというのも面白い。

 

 

鎮魂の音楽

 

話しを元に戻そう。

私は葬儀があるたびに自分の所在なさに自己嫌悪してきた。心底悲しんでいる家族達に掛ける言葉を知らない。日本語でも「ご愁傷様です」以外の言葉を知らないばかりか、もちろんフランス語では何と言って慰めてあげたらいいのか全く判らない。

特に心に引っかかっていたのは、自分の仕事は音楽であり、音楽は芸術的に崇高であるばかりでなく人間の精神的な部分に深く関っているはずである。自分の音楽という仕事、作曲や演奏活動で聴衆を感動させる事は出来ても、いざ深刻な場面で、例えば死者を前にして自分はどんな音楽を奏でる事が出来るのだろうか、、、と。

 

葬儀の音楽、日本では仏僧が読経するというのが一般的だ。これも立派な鎮魂の音楽であり、「キン」や木魚の音、「りん」の響きは死者を弔うのには最適かもしれない。しかし私は、音楽家だ。作曲家だ。音楽を仕事にしている。音楽に人生を掛けている。それでありながら、死者の前で死者に手向ける音楽がない。自分は本当に音楽家なのだろうか?本当に作曲家だろうか?、、、という自分への問いかけだ。

例えばインドネシア、バリ島の葬儀では音楽が重要だ。奏者達はゴングやシンバルや、金属製鍵盤楽器をうち鳴らす。葬儀の音楽もガムランだ。神に捧げる祝祭時の演奏のきらびやかさは無く編成は地味ではあるが、けたたましくにぎやかな事に変わりはない。しかしこれはバリ島の話し。

 

さて、ジャックの死の知らせを受けて、彼を悼む思いが重くのしかかってきた。残された家族への思いがのしかかってきた。私に何が出来るだろうか、奥さんY子さんに何と言葉を掛けてあげる事が出来るだろうか?彼女の肩を抱きしめて慰めてあげられるだろうけれど、それ以上に何か出来ないだろうか?と仕事に追われながらも呆然と考えていた。

 

翌朝、起きるとそのまま取り憑かれた様にコンピューターに向かって楽譜を書き始めた。夢の中で誰かが私に告げたのかは定かではない。しかし、寝床の中で意識がハッキリしてきた時には既にある決心をしていた。 私の作曲ではないのだが、あるメロディーを彼の前で演奏しようと。

その曲のタイトルが「アメイジング・グレイス」という曲だという事もうる覚えでしかないのだが、何故かこの曲を彼の遺骸の前で演奏しろと意識の向こうで誰かが私に言うのだ。

しかしこのメロディーを今まで演奏した事も無く、不確かだったので、コンピューター上に譜面をおこして確かめたかったのだ。その後インターネットで、演奏例の録音を聴いて自分が書きとめた楽譜が間違っていなかった事を確認した。

 

この曲を私自身が演奏するなどとは、それまで全く考えてもみなかった。まさに晴天の霹靂。それも死者を前にして。なぜなら、私はそもそもこのメロディーはあまり好きではなかった。一つにはこの曲が長調なので、 私の日本人的あるいはアジア人的音楽感覚からすると、厳かな深刻な場面にこのメロディーは相応しくないという潜在的拒否反応 。それにもう一つは、この曲には何故かわざとらしさがまとわりついている。メロディーそのものに罪はないのだが、このメロディーが喚起するイメージに不快感があるのだ。それはアメリカ文化のイメージだ。アメリカ文化のわざとらしさ、偽善性と軽薄さがこの曲想と結びついている。アメリカ人が悲しみのセレモニーで頻繁に使い、ハリウッド映画「タイタニック」の沈没寸前にも、確か楽師達がこのメロディーを奏でていた、、、つまりあまりにも定番だから。

しかし、今回は何故か私にこの曲を演奏する様に仕向ける誰かがいる。

 

私のケーナ

メロディーを把握すると、すぐケーナという南米の縦笛を取り出して音の動きを確認した。私の愛用しているケーナはケナーチョというアルトケーナで、通常のケーナよりも四度低い音程で暖かい音がする。

この楽器は自作ではない。十数年前の中南米演奏旅行の際に、コスタリカのホテルの前で小銭稼ぎに演奏していたペルーのインディオのグループのケーナの音があまりにも感動的だったから、演奏しているその笛を売ってくれとせがんだのだった。彼もまた自分でケーナを作っている様で、持っているケーナの中から一番音が良さそうなのを私が選んで、これが欲しいと迫った。私も自分で作ればそれに越した事はないのだが、節間が長く肉厚で、ケーナに適した優れた竹材を見つけるのがまず並大抵ではない。まず日本にはこの種の竹は生えていない。ケーナという楽器はそこいら街角の民俗雑貨屋の店先でも時々見かけるが、それらのお土産品レベルの楽器では深みのある心に響く音は出ない。

 

しかし、残念な事に私が手に入れたケーナは音程が正確ではなかった。失礼!「正確ではない」という言い方は良くない。インディオの民族音楽を演奏するのには相応しいが、西洋音楽的音律には調律されてなかった、、、と言うべきだ。日本の篠笛だって、祭り囃子で使う笛は、「ドレミ」が正確には吹けない。つまり必要がないのだ。ペンタトニック (五音音階) が演奏できればそれで事足りる。あとは奏者の腕次第だ。

ところが私の場合は、そんな民族楽器を使っていても、西洋楽器と一緒に演奏しなければならないから、ドレミが正確でないと耳障りになる。このケナーチョの場合も、基本音程が西洋音階より低かったから、大胆にものこぎりで切って寸法を切り詰め、歌口を作り直し、指穴を改造し、全く別物にしてしまった。特に大きな改造は、リコーダーの様に笛の裏側に左手の親指で閉じる指穴があり、この穴はインディオの伝統音楽には必要かもしれないが、私には無くても演奏に支障はないし、この穴を使う音楽的優位性を感じないので、指穴と同じ直径に削った竹を詰めて塞いでしまった。だから普通のケーナは7穴なのに、私のケーナは6穴しかない。

私は伝統を無視する気はない。しかし、自分の音楽を奏でるために楽器は存在する。自分の音楽が伝統に則っていないのだとすれば、楽器だって伝統に則る必要はない。、、、又話しが逸れた。

調べてみると、アメイジング・グレイスという曲は18世紀にイギリスの牧師が作った賛美歌で、詩は彼のものだが曲は恐らくアイルランドか北欧の民謡を拝借したものだろうといわれている。ただ、肝心なのは、彼が元奴隷貿易船の船長でその職を捨てて牧師になった事。そして彼が過去の心の痛みを償う様にこの賛美歌を作ったという事だ。だから、アメリカ合衆国の偽善的なイメージとこの曲を結びつけてしまったのは、私の誤解だ。作者、曲の責任ではない。

 

 

さて、葬儀の火曜日は公演があって出掛けられないが、その前の日曜日、コンサートが早めに終わり、妻を伴って通夜に駆けつける事が出来た。

 いつもにこやかに笑って冗談を言っていたジャックが、目を閉じて真面目な顔をしている。青白い顔に手を当てると陶器の様に冷たい。

横たわるジャックの横で持参したケーナを取り出した。丁度通夜に20人程の友人達が駆けつけていた。この曲のメロディーは短くゆっくり演奏してもせいぜい一分ぐらいしかない。転調し曲想を変化させながら6〜7分繰り返して吹奏した。

笛の音が遠のき薄暗い室内に静寂が訪れると、まず枕元で顔を伏せていたY子さんが顔をぐしゃぐしゃにしながら私に向かって拍手し、そこにいた全員がつられて大きな拍手になった。

「ブラボー!ありがとう、ジャックは喜んでいます」

私は一寸気まずかった。この場で拍手を受けるとは考えてもみなかったからだ。でも、家族が喜んでくれた事でホッとした。それまでの一両日、仕事の合間にこの曲を練習している時の方が涙が止まらなかったが、 通夜に訪れ、ジャックの前ではむしろ冷静に少しの涙で演奏できた。

 

別室に席を移すと、立ち会っていた友人の画家が私につぶやいた「今まで人間の魂とかそういう事は考えても見なかったけれど、貴方の演奏を聴いていたら、ジャックの遺骸から煙りが立ち上り魂が昇天して行くのが見えました。こんな経験は始めてですよ」

もっと不思議なのは、この曲を彼がしょっちゅう口ずさんでいた、と老齢の彼の父親が私に告げた事だ。その夜まで息子の死という事実を突きつけられても、心理的に受け入れられずに心が硬直していた。しかし今晩この曲を聴いて、やっと気持ちが楽になった、というのだ。そして二十歳になるジャックの娘D嬢は、 「父がいつもこの曲を英語で歌っていたのを子守唄の様に聴いていた。車を運転しながらもしばしば口ずさんでいた、、、」というのだ。

 

これは偶然とは思えない。

さようならジャック。そして、ジャックありがとう。

 

フランス便り No.14
バルカン半島から             矢吹 誠 (高22回)

3月上旬、フランスでは地方自治体の長、市長を選ぶ選挙が控えています。今年に入って生じたサッコジ大統領の人気急落のあおりで、恐らく与党右派UMP党の候補者達は苦戦を強いられる事になるでしょう。

昨年五月に就任したサッコジ大統領が掲げた「購買力の向上」というお題目(つまり庶民の収入が増える?)も実際には何も機能せず、彼の言説に実際の政策が呼応しないので、彼に期待し票を入れた庶民も「やっぱり彼は単に金持ちの味方でしかなかった、、、」と絶望しているのが現状です。また、イタリアのブルジョワ娘、 元トップモデルで現在歌手のカーラ・ブルーニとの結婚もひんしゅくもので、増々孤立を深めています。ただ、 私も週刊誌のフランス特派員ではないので、そんな話題を扱うのは任ではありません。

演奏ツアー

さて、今週私は何とバルカン半島に演奏旅行に来ています。クロアチア共和国で五都市8公演を終え、 昨日はスロヴェニア共和国の首都リュブリアーナ、 そして明日からはツアーの二週目、ローマをはじめイタリア各地での公演に突入です。

今回の仕事は私のグループBamboo Orchestraではなく、 日本から欧州ツアーに来ている和太鼓グループ「鬼太鼓座」(Ondekoza)への単身ゲスト参加。 太鼓グループに参加するといっても、ふんどし姿で太鼓を叩くわけではありません!私の役目はもちろん竹楽器の演奏で、全体プログラムの中ではほんの一部分。メインは屋台の上に設えられた直径1m半もある大太鼓の演奏、そして各種太鼓類の合奏です。千~二千人入る大きな劇場が毎日満席となり、聴衆の熱狂的な拍手と歓呼に迎えられています。クロアチアの首都ザグレブでは客席1600の大劇場が三日間超満員、四日目に追加公演を入れた程の人気でした。大太鼓の強烈な大音響、太鼓奏者の躍動するリズム、持続力、舞台を彩る日本的な美意識、、、などなど、ヨーロッパの聴衆は舞台に繰り広げられる日常を超越した音と視覚の世界に引き込まれ圧倒されています。

日本の太鼓グループ「鼓童」や「鬼太鼓座」が、外国で非常に人気があるというのは皆様もご存知でしょう。しかしこれらショウアップされた和太鼓合奏という舞台芸術は、 日本の伝統芸能ではなく近年に創作されたものです。 日本各地の祭り囃子からヒントを得たり、視覚的には伝統的な日本古来のスタイルを踏襲してはいますが、新しく現代的な太鼓合奏です。

最初に日本の太鼓を世界に知らしめたのは、実はこのグループ「鬼太鼓座」なのです。1970年代初頭、佐渡島を拠点に旗揚げしたこの集団は、ボストンマラソンに出場しました。太鼓奏者達は42,195kmを上位で完走した後、そのまま舞台に駆け上がり、大きな太鼓に向かってバチを振り上げ太鼓演奏を披露したのです。この演出にアメリカ人は度肝を抜かれ、それ以来日本の「TAIKO」という言葉が伝説となって世界を駆け巡ったのでした。

鬼太鼓座から「鼓童」というグループが生まれたり、当時中心になっていた太鼓奏者林英哲氏が独立しソロ活動を始めたり、、、とそれなりの紆余曲折はあるものの、それ以来日本のスペクタクルな太鼓演奏という形式は定着しました。一方その影響で、日本全国津々浦々にアマチュアの太鼓グループが雨後の竹の子のごとく誕生し、また近年にはU.S.Aやヨーロッパにもいくつかの太鼓グループがあると聞いています。

現代の生きた音楽

和太鼓演奏というと、にぎやかなお祭りのお囃子を想像してしまいますが、彼ら「 鬼太鼓座」 の演奏は全く別物です。高度な集中力と持続力、そして完璧主義。大きな太鼓に向かってバチを高く振り上げ、10分も20分も持続して叩き続けられるのは驚異的です。その為にどうしているかというと、彼らは毎日約20kmのマラソンを欠かしません。 太鼓を叩くのですから、まずは腕の筋肉を鍛えるのかと思っていましたが、そうではないのです。 太鼓演奏時の精神状態はマラソンをしている時の精神状態に限りなく近く、体力の限界、精神的な限界を超えて演奏を持続すること。その為にはマラソンが一番という結論なのだそうです。

訓練を積み重ねたリズムの正確さに加え、ひとりひとりの奏者の音楽性もかなりのウエイトを占めています。音階のはっきりしない太鼓の合奏に音楽性があるのだろうかと思うかもしれませんが、太鼓を叩く人それぞれの音楽性、個性が太鼓の音から聴こえて来るから不思議です。そうでなければ、リズムが如何に躍動的でも、単調な太鼓の音が2時間も続くステージに聴衆は飽きてしまいます。静寂と炸裂する大音響の対比、間、ヨーロッパのドレミファ的音楽ではない、音程のはっきりしない太鼓の合奏から立ち上る音楽性。これは古く日本の伝統でありながら、正に現代の生きた音楽なのです。

この21世紀初頭の時代に、世界の人々が何を求め何に感動するのか?、、、伝統というものは現代に生きていなければ、 博物館に展示しておくしかないでしょう。特に舞台芸術は、常に新しく生まれ変わり現代の息吹を感じ、聴衆、観客を感動させられなければ意味がありません。

伝統芸能?

もう20年以上前の話しになりますが、国際交流基金が企画した「日本芸能団」の一員として中南米メキシコ、グァテマラ、コスタリカ、コロンビア、、、などの国々を一ヶ月程演奏旅行した事があります。この時の舞台には、津軽地方の「手踊り」、東京の太鼓グループ「助六太鼓」そして山陰地方の「岩見神楽」という3つの団体が出演し、私は「助六太鼓」「岩見神楽」双方の笛奏者、兼舞台全体の音響担当という立場での参加でした。総勢20名程に膨らんでいましたから、なるべく人数を縮小するという意味でも、私の様な人間が重宝だったのでしょう。

岩見神楽はヤマタノ大蛇退治のストーリーです。人が中に入り、提灯形式で折り畳める長さ5メートルもある龍数匹が舞台狭しと駆け回り、とぐろを巻いたり火を吐いたり、、となかなかのスペクタクルです。 伴奏は太鼓二つと笛。そこで出発前にその笛を習いに、演出家と一緒に島根県の村に行きました。そこでびっくりした事があります。伝統的なはずの神楽の笛が、 見た目は横笛でありながら何と縦笛の構造(リコーダー)なのです!

ちょっと説明が厄介ですが、早い話し誰が吹いてもすぐに音が出る、、、という代物なのです。ピイヒャラとそれらしくは吹けますが、強弱はほとんど付けられず、私は「エーッ!?これはないだろう!」と愕然としました。演奏しているおじいちゃんに聞いてみると「15年ぐらい前からこれを使っているよ。笛が吹ける人がいなくなっちゃったからね、、、」と全く恥じ入る風もない返答。伝統芸能って一体なんなのだろうか?と考えさせられる一瞬でした。

また、広い舞台で龍が何頭も駆け回るスペクタクルは、1970年大阪万博の「お祭り広場」で演じる為に新たに考案されたものだとも聞きました。そうですよね。神社の神楽殿は狭いですから、本来は一頭だけで演じられる簡素なものだったのです。

伝統芸能は、優れた音楽家や演出家によって現代に生きたものとして作り直されていかないと、本当にとんでもないことになってしまいます。又一方で「伝統はこうでなければならない!」と頑に先代のものを踏襲するのも問題で、守るにしても変革するにしても何が本質的に大切なものか、何が本当に芸術的なことなのかをひとりひとりが判断することが必要なのです。

コソボ

さて、丁度十日程間前にコソボ共和国が独立を宣言しました。

今の所、元の国セルビアとロシアが独立の正当性を否定していますが、アメリカ合衆国を始め、EU各国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアが既に独立承認を議会決定し支持を表明しています。私は今丁度この係争の地、バルカン半島に来ているのです!

今回ツアーの最初の公演地は、2月10日マケドニアのスコピエ市。セルビアの首都ベオグラードに空路日本から到着した「鬼太鼓座」の一行は、陸路コソボを通過してマケドニアに向かう予定でした。しかし、コソボ独立宣言前夜ということもあって、安全を考えたプロモーターはマケドニア公演を急遽中止したという経緯だったようです。私は、同じくフランス在住の箏奏者と共に、次の週クロアチアの首都ザグレブから合流しました。ベオグラードでの公演を終えた本隊は、陸路セルビアからクロアチアに入り、国境に近い二都市での公演を終えザグレブにやってきました。私たち飛び入り演奏家二人も、その翌日からほとんどぶっつけでザグレブ公演の舞台に立ったのでした。

バルカン半島を訪れるのは全く初めてです。 この公演旅行の仕事がなかったら、恐らく一生この辺りに足を運ぶことは無かったでしょう。ここは昔から係争地帯。そう言えば、第一次大戦はこの地域サラエボでオーストリア・ハンガリーの皇帝が暗殺されたことに端を発している、、、というのは世界史の教科書で習いましたよね。

フランスからさほど離れていなく、イタリアに接するスロヴェニアは既にヨーロッパ・ユニオン加盟国ですし、その隣のクロアチアはサッカーが強く、国名だけはフランスでもかなり一般に知られています。そうは言っても、旧ユーゴスラビア連邦だった国々ではまだ戦火が続いているというイメージがあり、行くのはちょっと二の足を踏むというのが人々の偽らざる気持ちでしょう。 かつてチトー大統領の統治下で維持できた連邦制も、彼亡き後はそれぞれの地域が独立を主張し、今回最後のコソボ独立に至るまで35年以上の間各地で激しい戦いが繰り広げられたのは、まだ記憶に新しいことです。コソボ独立も、ヨーロッパ、アメリカ、ロシアとセルビアの際どい駆け引きの上での綱渡りの様相です。

クロアチア

クロアチアの国はずいぶん変な格好をしていて、丁度ブーメランを斜め横から見た様な鋭角な形で、北側の地域と、アドリア海に面した南側の地域では文化も気候もずいぶん違います。中央のザグレブは首都ですからかなり大きい街でしたが、昔の文化的面影を残す旧市街はほんの一角で、建物の窓の飾りなどは、フランスに比べると何処かちょっと角張っていて、北に接しているオーストリア、ハンガリーの文化の影響が見て取れました。私たちの宿泊したホテルがあった地区を含めて、 社会主義時代の名残と言いますか、 基本的にはあまり文化の香りのしない殺風景な町並みでした。

それに引き換え、アドリア海側のリエカ(Rijeka)やスプリット(Split)の街はイタリア文化の影響を受けた美しい家並みで、南フランスとも繋がる地中海文化の香りがし、ちょっとホッとします。

スプリットの街には、ローマ帝国の最後の皇帝オクレティアヌスが退位後に住んだという城が現在も残っています。 さすが世界遺産に指定されてているだけのことはあります。海岸、港からほんの百メートルか二百メートルのすぐ近く、そそり立つ城壁で囲まれた城は、なかなかの趣。ローマ時代以降、壊れかけた城壁を残しながら、そのなかに一般の人々が住み着いたのです。今では広場に面した通りは洋服や靴を売っているオシャレなブティックが軒を連ね、狭い路地にはキャフェやギャラリー、そして見上げると隣には洗濯物が干してあったり、、、住居と商店などが、すれ違うのがやっとという無数の迷路によって繋がり、何処から何処までが誰の家なのかも判然としない様相で、観光客がともすると他人の家に間違って踏み込んでしまいそうな、実に面白い空間となっています。

かつてヴェニスが栄え、シルクロードを通って東西貿易が盛んだった頃、アドリア海に面したこのクロアチアの海岸線は、行き来する船が停泊し、様々な文化が融合したのでしょう。この世界遺産の建物の窓飾りには、ローマ様式や、ビザンチン様式が混在し、アドリア海の歴史と文化の変遷を感じさせ興味深いものです。

さて、昨晩はスロヴェニアの首都リュブリアーナの大劇場での公演でした。朝、元大統領でスロヴェニア独立に貢献したドルノウシェク氏が亡くなったと訃報が入りました。 何かバルカン半島の歴史の移り変わりに寄りそっている様で奇妙な感覚です。

フランス便り No.13
モーリス・ベジャール氏の死             矢吹 誠 (高22回)

ここ一週間の間、世間はストライキで交通マヒになり騒然としていた。

今回のフランス国鉄(SNCF)をはじめとする大規模ストライキは、政府が改正しようとする特別年金制度が引き金になっている。そして大学は「利潤を追求する私企業になれ、、、」という大学法人化法 (l‘autonomie des universites) に反対する大学生達によって、いくつかの大学が封鎖されている。かたや地方の小さな裁判所を廃止統合する法務省の方針に反対する弁護士達はデモを繰り広げ、教員は教育省の人員削減政策に反対して今週ストに入った。

フランス国民の過半数がサッコジ氏を支持し、彼が大統領になったけれど、彼のやり方をそのまま支持する人は少ない。だから国内政策は難航している。

フランス社会は正面から見ると一つの堅固な石に見えるが、横から見ると無数の層が重なっている雲母の様で、 ひとたび折り曲げる力が働くと各層がパラパラと乖離を始め、瞬く間に崩壊しそうに見える。5月に誕生したサッコジ新政権、この年末は正念場だ。

特別年金制度

ストライキの理由、政府が改正しようとしている特別年金制度についてちょっと解説しておくと、、、

フランスの一般年金制度、つまり定年後に年金を受け取る権利を得るには40年間以上の保険金支払いが必要である。 ところが特別年金制度(Regimes Speciaux)に加盟している人は37、5年間保険金支払いをすれば年金を受けとる事が出来る。つまり、だいたい50歳後半には既に年金生活に入る事が出来、一般年金制度の加盟者が60歳から65歳の間、、、に比べれば遥かに優遇されている。

この制度の対象になっているのは、軍人、警察官、炭坑夫、国鉄(SNCF)職員、パリ地下鉄(RATP)職員、電気ガス会社(EDF/GDF)職員、 船員、漁師、国会議員、公証人(不動産売買などの仲介をする)、 フランス中央銀行職員、それにコメディー・フランセーズとオペラ座の従業員である。理由は、炭坑夫や漁師の様に労働が過酷だったり、早朝出勤や夜間の労働を強いられ、また公共企業に従事しているという責任も大きい。にもかかわらず、一般企業よりも平均賃金が低いから優遇されてしかるべきだという論理だ。

しかしサッコジ大統領は、この優遇措置は不公平で年金財政を圧迫している元凶だから是正すべき、という考えだ。この特別年金制度の加盟者は160万人で、年金を受け取っているのが110万人、現在就業して支払っているのは50万人、とこの制度から大幅な赤字が出ている。今回の改正案は炭坑労働者と、船員、漁師以外の特別年金制度を廃止しようというものである。

(個人的見解を述べれば、演劇関係者の中でもコメディー・フランセーズとパリ・オペラ座職員だけが優遇されているのは全く納得がいかない!)

年金制度の負債が増大しているのは、一つには現役の労働人口に対して高齢者人口が増えている為であり、この矛盾は日本でも同じ事だろう。だから、この優遇措置解消によって、少しは負債を削減できるというわけだ。

労組も、特別年金制度の改正に真っ向から反対を表明しているのではない。なぜなら国家の財政上、年金制度の見直しの必要性に関しては誰の意見も一致しているからだ。しかし労組は、「ごもっともです、はいはい判りました」と政府の廃止案をそのまま受け入れてしまっては組合としてのメンツが無いし、既得権を放棄する事に即座に承諾はしない。 特別年金制度の廃止を受け入れるとすれば、それを補う別の補償、あるいは賃上げ等少なくとも何らかの見返りを獲得しようと虎視眈々としているのだ。

世論調査では、年金制度改正は7割が支持。ストライキで交通マヒし、通勤客は多大な迷惑を被っているが、組合が政府に対抗できる現状は健全だと考えている、、、と民衆は複雑な心境なのだ。

さて、フランスでは我々芸術家にも社会的な地位があり、日本に比べれば遥かに社会保障制度が行き届いている、と以前話したけれど、国鉄で働く特別年金制度の恩恵を受けている人たちに比べたら、私たち一芸術家の立場は可哀想なものだ。

それも私の場合、フランスで仕事を始めたのは40歳を過ぎてからだから、それに40年を足して、、、80歳になったらやっと年金を貰える資格が出来るというわけだ!

私は芸術家だと自負し、「 棺桶に片足、いや両足を突っ込むまで私の仕事は終わらない、80になろうと90になろうと仕事を続ける」覚悟でいるが、そうは言っても健康を維持でき、意識がはっきりしていればの話しだから、常に不安はつきまとう。

追悼モーリス

2日前、ベジャール氏が亡くなった。

晩年はスイス、ローザンヌ市を拠点に活動していたフランス人振付家モーリス・ベジャール氏(Maurice Bejart)の死は国内メディアでも大きく取り上げられ、週末の今日も文化芸術チャンネル・アルテ、そしてフランス3チャンネルでは追悼番組が組まれ、彼が振り付けをした有名な作品「ラヴェルのボレロ」等の映像が流されている。

日本でも人気があったベジャール氏、フランスでもそれなりに評価は高い。いや正確には「高かった」と言った方がいいだろう。

ベルギーで20世紀バレー団を結成し、「春の祭典」や「火の鳥」を発表していた1960年から70年代にかけての彼の仕事は、今あらためてヴィデオを見ても確かに衝撃的で優れていたと思う。正にベジャール栄光の時代である。しかし晩年、特にここ10年ぐらいの間の創作的仕事はほとんど評価されておらず、 中央パリで公演する機会を得ていなかった。彼が率いるローザンヌ・バレー団は、地方や外国では過去の名声のおかげで公演が成り立ってはいたが、内容は旧作の焼き直しに過ぎず、悪くいえば「どさ回り」を余儀なくされていた。

ここで、亡くなったベジャール氏の悪口を言うつもりは毛頭無い。私だっていつ創作意欲が衰えるか判らないし、自分が創作を続けていると確信していても、客観的にはちっとも創造的でなく空回りしていることもあり得る。 逆に、年齢を重ねても常に創造的であり続けることの難しさを彼から教えられる思いだ。

実はベジャール氏とは一寸した因縁がある。

2年程前、彼は南仏に公演に来た。ベジャール・バレー団公演と銘打たれていたが、内容は彼が主宰するローザンヌ・バレー学校リュドラ(Rudra)の生徒達の発表会的公演だった。私は公演直前に舞台稽古をしているモーリスに会いに行った。突然訪れた私にも、忙しい中で面会を承諾してくれた。ところが彼と面と向かって話しをした時、彼の言葉には覇気が感じられず、視線もどんよりとして生気が無く、「この人の人生はもう終わっているな」と私は直感した。

そして一週間前の夕刻、 マルセイユに帰宅しようと高速道路を運転していた私の耳に、カーラジオから彼の入院のニュースが飛込んできた。私の脳裏には死のイメージが去来し、彼の顔を思い出してボーとなり握っているハンドルが危うくなった。

さて、2年前何故私がわざわざベジャール氏に会いに行ったかというと、話しの発端は更に5年前に遡る。

France3(3チャンネル)全国版で、当時午前中に生放映されていた“Un jour en France”(フランスの一日)という番組があった。司会はベテラン・アナウンサー、マリーロー・オグリー(Marie-Laure Augry)。毎回ひとりのゲストを招き、様々な映像を交えながら、司会者がゲストの人となりに密着した話しや本音を引き出す狙いの対談番組である。日本で言えば「徹子の部屋」(もう放送はしていないだろうね?)の雰囲気である。

ある日、モーリス・ベジャール氏がゲストだった。

司会者は「ベジャールさん、貴方はマルセイユ生まれですよね。」「マルセイユで日本人が竹の音楽をしているのをご存じですか?」と振った。 そして、私を紹介するルポルタージュが流された。数分に纏められた私の仕事を紹介するこの映像は、同じ3チャンネルの南仏地方局が作成したもので、南仏地方版で数回流された後お蔵になっていた。勿論、番組のディレクターは、ベジャールがマルセイユ生まれで、且つ日本贔屓なのを知っているから、ベジャールがどんな反応をするだろうと期待したのだろう。

ベジャールは映像を見た後、興奮した面持ちで司会者に言った。「ありがとう、私にこんな映像を見せてくれたことを感謝します。すばらしい仕事だ。これこそが創造的仕事と言える。私はこういう人と仕事をしたいのだ!本当にありがとう。」

この放送直後、件の司会者から家に電話が入った。「さっき生放送された番組でムッシュ・ヤブキのルポルタージュが流れ、それを見たモーリス・ベジャール氏がぜひ連絡を取りたいと言っているが、連絡先を教えても差し支え無いだろうか?」と問い合わせてきたのだ。家内が電話に出、勿論構わないと返事をしたと言う。

だから、今お話しした番組の内容は直接見たわけではなく、後に局から送られてきた収録ヴィデオが以上の様な内容だったのである。司会者本人が電話を掛けて来るぐらいだから、ベジャール氏はその時本当に感動した様子で、番組終了後も司会者に私の連絡先を教えてくれる様に頼んだのだと想像される。でなければわざわざ電話を掛けては来ないだろう。

そんな経緯があったから、てっきり早々ベジャール氏から仕事の依頼、あるいは会いたいと言って来るに違いないと思っていた。しかし、、、それからぷっつり音沙汰は無く、わが家に電話は掛かってこなかった。

有名人のことだから、 恐らく2年先あるいは5年先までスケジュールが一杯で、テレビで軽はずみなことを口にしたが、実際には全く身動きが取れないのだろうと同情的に考えた。時々フランスの知人や友人にこの番組の話しをすると、ベジャールと仕事をすればそれだけで箔がつくのだから、待っていないでこっちからローザンヌに出掛けて会いに行った方が良い、もったいない話しだ、と彼等は口を揃えた。しかし、私に会いたいと言ったのは彼の方だし、別に自尊心が邪魔するわけではないのだが、こちらから連絡を取るのもおかしなものだと放っておいた。

その後三年が経過した。たまたま南仏の近所のフェスティヴァルでベジャールのバレー団が公演すると案内を見た。丁度いい機会だから一度会いに行ってみるかと出掛けたのだった。

私は自己紹介をした。「マルセイユでBamboo Orchestraを主宰している日本人の音楽家です、覚えておいでですか?」

「、、、さあ?」

「三年前に3チャンネルのUn jour en france という番組に貴方がゲスト出演し、その時マルセイユで竹楽器の音楽をしている日本人の映像が流れたでしょう?」

「、、、悪いけど全く覚えていないね。その番組についても」

「貴方が私の仕事を賞賛し、連絡を取りたいと司会者に聞いたという話しは?」

「、、、、?」

彼の青い目は確かに私を見ているけれど、彼の目の向こう側には広大な空洞が広がっている様で、私はそれ以上質問を続ける気にならなかった。

「覚えていらっしゃらないのは残念です。Bamboo OrchestraのCDとDVDを置いていきますから、時間があったらご覧になって下さい」と手渡してそそくさと退散した。

これが2年前の話し。モーリス・ベジャール氏はその時78歳、まだ仕事は続けていたが、 既に記憶が定かではなくなっていたのだった。

、、、というわけで、 彼と仕事をする機会は得られなかったが、もし彼が私と同じ世代で、現在も50~60代の年齢だったら、恐らく話しは大いに弾んだに違いないと思うとちょっと残念であるが、こんなすれ違いも人生にはあり得る、、、と思うとそれはそれで感慨深い。

ただ、彼が番組の中で「これこそ私が考える創造的な仕事だ」といみじくも言ってくれたのは、私にとっては今でも大いなる励みになっている。

彼の冥福を祈るばかりだ。

フランス便り No.12
ポルトガルでも竹音楽             矢吹 誠 (高22回)

フランス、そしてヨーロッパは9月が年度始め。長い夏のヴァカンスが明け、学校などの教育機関はもとより、劇場や文化関係も9月から新年度を迎える。

今年の私は、新年開始早々あわただしい。第一週目から旧作“Le Bois de Bambou”、新作“Couleur de l’Asie”二作品の稽古が平行し、第二週目はもう一つの新作シネ・コンセール(Cine-concert)の集中稽古をマルセイユから東へ70km程山間に入ったコモニ劇場で一週間合宿生活。週末マルセイユに戻ってくると、その日の夕方には空港からポルトガルへの直行便に乗りポルト市に降り立った。ポルトガルは初めて、その上ポルトガル語も全く出来ないのだが、、、。

フランスにいると、通常の会話のなかに他国の言語が平気で混在してくる。フランス人の多くは母国語と英語だけではなく、その他に2〜3ヶ国語は片言喋れる。それは、多くのフランス人が複数の言語環境にいるからだ。現大統領もハンガリー移民二世だが、親がフランス生まれではない場合は、当然フランス語以外に親の国の言葉が身に付く。イタリア移民、スペイン移民、地中海の向こう側アルジェリア、モロッコからの移民。だからイタリア語、スペイン語、アラビア語、そして東欧の言語などが、挨拶や会話の端々に顔を出す。ところがそんな環境でも、何故か今までポルトガル語はあまり耳にしなかった。ポルトガル系移民もフランスには少なからず住んでいるのだが、たまたま私の回りに居なかったせいだろう。

私は30代半ばから必要に迫られてフランス語を習得し、かろうじて現在フランスで仕事ができる程度の会話力は身に付いたが、古くなって捨てるしかないコンピューター同様、私の脳は既に反応が遅いだけでなくハードディスクの容量は極めて少ない。記憶できるメモリーときたらほとんど無いに等しい。ポルトガル語は、スペイン語、イタリア語と並びフランス語と同じラテン語系だから大いに親しみはあるが、新たに覚えるとなると並大抵ではない。

外国に行ったら、少なくとも挨拶程度はその国の言葉を喋るのが礼儀だと心得ているから、空港で仏?葡ポケット判の旅行者用辞書を買って、飛行機の中で急いで暗記する。まずは、ボン ディア(bon dia: こんにちは)とオブリガード(obrigado: ありがとう)、そしてウム セルヴェージャ、ス ファシュ ファヴォール(um cerveja, se faz favor: ビールを一杯下さい)これだけ覚えておけば、後は何とかなる!

今回は、仕事がらみの話しに終始しそうなのをお許し願いたい。

竹音楽の企画

「来年、ポルト市で竹音楽の大規模な企画をしたいので、 打ち合わせかたがたフェスティバルを見に来てほしい、、、」と、毎年9月中旬にポルト市でフェスティバルを主宰しているディレクター女史から依頼が舞い込んだ。

彼女とは全く面識はないのだが、人伝に私の竹音楽の噂を聞きつけたらしい。手前味噌を承知で言えば、既にヨーロッパではBamboo Orchestra、そして「Makoto Yabukiの竹音楽」は知る人ぞ知る存在。 幸いな事にイザベル女史はポルトガル人だがフランス語が堪能なので言葉の心配はいらない。

彼女は、ポルトガル政府文化省からの助成金でフェスティバルを企画しているから、文化関係ではかなりの手腕があるのだと想像できる。私が昨年南仏トゥーロン市のコンセルヴァトワール(国立音楽院)で450名の生徒達の参加を得て実現した竹オペラ「俳句?はいく」(Opera de Bamboo/Haiku-haiku)に興味を持ち、ポルト市でもコンセルヴァトワールの生徒達数百人が街の中心に位置する大きな広場を埋め尽くす、大スペクタクルを企画したいと意気込んでいる。

竹オペラ「俳句?はいく」は、一部俳句を日本語のまま朗唱する部分もあるのだが、基本的にはフランス語に訳した芭蕉、蕪村、一茶などの俳句を、竹楽器と西欧クラシック楽器の伴奏で合唱する作品である。またボードレールやクロード・ロワの詩も使っているから、これらをポルトガル語に訳さなくてはならない。それに翻訳の具合で、恐らくポルトガル語の語調に合わせて音符の動きも多少変更を加えなければならないだろう。

この企画が軌道に乗れば、ポルトガルでもフランスと同様コンセルヴァトワールの生徒達は喜んで参加してくれるだろうと想像できるが、厄介なのは音楽教師達である。(この話題には、イザベル女史も大きく頷いた)何処の国でもそうなのだが、音楽学校の先生達は基本的に公務員体質で、決められたカリキュラム以外余計な仕事をするのは極めて消極的だ。先生達が興味を持ってやる気になってくれないと生徒達の演奏レベルも上がらないし、良い舞台成果は期待できない。

相談の結果、当初彼女が想定していた来年08年9月の上演予定を09年9月に一年先送りし、まずは来年春、コンセルヴァトワールの先生や関係者達に直にBamboo Orchestraの演奏を聴いてもらい、 竹楽器の音の豊かさを知ってもらうことから根回しを始めよう、という話しに落ち着いた。とにかくイザベルの頭の中には、 一辺が7~80mもある正方形の広い石畳の広場を壮大な竹林に模様替し、その竹林に囲まれた広場で千人もの子供達が演奏する、、、という舞台イメージを描いているのだから、話しは半端ではない。

ポルトガル

ポルトガルといえば、戦国時代の日本に西欧文明を最初にもたらしたのがポルトガル人、と学校で習ったことを思い出す。鉄砲を種子島に伝えたのがポルトガル人。キリスト教宣教師。パン、コップ、テンプラなどの言葉はポルトガル語が語源だ、、、などなど。ヴァスコ・ダ・ガマしかり。かつて大航海時代にスペインと並び世界に出掛けて行った勇気ある人々、というイメージ。

しかし、現在のポルトガルで出会った人々からは、そんな野望や覇気は感じられない。

私が訪れたポルト市はポルトガル第二の都市で、それも港町だから、私が住んでいるフランス第二の都市、港町マルセイユと丁度比較できる。目抜き通りにはブティックが並び、マルセイユの繁華街と変わりはない。しかし教会や古い建物の風情が、フランスやイタリアの洗練された曲線の文化とは違い、どことなく厳つくゴツゴツとしている。かつてのイスラム文化の名残なのかもしれないが、ヨーロッパというよりはモロッコやアフリカ北岸の文化に近いという印象だ。

街はドウロ川河口の丘陵に発達し、街の中心から15分程川岸に下ると、そこにはまるで絵葉書の様な光景が待っている。赤や緑や黄色を基調としているが、時の流れを感じさせる情緒ある古い建物が川を見下ろす様に林立し、水面にはポルト酒の樽を満載した古式ゆかしいゴンドラ状の小さな帆船が係留され、一瞬時間が止まっているかの様な錯覚に陥る。丁度私が滞在した9月中旬は夏が揺り戻し、tシャツでも汗ばむ程の気候。街の子供達は、観光客が川岸に鈴なりになって見守る中、水面から二十メートルぐらいの高さはあるルイス一世橋の上から誇らしげに次々に川に飛込んでいた。

川岸のテラスのカフェでは、観光客がパラソルの日陰で心地よい川風に吹かれながらビールを飲んでいる。だが、そのすぐその上の住宅の窓には一面色とりどりの洗濯物がたなびいている。ちょっと興ざめともいえるが、そんな飾り気のなさが返っポルトガルらしい人間味あふれる風景とも思え微笑ましい。人種の坩堝で決して上品とはいえないマルセイユでも、観光客が訪れる表道りにはさすがに洗濯物は干していない。

ポルト市の市街地にある古い教会や建物や橋は、ユネスコの世界遺産に指定されているから、恐らく以前にもまして観光客が増えているだろうと思う。しかし、そんな観光客が頻繁に散策する地域にも軒並み廃墟となった建物を目にするのは何とも不可解だ。こんな観光地なら、レストランでも土産物屋でも結構繁盛すると思うのだが。

ポルトガルの人々の心の中には、 川の流れと同様、昔ながらにゆったりと時間が流れているのだろう。またそれがポルトガルの良さなのかもしれない。

シネ・コンセール(Cine-concert)

さて話しは後戻りし、 一週間前、ポルトガルに発つ直前に稽古していた新作のシネ・コンセールの話し。シネ・コンセールとは、無声映画を上映しながらその映画に合わせて音楽を生で演奏する仕事で、 ??私も今回依頼を受けて初めてそんな分野が存在することを知ったのだがーー何と小津安二郎監督の初期の無声映画「生まれてはみたけれど」に音楽を付けるのだ。11月中旬に件のコモニ劇場で初演する。

1931年に作られた1時間半もの小津監督の大作無声映画を皆さんはご存知だろうか?映画ファンなら恐らくフム~フム~と頷いて、怒濤のごとく蘊蓄が始まるのかもしれないが、恥ずかしながらフランス人からこの企画を依頼されるまで私は全く知らなかった。この作品はフランスでは”Gosses de Tokyo“(ゴス・ドゥ・トーキョー/東京の子供達)というタイトルでしばしば名画鑑賞会などで上映され、見た事があるというフランス人がずいぶん居ることに驚かされた。「へえ、あのすばらしい映画にBamboo Orchestraが音楽を付けるの?それは楽しみだ、、、」という反応である。黒澤明や北野武だけでなく、小津安二郎もフランスでは有名な日本の映画監督なのです。

この映画のストーリーは、都内から郊外に引っ越したサラリーマン家庭二人の幼い兄弟が、はじめは地元の子供達にいじめられながら、少しずつ打ち解けていく様子や、上役に取り繕うしがないサラリーマンの父親に反感を持ち対立するが、社会の仕組みを子供ながらに理解してゆく様子が描かれている。いってみれば話しは単なるホームドラマに過ぎないのだが、それを小津監督は芸術作品にまで仕立て上げている。出演している子供達子役の演技のすばらしさもさることながら、親子の葛藤、社会との葛藤というテーマは普遍的で、70数年前に作られたこの映画が全く古びておらず、現代の人々の心をも確実に動かすことに驚かされます。

私に話しを持ちかけたプロデューサーはもちろん映画通で、この作品に惚れ込んでいるのだが、既にこの映画にピアノや西洋楽器やシンセサイザーで音楽を付ける試みはなされているけれど、竹楽器の伴奏でこの日本映画を上映するというユニークな試みに彼は期待しているのだ。もちろん、期待されては応えるしかあるまい。

私は三人編成のBamboo Orchestraで、それもただスクリーンの脇で楽器を演奏するのではなく、演奏者も舞台上で映画と共に演技し、映画の中と外を立体的に関連付けるユニークな演出を考えた。さて観客、聴衆がどんな反応をするか、初日が楽しみである。

フランス便り No.11
若き農夫アントニー            矢吹 誠 (高22回)

8月上旬ともなると、フランスは本格的なヴァカンス時期に入り、大半の人が仕事を休み何処かへ出掛けてしまっている。普段は所狭しと車が並んでいる私のアトリエのある文化施設フリッシュの広い駐車場も、今はがらんとして人気が無く、降り注ぐ強烈な太陽の日差しを照り返し、じっとがまんして止まっている車は数える程。芸術家達も人並みにヴァカンスに突入!これがフランス流である。こういう私も8月に入ってようやく仕事が一段落、これから一、二週間は何処へも出掛けず地元南仏で、太陽と、海と、ワインと、、、ただのんびり時間を過ごすつもりだ。

今年の年度末、7月はスケジュールが立て込んでいた。イタリア公演、それに来年度(今年の秋)の新作公演二作品の稽古が重なり、毎月一回のペースで続けてきたこのフランス便りも、7月ははからずも原稿をしたためる時間を失してしまった。

聴覚障害予防キャンペーン

前回、 音楽家にとっては取り返しがつかない、私が被った難聴の話しを吐露したけれど、実は私の住んでいる南仏地域レジョン・パカ(RegionP.A.C.A/Provence Alpes Cote d’Azur、 レジョン:数県を纏めた地方行政区)では、4年前から若者が聴覚障害に陥らない様にキャンペーンを展開している。

Bamboo Orchestraに参加している打楽器奏者のひとりローロン(Laurent)は、「カンジャロック」というロックグループのドラマーも兼任しているのだが、このグループはレジョンから依頼され、高校を回って聴覚障害予防キャンペーン・コンサートを実施している。具体的には、校内で生徒達にロックのコンサートを披露すると同時に、舞台の脇にはその時出ている音量のデシベル値を大きく表示する。

聴覚能力を超える騒音に耳をさらす事の危険性を、ロックの演奏家達が自ら高校生に向かって訴え、「拡声音楽と聴覚障害の危険性」という35ページにわたるイラスト解説された小冊子とスポンジ性簡易耳栓を配るというのはなかなかユニークな発想だ。耳鼻科医や有識者よりは、ロックバンドの演奏家の口から直接語られる言葉は、(いささか矛盾している様にも思えるけれど)若者達に直接伝わり説得力があるのだそうである。

A.M.A.P(Association pour le maintien d'une agriculture paysanne)

さて、今回は無農薬野菜共同購入の話し。

地球温暖化、世界的な環境問題も大いなる関心事ではあるが、自分たちの身の回り、毎日の食生活の問題に目を向け改善することも大切である。その行為は、私たち個人個人の日々の健康を守ることにとどまらず、そこから生鮮食料品の流通機構の問題も見えてくるし、現代の消費生活全般の矛盾、そして、ひいては地球温暖化もじつはその延長線上に繋がっている、という事がわかってくるのだ。

A.M.A.P(アマップ)はフランス全土に広がる協会組織(NPO)で、近郊の農家と消費者を直接結び、美味しく質の確かな野菜や果物を直接購入するシステム。30人前後の消費者メンバーが集い、一件の農家と直接購入契約をする。そして、毎週穫れた農作物をメンバーで分け合うのだ。この分配システムをパニエ(Paniers:籠)と称する。実はこのシステム、何と1960年代に日本で生まれたとか。私が日本を離れる前、つまり20年程前に友人の写真家の奥さんがこのシステムで野菜を購入していると話していたのを記憶しているから、日本が元祖というのも本当の話しなのだろう。

我々のフリッシュでも、今年の春から芸術家達がグループを作りこのAMAPパニエ・システムを始めた。マルセイユから北に60km程離れたサロン市郊外に農園を持つアントニー(Anthony)と契約。 アントニーは二十代後半の若い農夫で、いわゆるABマーク付き(フランス国内の無農薬有機食品の品質保証マーク)の完全な有機農法を実践している。

パニエ方式での野菜購入に参加する事にしたのは、有機農法で作られた安全で美味しい野菜や果物を食べたいという家族的、個人的欲求が当然基盤になっているが、それだけでなく、農家と我々消費者が作物の生産に協同し(消費者グループがあらかじめ供出金を出資する)収穫を分け合うと同時に責任も分け合う、という連帯システムも多いに意味がある事だと思う。昨今は、我々の体に直接入る生鮮食料品までもが工場の様な大農場で大量生産され、流通機構を使って遠くから運ばれてくる。また一方消費者側も品質を吟味すること無く、ただ見てくれと値段だけで購入してしまう。そこに問題がある。

ヨーロッパユニオンになって圏内の国境はほとんど無きに等しくなり、フランス国内にも他国の安い野菜や果物がどんどん流入し、フランスの農家は農産物が売れないと悲鳴を上げている。そして農協組合員が、トラック一杯のトマトを大手スーパーの入り口に投げ出し抗議行動をする、、、といった事がしばしば行なわれる。スーパーなどは価格競争に奔走しているから,少しでも安く仕入れることが出来るのなら、スペイン産のトマトだろうとイタリア産のイチゴだろうとおかまいなしというわけだ。その上並んでいる野菜は形が整い色も鮮やかで美しいけれど、農薬や人口肥料を使って生育速度を速め、無理矢理人工的に作られた野菜だから味が無く美味しくはない。しかし、一般消費者はいつのまにかそんな食品に慣されてしまった。最近はスーパーだけでなく、一般の八百屋の店先に並んでいるものまで同じ品質に下落してしまった。つまり青物市場に集まる野菜や果物の大半が、工場の様な菜園や温室で短期間に大量生産されたものだけになってしまったという事なのだろう。

野菜や果物だけではない、肉や魚も同じだ。ブロイラーと農場で放し飼いで育てられた鶏の肉とでは全く味が異なる。養殖場の人工餌で育った魚と荒波に揉まれた魚では身のしまり方が違う、、、こんな事は皆さん周知の事実で、揚言には及ばないだろう。

しばらく以前、6~7年程前からうちでは基本的にABマークの付いたビオ食品しか購入しない様になった。当初は経済的な負担が気になったが、 必要な物だけ買い、無駄な買い物をしなくなった分だけ安上がりで、 実際には決してそれほど割り高ではない。もし仮に多少高く付いたとしても健康には代えられないし、その種の出費は決して贅沢とは言えないだろう。

農園でピクニック

7月初旬のある日、アントニーからの誘いで、彼の農園に妻と娘を伴い家族揃ってピクニックに出掛けた。

彼は地主から土地を借りて耕作しているいわゆる小作農民で、 農園が住居に隣接しているわけではない。だから彼の畑には門もなければ表札も出ておらず、最寄りの道の名前と「ビニールハウスが目に留まるはず、、、」ということを目印として教えられただけだった。近くには来ているはずのものの、人に尋ねようにも周りはプロヴァンスののどかな風景が広がるだけ。 あっちこっちと探しまわり訪ね当てるのにひと苦労した。

やっとここだろう見当をつけ車を近づけると、アントニーはのそのそとビニールハウスから出てきて歓迎してくれた。玉虫色のサングラスをかけ、Tシャツに携帯電話の耳掛け式イヤホンのコードを首から下げた彼の姿は、足下の泥だらけの靴を除けば街にいる今風の若者と見かけは変わらない。聞いてみると、今年が自分で土地を借りて農作業を始めた最初の年だとか。、、、何のことはない、我々消費者も彼の実験と実践に加担し立ち会っているという趣だ。

長い間都市生活者だった私には、ビニールハウスや畑を訪れ、彼の説明を聞くのは逐一新鮮だった。それも毎日食べている野菜がアントニーの手によって作られ、このビニールハウスや畑から直接運ばれてきている、という実感は感動的だ。今まで、流通機構によって遠くから運ばれてくる野菜しか口にしてこなかった都市生活では、生産者の顔を思い浮かべる事など到底不可能った。

ビニールハウスの中では、3~4cmの長さの小さなきゅうりのミニチュア版が蔦にぶら下がっていた。それを見て私が「コーニション(cornichon)ときゅうり(concombre)は同じ形をしているけれど、違う種類だろ?」と聞いたら、「いや、おんなじ!コーニションは実がついた小さいうちにすぐ収穫するというだけのことで、普通のきゅうり」だと。 ピクルスのコーニションは酢漬けにされ瓶詰めになって売っているものしか見かけないし、名前も違うからてっきり別品種だと思っていた。大型ピーマン、ポワヴロン(poivron)は、八百屋の店先には濃い赤色と真緑の二種類が別々に並んでいる。形は同じだが色も違えば味も異なり、値段も違う。だから料理によってこの二種類のポワヴロンを上手に使い分ける。アントニーの説明では、これも実がなったらすぐに収穫してしまうか、 赤く熟れてから収穫するかの違いに過ぎないのだと。

単純な話しだが、私たちは野菜に至るまで規格化され店先にきちんと並んでいるものを、ただ言われるままに購入し消費する事にあまりにも慣れっこになってしまっていた。私はまるで子供の様にアントニーを質問攻めにした。蜜蜂によるメロンの花粉の受精方法、「いったい蜜蜂は何処から飛んでくるの?」 アントニーは笑って、畑の隅に数個並んでいるミツバチの巣箱を指し示した。

彼が借りている畑は数ヘクタールの広さに及ぶから、まだ半分程は耕すことなく雑草が生い茂っている。そんな原っぱの所々にも実験的に様々な野菜が植えてある。雑草をかき分けながら畑の中をアントニーは訪問者達を隅々にまで案内し、この場所には何が植えてあっていつ頃収穫出来る予定だ、と逐一説明してくれた。また黒トマト(tomate noire)、黄色いパイナップルトマト(tomate ananas)などなど、普通八百屋では見た事のない微妙に味の違うトマトを味わいながら、私たちはまるで小学生の群れの様にアントニーの後ろにゾロゾロと従い、畑の畝から畝へと見て回った。

昼には、納屋の脇に板を並べた俄作りのテーブルを囲んで、わいわいと騒ぎながら皆で食事をした。山になった取りたてのメロンを頬張りながら食前酒アペリティフ(aperitif)が始まった。

この訪問をきっかけに、 アントニー個人、そして彼の提供する農作物に対する私の信頼は実に確かなものとなった。

さて、話しは振り出しに戻るが、、、やはり、高度に発達した現在の都市的消費生活は、ひとりひとりが考え直さなければいけない時期に来ていると思う。アル・ゴア氏の映像「不都合な真実」を見て、地球の未来に漠然と危機感を覚えることも必要だが、私たちが日々口している食べ物の一つ一つ、それが誰によってどの様な方法で作られ、またどのような流通経路を経て家庭の食卓にまでたどり着いているのかに思いを巡らすところから、私たち人類が如何に無駄なものを作り消費しているか、地球上の資源を如何に浪費しているかも見えてくる。単純な話し、長距離トラックで野菜を運べば燃料資源の無駄遣い、CO2の余計な排出、そして地球温暖化にまで繋がっているという事もわかってくるのだ。

Skype

さて、スカイプというインターネットのテレビ電話システムはどなたもご存知だろう。世界中何処にいてもインターネットに繋げさえすれば、誰とでも即座に顔を見ながら話しが出来る、、、以前には想像も出来なかった全く画期的なシステムだ。それも何とタダ!

これを書いている時に、高校時代の友人A氏(A君?)が私のSkype住所を見つけて連絡をくれた。名古屋で歯科医をしている彼と、フランス・マルセイユでこの原稿を書いている最中の私とが、何と40年振りに時間と空間を越えて向き合うことになった。コンピュータ画面に現れた彼は、玉手箱を開けてしまった浦島太郎の様な見事な白髪(失礼!ホンの冗談です)で、高校時代の面影と結びつけようにもかなり困難が伴った。もちろん他人の事は言えた義理ではない。この「フランス便り」を毎回読んでくれている、、、とは嬉しい話しだった。

フランス便りを書き始めてほぼ一年になるが、実は「暖簾に腕押し」的?で些か不安に陥っているのだ。インターネットは両方向性の良さがあるのだから、私が日本ではなくフランスに住んでいるという多少の特殊性はあるにしろ、私だけが一方的に喋るのではなく、それぞれの立場の人と意見交換できる様な方法は確立できないいものだろうか、、、と思うのである。


フランス便り No.10
私は日本的精神風土の犠牲者?            矢吹 誠 (高22回)

政治状況は一段落

6月半ばから本格的に夏らしい太陽の日差しが照りつけている南仏です。

 まずは、前回からの引き続き、大統領選挙後のフランス政治状況のお話し。

大統領選挙から一ヶ月、一昨日6月17日は日本の国会衆議院に相当するフランスの立法権、国民議会(L‘Assemblee Nationale)の選挙の決選投票。これでフランスの政治状況はひとまず一段落です。 第一回投票からここ一週間の間は、大統領ニコラ・サッコジ氏が率いる右派UMP党の圧勝が予想されていました。しかし結果は、UMPが過半数以上を獲得したものの、社会党など左派も2002年の選挙より議席数を増やし、フランスの民主政治は右派に完全に傾いてしまう事無く程よくバランスを保った感です。また、極右のフロン・ナショナルが議席を落としたのは良い傾向と言えます。サッコジ氏の、ある意味で強硬な移民政策、治安政策がフロン・ナショナル支持者を吸収した結果なのでしょう。

サッコジ氏が大統領に当選してから、国民議会選挙が終わるまで一ヶ月ちょっとの間のフランス政治の動きをおさらいしておきます。

まず、大統領が主導した内閣の組閣。もちろん首相は彼の側近フランソワ・フィヨン氏。公約通り半数の女性大臣を起用しました。 一ヶ月前私が危機的な事になるのでは、と心配した「文化省」は抹消される事無く健在。 文化大臣は元ベルサイユ宮殿の管理運営ディレクター、クリスティンヌ・アルバネル。ちょっと頼りない女性大臣ですが、フランスはかろうじて文化国家の看板を堅持しました。

外務大臣に左派社会党の大臣経験者で「国境なき医師団」創設者のベルナー・クシュネル氏、中道UDF党のエルベ・モラン氏を防衛大臣に、そして貧富問題の準大臣に全国エマユス組織代表者マルタン・イルシュ氏の起用、、、これらは大変意外でした。右派UMP党の仲間だけで内閣を固めるのではなく、他党の人材も起用する「開かれた政治」は歓迎すべきです。しかし慌てた社会党は即座にクシュネル氏を破門、 中道UDFは二派に分裂、エマユス代表も現職を辞任しました。

Bamboo Orchestra大人講座に参加しているマルセイユのポワントルージュ・エマユスのデイレクターであるフランソワに、内閣組閣発表直後に出会ったとき「やあ、ムッシュー・ミニストル!(大臣様)」と私が冗談を飛ばしても、実直な彼は冗談を返せず苦笑して「マルタン・イルシュが内閣に入ってしまったのは、彼の個人的選択でエマユス運動とは直接関係がないよ!」と動揺を隠せませんでした。

また、サッコジ大統領は、環境問題が政治の最重要課題と、急にグリーンピースの代表や、 環境問題では代表格の人物ニコラ・ユーロ氏などを招いて会談するなど、左派切り崩しに打って出ました。それによって社会党などは内部権力争いが表面化したり、左派の団結はある意味で骨抜きにされてしまった感も否めません。なぜなら、保守与党が内閣に野党の人材を取り込み、環境問題など野党のお株をとってしまったら、与党の方針に反対したり批判したりする理由が無くなってしまったからです。もちろんそれがニコラ・サッコジ氏の狙いだったのでしたが。

一方、ボルドー市長で、今回の新内閣では国務、エコロジー大臣に任命され首相に次ぐ権力NO.2の座にあった元首相のアラン・ジュッペ氏が何と国民議会選で落選し、 引責で内閣大臣職も潔く辞職しました。(フランスでは、市長と国会議員、大臣を兼任する事ができるという妙な制度なのです)誰がその空いたポストに就くか、今日の段階ではまだ発表はありません。、、、以上が今日までのフランス政治状況のおさらいでした。

政治の季節が終わると、これから9月まで、フランス人の頭の中には「ヴァカンス」の一文字しかありません!

椎間板ヘルニア!

さて話は変わって、極めて個人的話題に突入です。

フランス、日本、あるいは地球上の何処にいても避けられないのは、肉体の老化。「 健康第一」、「体が資本」とはよく言いますが、しみじみその事を噛み締めている昨今です。1951年生まれの私は当年56歳。芸術家に定年は無いけれど、老化する肉体を持っているのは誰も同じ。そして情けない事に、それに気付くのは病いを煩ってしまってから、と人間は愚かなものです。

如何にして、病気にならずに健康を維持しながら上手に老いていけるか、そういう世界中の知恵を集めて、誰にでも判り易いメソッドとして誰か確立してもらえないだろうか? 20代を過ぎたら、後は日々老化してゆくだけの人生なのだから、人生の4分の3を占める老化の過程を如何に上手に過ごすか、これは万人が必要としているメソッドだと思うのである。

私は既に遅きに失していますが、 私の轍を踏まない様に若い人にはぜひ伝授してあげるべきです。外的な原因で不可避的に病気になったり、けがをしてしまうという場合はともかくとしても、私の場合は、自分で自分の肉体を酷使した結果病に至ってしまったという、自業自得の情けない話しなのです。

先日、竹取物語をフランス語に翻案した語り音楽劇“Le Bois de Bambou”の公演準備中に腰が痛くなり、あげくの果てには公演直前に激痛で全く立ち上がる事もできなくなってしまいました。この劇は俳優ひとりと楽師二人で構成され、演奏者も時々舞台上を動き回りセリフを言ったり演技に参加する趣向です。ストーリー、舞台装置、音楽と全て竹づくし、、、というBamboo Orchestraとしては初めての演劇作品で、とても評判が良く公演を続けています。

主催者からの電話で開演30分前に楽屋に医者が駆けつけてくれ、痛み止めの注射で何とか上下運動だけはできる様になり、動きを最小限に抑え舞台を無事に終えました。私はここ数年間に、既に激しい腰痛を何回か煩っていますが、数日後には回復しそのまま楽観して過ごしてきました。しかし今回の様に公演直前というのは危機的で、医者嫌いの私もさすがにこたえ精密検査を受けました。結果は案の定「椎間板ヘルニア!」

フランスの主治医は、スキャナーの結果写真を見て「こんなにひどいのを見たのは私の長年の経験でも初めて。腰椎と仙骨の間の椎間板は完全にヘルニア、その上の椎間板三カ所も危険な状態。とりあえず激痛がおさまり、現在普通に生活出来ているのは運が良いだけ。今後は姿勢に気をつけ、重いものを持ったり無理は絶対禁物、 治療は不可能!」というありがたい宣告です。

人間の腰椎は五つの背骨で構成され、その各背骨の間でクッションとなり緩衝役を果たしているのが軟骨の椎間板。その五つのうち四つが痛んで危険な状態とは、私の腰椎はほぼ全滅に等しい。

 

聴覚の衰え

十年以上前から耳鳴りがする事に気付いていた。しかし何も防御する事無く仕事を続けてきた。それが現在どんな結果を招いたかといえば、高音部の極端な難聴。

年とともに、聞こえる周波数のうち高音部から先に減少するのは致し方ないそうだが、私の場合は言語周波数の上限2000Hzから上が極端に落ち込み、ほとんど聞こえない状態。

腕時計などに付随している高音の目覚まし音、自動車の方向指示器のチカチカ音が聞こえない。楽器で言えば、マラカスなどの音が聞こえない。音楽家にとって致命的な事だ。また、フランス語には子音が多く、シャとかチュとかプとか子音が聞こえないと単語がはっきり聞き取れない。フランス語が堪能ではない上に難聴では目も当てられない。

しばらく前、卓球の玉が台に当たって跳ね返る時に、ピンポン球特有のセルロイドのとても乾いた音がするはずなのに、ボソッとまるで水面に玉を落とした様な音に聞こえ、初めて自分の耳がおかしい事に気付いた始末。

自分の耳が壊れた事を知ってからは、大音響の演奏練習時には必ず保護耳栓をし、アトリエに練習に来る子供達にも必ず耳栓を強制していますが、私の場合はもはや取り返しがつかない。ウォークマンで音楽を聴いたり、ロックの大音響を好む世代ではないのに、仕事柄知らず知らずのうちに自分の耳を破壊していた。

 

我慢の文化

考えてみれば耳鳴りはずいぶん昔からあった。腰もずいぶん前から調子が悪かった。しかし我慢し無理をする事が日常だった。私が自分の体を必要以上に痛めてしまったのは、まずは自分の不注意であり、それを棚に上げるつもりは毛頭ないのだけれど、一方でそういう自虐的な、あるいは自分自身に過酷な事を強いる事が美徳だという日本の精神風土が背景にあり、私もその犠牲者のひとりでは無いだろうか、とも思えるのである。

日本では子供の時から「我慢しなさい」と教わる。少々の事ではへこたれない忍耐強さが日本では美徳とされる。

フランスに来て、私が重い竹楽器をひとりで運ぶのを見て、フランス人の演奏家や友人達は「よせよ!」と忠告してくれた。忠告はありがたいのだが、私はせっかちで人にものを頼むのは好きではないし、いちいち説明して手助けを依頼していたら、五秒で済む所が一分も二分も掛かってしまう。チンタラしているフランス人なんかに頼むぐらいなら自分ひとりで運んだ方が手っ取り早い、、、と考えていた。

また、Bamboo Orchestraが使っているスリッタムやケチャなどの竹打楽器は強烈な衝撃音を発する。篠笛や能管の高音は耳をつんざく。以前にも何人かの演奏家がこれらの音は耳に耐えられない、と訴えた。もちろん私は彼等の言う事は理解し、これらの楽音(噪音?)が人間の聴力の限度を越えている事は承知していた。しかし、スピーカーから出る電気的に拡声された大音響とは違い、自然の素材が発する音に耳が耐えられないなんて「お前らは根性がない!」と頭のどっかで侮蔑的に考えていた。

皆さんもご存知だろうが、能という日本の伝統芸能は既に去ってしまった魂(死者)を舞台に呼び戻し、鎮魂して送り返す儀式である。多くの主人公が功を果たせなかった戦国の武将なのは、現世に執着を残した魂は安らかに永眠する事ができず そこいらを浮遊して災いの原因になる、、、という日本古来の信仰が基盤になっているからだ。能管の 「ひしぎ」と呼ばれる強烈な高音は、浮遊して何処にいるかも判らない魂とコンタクトをとり舞台に招かなければならないのだから、音楽的、音響的にも超越していなければならない(と教わったかどうかは定かではないのだが)と私は信じてやまない。私はそれが能の芸術の本質の一部であり、 正に日本文化の神髄なのだとも考えていた。いわゆる音楽的に美しいかどうかというレベルの問題ではないのだ。

だから、魂を呼び寄せる音に耐えられず、それを理解出来ないフランス人は、日本人の私からは「芸能の本質が判っていない」「根性が無い」と思え、 賛美歌の甘っちょろい音とは違うんだい!と、 私はたんかを切っていたのである。根性の問題と耳に悪影響があるほど負荷を掛けているかどうか、とは別問題のはずなのだが。

、、、 恐らく能管奏者は皆難聴になっているだろうと想像する。

それはともかく、ここで私が言いたいのは、能という芸能、能管という楽器が問題なのではない。我慢を美徳とする精神文化は気をつけなければいけないということだ。個人の意思、あるいは身体的能力を越えて、文化が個人に対して暗黙のうちに強いている部分があるからだ。

私が被った耳鳴り、難聴という病は、能管や篠笛、あるいは竹打楽器の強烈な衝撃音のせいだけではなく、楽器作りで長年使ってきた電気ジグソーの音など複数の要因が考えられる。しかし、お囃子の師匠も耳を保護しろとは教えてくれなかったし、日本では、私に難聴にならない様に気をつけるよう忠告してくれた人はいなかった。いたとしても、私が聞く耳を持たなかったのだろう。その理由は、そんな音ぐらいで自分の耳が壊れるものか!と過信し、我慢出来るものは我慢すれば良いのだ、それが美徳だと考えていたからだ。

人間の肉体には限界がある。身体の構造や成り立ちを把握した上で、適切なコーチや医師が付き添った上で激しいスポーツをするなら良い。普段腹筋などを鍛えている人が重いものを持ち上げても決して体を壊す事はないに違いない。適切な訓練をしていない素人が無理をしてはいけない。繰り返すが、困難な事も意思によって克服することを美徳とする、そういう精神風土自体は悪くはないけれど、それなりの準備をし防御態勢を万全にして臨まなければ、自分で自分の体を痛めてしまう結果となる。そんな悲惨な事にならない様に、次世代の子供、若者達にはぜひ適切な情報を与えてあげるべきだと思う。

学校で「横断歩道を渡る時は右を見て左を見て、車が来ないか十分確認した上で渡りなさい!」と教える様に、「決して重いものを持ち上げてはいけない!」「もしその必要がある場合も決してひとりではやらない。そして前傾姿勢は禁物!」。「聴覚能力を越える音楽、騒音に耳をさらしてはならない!」「少しでも危険を感じたらすぐに耳栓で防御しろ!」と。


フランス便り No.9
サッコジ氏勝利だが・・・              矢吹 誠 (高22回)

先週の日曜日はフランス大統領選挙の決選投票日だった。その前日の土曜日、私達Bamboo Orchestraは久しぶりに全員揃ってフリッシュのアトリエで稽古をした。 メンバーの打楽器奏者のひとりギーヨムが、 身支度を整えながら別れ際に「Makoto, Bon voyage! 荷物は早めにまとめておいた方が良いよ。来週半ばには、君の所に政府から日本行きの航空券が送られて来るからね、それも片道だけの、、、。」と冗談を飛ばした。

選挙結果

五月六日日曜夜8時1分前。全フランス国民がテレビに注目する中で最後の秒読みが始まった。画面の数字が0になった時、フランス国旗の後ろに現れたのは大方が予想した通りニコラ・サッコジ氏だった。

手にてに青い風船を掲げ、由緒あるコンサート会場ガヴォ・ホールの前に集まっていたサッコジ支持派の群衆は歓喜の雄叫びをあげ、方やセーヌ左岸サンジェルマン大通りに面したラテンアメリカ会館前で「セゴレンヌ/プレジデント」と書かれたピンクのプラカードを掲げていた群衆は、落胆の表情を隠さなかった。ニコラ・サッコジ氏は53%の支持を得て次期大統領の座を確保し、方や47%の支持に留まったセゴレンヌ・ロワイヤル女史は敗者となった。(因に、私は実際にパリに居たわけではなく、マルセイユの自宅でテレビを見ていたにすぎません)

その夜、パリ・シャンゼリゼ通りの突き当たり、コンコルド広場に仮設された大舞台では、サッコジ氏を支持するエンリコ・マシアス、ミレイユ・マチューなど、日本でもお馴染みの歌手や俳優ジャン・レノ、クリスチャン・クラヴィエ等が舞台に立ち、10万人近い人々がオベリスクが中央にそびえる広大な歴史的広場を埋め尽くした。当人サッコジ氏は、まずガヴォ・ホールで側近や選挙後援者達に挨拶したあと、シャンゼリゼ通りのフーケットという有名高級レストランに立ち寄り歌手のジョニー・アリデー等と食事をし、23時頃コンコルド広場の舞台に現れ祝福する聴衆に挨拶をした。

その同じ夜、選挙結果に不満な若者達はバスチーユ広場に集まりデモを繰り広げ機動隊ともみ合った。パリ市内だけでも100台以上の車が放火され、リオン、ナントなどフランス各地の主要都市で反サッコジのデモ、そして一部は暴徒化した。翌日までに全国で何と730台の車が炎に包まれ黒い残骸となった。メディアは「各地で多少のいざこざがあった」という程度の表現で、その夜は詳しく報道しなかったが、一晩に700台以上の車が放火されたとは非常事態だ。新しい大統領が選ばれた晴れの日に、暴動を大きく報道するのははばかられるというメディアの配慮があったのだろうが、前途は決して順風とは思えない。

開票翌日、5月7日からサッコジ氏はお忍びで三日間休暇をとった。しかし、イタリーの南、地中海マルタ島に浮かぶ豪華ヨット(クルーザー)の上にいるサッコジ氏をメディアはめざとく見つけ出し報道した。この船は、フランスを代表する大資本家の持ち物で、賃貸料金は週20万ユーロ(約3000万円)。そしてこの資本家は彼の親しい友人であり、友情で提供されたに過ぎないという。

サッコジ氏は選挙で勝利したが、まだ大統領職に就いたわけではない。長期にわたる選挙戦の骨休めに、家族でほんの三日間休暇を取る事に誰も文句は言わないだろう。ところがそれが大資本家のヨットの上で、行き帰りも資本家から提供された自家用飛行機だとなると、話しは変わってくる。右派の政治家の友人は大資本家達、、、という癒着の構図は薄々誰もの脳裏にはあっても、こうもあからさまに見せつけられると、庶民の味方だと言っていた彼の公約はいったい何だったのだろうかと、早くも疑問の声が巻き起こっている。一方でこの一週間の間、パリやフランス主要都市で毎日暴動は続き、昨夜も200台の車が灰になっているのだから。

選挙結果は53%と47%と明らかな開きがあり、サッコジ氏の勝利には間違いないのだが、一方で国民の半数近くがニコラ・サッコジ氏を支持していないという現実も抱えている。セゴレンヌ・ロワイヤル女史を支持した人の中には、失業している若年層、そして特に都市郊外に住む貧しい移民層が多数を占める。かれらは、生活状態や環境が改善される事を期待して、福祉、教育に力を入れ、人々の和を強調するセゴレンヌに投票した。しかし、経済を優先し「 仕事を多くした者は収入も増える」と労働意欲を煽り、停滞した経済を活性化させようというシンプルな理屈のサッコジ氏がフランス人の過半数の支持を得た。サッコジ氏が次期大統領として民主的に選ばれたものの、芸術家、知識人達もこの国の先行きには不安を感じている。

問題の根幹

今回の大統領選挙、4月22日に行なわれた第一回投票、そして第二回の決選投票いずれも棄権者が僅か16%、投票者が84%と近年まれに見る値。国民の今回の選挙への感心の高さを示し、直接民主主義が十全に機能しているのはさすがフランスである。そして決選投票に残った二人ともが50歳代前半という若さなのも、政治が健全な証拠だと思う。だが、現実にフランスが抱えている社会問題を考えると、ひとりの候補者が過半数をとれたからといって、思い通りに国を運営できるかというと、事態はそう簡単ではない。

フランス社会の問題の根幹は、富める人間と貧しい人々の格差である。その意味ではフランス国内が既に世界の縮図といってもいい。移民の問題も、宗教や人種の問題というよりも貧富の格差に大きな原因がある。フランスは民主国家であり既に階級社会では無いはずだが、未だにかつての貴族や社会的エリート、ブルジョワ支配層の末裔が富を握っており、一般民衆の生活とはかけ離れている。そこに、近隣諸国からよりよい生活を求めて貧しい人々が押し寄せて来ているのだから、問題は複雑だ。

冬の到来

われわれ芸術家、文化関係者達の大半は、はっきり言ってセゴレンヌ支持であった。なぜなら、経済優先政策を掲げるサッコジ氏の公約には「文化」という言葉が一度も登場しない。つまり文化政策は皆無。そして、方や治安維持の為になるべく移民を締め出そうという論理だ。 移民排斥を前面に掲げる極右政党のルペン氏程ではないにしろ、サッコジ氏の移民政策はかなり厳しい。だから冒頭の友人の冗談も、サッコジ氏が勝ったら日本人の私もフランスから追い出される事になるかもよ、、、という落ちなのだが、文化関係者そして芸術家達は、本当にフランスの先行きはどうなるのだろうかと戦々恐々としている。

「サッコジ氏は文化省を抹消してしまうかもしれない」、という憶測が流れている。文化予算を大きく削るだけでなく、省自体をも無くしてしまうだろうという予想だ。そして代わりに移民を検閲する移民省を設けるだろう、と。内閣の決定権はすべて大統領に一任されている。だから、新たに省を設ける事も既存の省を抹消する事もできる。恐らく現在ある青少年・スポーツ省と統合して、「青少年・スポーツ・文化省」という形に再編されるか、あるいは教育省に取り込んで、「教育・研究・文化省」 という形になるか、、、。今まで文化にお金を使う「文化省」が独立して予算を持ち、それがある意味で文化国家フランスの看板でもあったのだが。

はっきり言って、サッコジ氏には、今まで歴代の大統領にあった人間的な豊かさが感じられない。ミッテラン大統領にしても現職のシラク大統領にしても、左であろうと右であろうと政治家である以前に文化的な豊かさを備えた知識人という香りが漂っていた。そしてその気品がフランス大統領たる証しであり 、世界が一目置く所以でもあるのだ。ところが、サッコジ氏は文学にも感心が無ければ絵画にも音楽にも演劇にも感心を示したという話しを聞いた事がない。既に金持ちになったスター歌手や俳優が彼を取り巻き揉み手をしていても、それは彼が文化に感心があるからというわけではない。

僅かな期待

5月6日夜勝利が確定し、支持者が集まるガヴォ・ホールでサッコジ氏の第一声は、

「今日は、フランスの二つの勢力の一方が他方に勝ったという勝利の晩ではない。私は唯一デモクラシーの勝利だと言いたい(つまり、自分は公正な選挙で選ばれた)。私に投票しなかった人も尊重し、大統領としてすべてのフランス国民を愛する。フランスが私に与えてくれたものを返礼する時が来た。

フランス国民は変革を求めている。そしてそれを実行するのが私に与えられた権限である。すべての国民がそれぞれの場所で力を発揮出来る社会にする。

ヨーロッパ・ユニオンの建設に尽力する。

アメリカは友好国であり、地球温暖化問題で暗礁に乗り上げているが、人類にとって避けがたい課題であり参画を促す。

女性の立場向上に尽くす。世界の虐げられている子供、女性に協力する。

過去の軋轢を捨てて地中海諸国が団結する「地中海ユニオン」を構想する。

そして、その地中海ユニオンが橋渡しをし、アフリカの病気、貧困の根絶、平和の達成に努力する、、、」

彼の言説は確かにすばらしい。

既に2002年から文化予算が削減されている上に、 これ以上予算が削られれば、われわれ芸術家達の創作活動に支障が出るだろう事は目に見えている。

しかし、世界が抱えている貧困問題、人権問題、環境問題に優れたイニシャティヴを発揮し、彼の言う事が本当に実行されるのなら、大資本家の友人が提供する豪華ヨットの上で何日ヴァカンスを過ごそうが、私はサッコジ氏を歓迎するのだけれど。

P.S.

これを書き終わったとたん、サッコジ氏の休暇に豪華ヨットを提供した件の資本家は、何と今まで数回にわたってフランス政府から公共事業の受注をしていた事がジャーナリストの調べで発覚した。 サッコジ氏は、まだフランス共和国大統領に正式就任もしていないのに、既に疑惑が浮上。前途は多難だ。

 


フランス便り No.8
復活祭、ヴァカンスそして大統領選挙              矢吹 誠 (高22回)

昨日4月8日は「復活祭」。フランス語ではパック(Paques)、英語ではイースターというキリスト復活を祝うお祭りで、フランスに限らずキリスト教文化圏は一斉にお休みである。もちろん当日は日曜日だから休日には違いないのだが、今日月曜日も代休で、土、日、月と普通の人は三日間連休です。キリスト教を信じる人もそうでない人にとっても、復活祭は春を祝う大切な節目なのです。

チョコレートの卵

復活祭が近づくと、色とりどりに飾付けられたチョコレートの卵やウサギがパン屋(boulangerie)やケーキ屋(patissier)のウインドーを飾る。店先のウインドーの飾り付けの変化は、季節感や祝祭日の雰囲気を盛り上げてくれる大切な要素である。

カトリックの本格的な信者達にとっては、復活祭の前40日間の節制粗食の期間、四旬節カレム(Careme)があり、肉や卵や乳製品を断ちイエスキリストの受難を分かち合うというしきたりらしいが、身の回りに敬虔なカトリック教徒がいないから詳細は良くわからない。うちの家族、義理の母などは、ただチョコレートの卵を買ってきてテーブルの上に飾るという以上の事はしない。妻のナディンヌは、子供の頃は本物の卵に彩色して楽しんだと言う。

さて、何故卵やうさぎが復活祭のシンボルになるかといえば、断食期間に口にできない食べ物の一つだという事も理由なのでしょうが、どうやらこれはゲルマン人の春を祝う風習がキリスト教と結びついたもので、卵は再生のイメージ、そしてウサギは多産だから繁栄のイメージ、、、ということらしい。

復活祭は、あまり信仰心の無い現代フランスの一般庶民にとっては、 暖かくなり、木々や草花が生気を取り戻した春の季節を祝うお祭り、という以上には深く考えてはいないようだ。

復活祭と卵というとりあわせも宗教的ないわれがはっきりしているわけではなく、またチョコレート製卵という発想もキリストの復活とは何ら関係がないのだけれど、チョコレートの卵は18世紀からすで存在しているというから、製菓チョコレート業界の地道な努力もさることながら、ハレの雰囲気とチョコレート菓子はとても相性が良いという事なのでしょう。日本で流行っているバレンタインデーとチョコレートの組み合わせも、この復活祭のチョコレート製卵の習慣が影響しているのかもしれない。

学校の休日

ヴァカンス(長期休暇)の多いフランスでは、この時期にも「復活祭」にかこつけて (?)学校は二週間の春休みに入ります。ところが学校の休みはフランス中一律というわけではなく、全国を A、B、C と3つのゾーンに分け、冬休みとこの復活祭の春休みをわざと一週間づつずらしています。ヴァカンスが全国一律だと、各地のホテルが一斉に満室になり、人々がどっと移動しひどい交通渋滞を招くので、それを回避する為の知恵というわけなのです。

マルセイユのあるブッシュ・ドゥ・ローヌ県や南仏東部地方はBゾーンで、ヴァカンスは実際の復活祭とはずれて、来週から始まります。方や、私が一週間前に楽器作りのワークショップを指導に行ったフランス北西部ナント市はAゾーンで、二週間早く3月30日から子供達は既にヴァカンスに入っていました。

学校の休みは、子供を持つ一般家庭のヴァカンスを大きく左右します。子供が学校に行かない期間は家族総出で何処かに出掛けるか、さもなければ子供達だけを預かるフランス国内や隣国にある体験学習やスポーツをする施設「コロニー」(Colonie de vacances)に送り出す事になります。また逆に言えば、人々が家族揃ってヴァカンスに出掛ける為には学校の休みもゆとりを持たせなければならないわけで、秋、クリスマス、冬、春の各休みは毎回二週間と極めて長いのです。

にもかかわらずヴァカンスが近づくと、数日前から子供に学校を休ませてさっさとヴァカンスに出掛けてしまう家庭があるから驚いてしまいます。学校の勉強だけでは足りず、大半の子供を塾に通わせている日本の家庭とは根本的に考え方が違います。ヴァカンスは学業よりも仕事よりも何より最優先。もちろん皆が皆、というわけではないですけれど。

一方、学校の先生業は休みが多く極めて優雅な仕事です。そんな皮肉を先生に言うと、「普段子供達の教育者としての責任と指導で身を粉にして働いているのだからそれぐらいの役得があっても当然、休みの間も家で次の授業の準備とか採点をしていて遊んでいるわけではない」という答えが返ってきますが、いわゆる公務員の中にあっても教師は休暇が多く格段に恵まれている職業だと思う。年間三ヶ月半、14週間の休みがあるのだ!

夏休みはまるまる一ヶ月半、9月新学期が始まっても10月末から11月にかけて万聖節トゥッサン(Toussaint)の秋休み二週間、もちろんクリスマスから年頭に掛けて二週間、1月になり二学期がはじまったかと思うと、2月中旬から3月に掛けて冬休み二週間、そして四月の復活祭の春休みが二週間という具合だ。

小学校では、普通水曜日は休みで授業が無く土曜日も午前中のみである。また中学校は水曜午前中の授業のみで午後は無し、土曜は休み。 当然日曜日はだれもが休日。つまり小中学校の教師は、週のうち四日半しか働いていないことになる。その上年間三ヶ月半のヴァカンス。つまり計算すると、彼等は年間171日しか働いておらず、一年の半分以上がお休みである。

私はフランスの学校の先生に恨みは無いし、学内で授業をする機会も多いから、むしろ仕事仲間という連帯意識ではいるが、学校の休みが多いということは子供達が授業を受けている時間がフランスは極端に少ないわけで、私はもう少し授業時間を増やすべきだと思うのだが、学校の休みが多すぎると文句を言う先生もいなければ、苦情を言う生徒の親もいない。

ヴァカンス

学校などの教育機関もそうだが、フランスはやたらに休みが多いと感じる。

実際、一般労働者の有給休暇は年間五週間もある(しかない?)。普通の人はクリスマス時期、あるいは復活祭の4月に一週間、後の四週間は夏のヴァカンスとしてたっぷりとる。だから夏休みの時期は、公的機関もほとんど閉まってしまうので仕事にならない。その上最近フランスでは週35時間以上働いてはいけないという法律があるから、フランス人は本当にあまり働いているとは思えない。しかしそのせいで国が傾いてやってゆけなくなっているわけではなく、何とかなっているのだから不思議だ。

フランスでは「ヴァカンスの為に仕事している」、という感覚の人が多い。つまり人生の目的の第一はヴァカンスで、そのヴァカンスを有意義に過ごす為にはお金が必要だから、ヴァカンス以外の時間は我慢して働く、、、という意識である。仕事が好きという人は極めて少ない。私が、「いつもヴァカンスにも出掛けないで仕事をしている」と言うと、頭がおかしいんじゃないの?と白い目で見られる。私は日本人だから遺伝子的に仕事好き、という面もあるかもしれないが、芸術家は自分が努力しなければ評価されないし、自分の芸術観を発展させるためには、お金を稼ぐ事とは関係なくどうしても時間を惜しんで仕事をしてしまう。

ヴァカンス時期が近づくと、会話の中心はヴァカンスをいかに過ごすかという話題になり、必ず、貴方はどう過ごすの?何処へ行くの?と質問される。私はまともに返答するのが面倒だから、いつも「日本人はヴァカンスをとらない、人生の目的は仕事である!」と極端な事を言って笑いをとり、けむに巻くのである。 

働きすぎる日本人というイメージは、ある意味では侮蔑的でもあるが、一方で日本の経済力、日本人が作り出す工業製品や文化に対して一目置き敬服している面もあり、フランス人がヴァカンスばかり考えていて良いのだろうか?とフランス人自身も何処かで懐疑的に思っている節もあるのである。

一方、日本人の私といえども最近は健康を考慮して、魂をつめて仕事をするのは避ける様にしている。そして私が住んでいるのは南仏だから、郷に入っては郷に従えでもある。仕事は控えても、普通の人の様に何処かに出掛けて行く気はあまりしない。南仏は、フランス北部や遠くオランダやドイツからも観光客が押し寄せる場所だから、私にとってはここに居るだけで十分である。しかし、ここで生まれたり昔からここに住んでいる人は、やはり何処かに出掛けないと気が済まないらしく、コルシカ島、チュニジア、モロッコ、イタリー、スペイン、、、と出掛けて行く。フランス人には、「ヴァカンスとなったら何処かに出掛けないと人並みではない」という強迫観念があるのではないかと思う。

フランスにいれば、ヨーロッパの国々はすぐ近所だから簡単に行けるのだけれど、私はヨーロッパに足掛け14年住んでいるにもかかわらず、仕事以外では他国にはあまり出掛けていない。隣国のスペイン、イギリス、イタリーだけである。

私にとってのヴァカンスは、何処にも出掛けず何もせず、ただうちでのんびりするのが唯一の骨休め。娘が小さかった頃は、テントを車に積んでスペイン国境のキャンプ場で1~2週間過ごすのを毎年夏の恒例としていたが、娘も大きくなると、一人でアメリカの家庭にホームステイに行ったり、ヴァカンスを親と過ごす機会が少なくなってきている。

フランス大統領選挙

さて、フランス大統領選挙一次選が2週間後に迫ってきました。 私は未だに日本国籍で選挙権こそありませんが、選挙の動向は逐一気になります。政権の如何によっては、明日の生活ががらっと変わってしまうかもしれないからです。

世論調査の結果は、保守派UMP党(Union pour un Mouvement Populaire) のニコラ・サッコジ氏が相変わらずトップ。そして社会党セゴレンヌ・ロワイヤル氏は二位、そして今年に入ってから躍進した中道右派UDF党(Union pour la Democracie Francaise)のフランソワ・バイルー氏が次に続いています。バイルー氏は、今まで政権が社会党そして保守党と左右に揺れ動いても結局ろくな結果になっていない、両方の意見をまとめて本当に民衆の為の政治を目指すべきだという論調と真摯な語り口で支持者を増やし、右左どちらにも不満のある層を引きつけています。

今の所極右FN党(Front National)のジャンマリー・ルペン氏は四位ですが、ここ数日また盛り返しているとの噂です。2002年の二の舞があり得るかもしれません。

2002年には、社会党のリオネル・ジョスパン氏が予想外に票を獲得出来ず、決選投票に残ったのは保守党ジャック・シラク氏と極右党のルペン氏でした。もちろん第二回の決選投票では、シラク氏が80%以上を獲得しフランスの大統領が極右という民主主義の崩壊は避けられたのですが、本来保守派に賛成しかねる社会党や左派支持者たちも、この時ばかりはシラク氏に投票せざるを得ないという経緯だったのです。

次回、フランス便りをお届けする時は、選挙結果も出ているでしょう。果たしてどんな結末になりますか、、、。

フランスの次期大統領が誰になったとしても、民主主義を堅持し、自由、平等、博愛を標榜する文化国家の長として、 単にフランスの国益を優先するのではなく、地球規模で解決すべき環境問題、人権問題、南北問題など対して、人類の将来を見据えた正しい判断をしてくれる人であってほしいと願うのです。

 


フランス便り No.7
フランスの衣食住               矢吹 誠 (高22回)

今年の冬、 本格的な寒さを感じたのはほんの一週間しかなかった。なんとフランスは1950年代からの記録史上最高の暖冬だったそうだ。南仏で春先最初に白い花をつけて春の訪れを告げるアーモンドの木は、通常二月末に咲き始めるのが、今年は一月下旬から一ヶ月も早く咲き始めた。自然の植物だけでなく、われわれ人間にとっても、寒い冬を耐え忍んだ後に待ち遠しかった春がやって来た、、、というありがた味が薄らぎ、些か拍子抜けだ。地球温暖化問題もさることながら、やはりはっきりした四季の巡りが精神に及ぼす影響は大だと思う。

マルセイユは地中海に面し、一年中太陽がさんさんと輝いて暖かい所かというと、そうではない。フランスの他の地方に比べ格段に晴天の日が多く、いつもどんよりと曇っているパリの空とは比較にならないけれど、南仏もやはり冬の季節は結構寒い。雪こそ滅多に降らないが、アルプスから吹き下ろすミストラルという寒い北風が吹きすさぶ日には、厚手のコートとマフラーが必要である。 ここにも四季はあるのだけれど、 日本の四季に比べると春と秋が極端に短く、ほとんど夏と冬だけという感じである。

冬が過ぎて三月、四月は花が咲き木々の緑が戻りやっと暖かさが、、、とほっとしているのもつかの間、五月に入ると太陽の日差しが急に強くなり初夏の様相を呈する。気の早い人は四月末にもう海岸に繰り出す。一般の人でも五月には海水浴を楽しみ始める。この時期まだ海水は冷たく、私などは足を濡らす程度で泳ぐ気にはならないが、砂浜で寝そべって日光浴には申し分無い。そして梅雨が無いから、六月、七月、八月、そして九月中旬まで本格的な夏である。

ところが、九月中旬からの変わり身は実に早い。雨が盛んに降り各地で洪水騒ぎとなる。そうこうしていると、十一月には既に暖房が必要な本格的な冬が訪れるのである。

感覚的には、春と秋は2ヶ月、夏と冬が4ヶ月ずつ、、、という割合である。

海の話しのついでに言えば、マルセイユはギリシャ時代からの古い港町でフランス第二の都市(といっても人口80万人、東京世田谷区の人口よりも少ないが)。街の中心地、旧港から歩いて10分、車で2分足らずの所にカタランという砂浜がある。ここが街で一番近い海水浴場。水は澄んでいて海底が見える、もちろん魚も泳いでいる。

ただ、車でニース方面に30分も走ればコート・ダジュールの本格的なビーチがカシス(Cassis)、ラ・シオタ(La Ciotat)、バンドール(Bandol)、、、サン・トロペ(St Tropez)と続いているし、これは徒歩で岩山をひとつ越えないとたどり着けないのだけれど、レ・カランク(Les Calanques)という風光明媚なリアス式海岸風の深く入り込んだ入り江がマルセイユとカシスの間に幾つもあるから、私はあえて街の前では泳がないけれど、輝く太陽と青い海、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」(Plein Soleil)に出て来る光景!、これはやはり南仏の特権でしょう。

いたずらに他人をうらやましがらせる様な話し?はさておき、「フランスの庶民は、いったいどのような生活をしているのか?」生活の基本、衣食住について折りに触れて少しずつお話ししようと思います。

ファッション

パリはファッションの都。毎年オートクチュール(Haute couture)のコレクションが発表になる。フランスのテレビでも二月のこの時期には、クリスチャン・ディオールのデザイナー、チョビ髭のジョン・ガリアノやシャネルのカール・ラジェルフェルド(白髪にサングラス、10cmはあるだろうか?苦しそうなむやみに襟の高い白いワイシャツをいつも着ている)、そしてクリスチャン・ラクロワなどがコレクションの最後にトップモデルと共に現れ、手を振って観客に答えるという毎年恒例の光景が映し出される。

実は私も数年前、パリまで出掛けてクリスチャン・ディオールのコレクションで生演奏する機会があった。仕事としては付き合ったが、いったい一着数十万円や百数十万円もする、そんな服を着る人は何処に居るのだろうか?と思う。またとんでもなく奇抜で面白いには違いないけれど、例えば今年のジョン・ガリアノの日本の折り紙からヒントを得たというそこら中とんがった様な服を、普通の人が着て歩けるわけが無い。またトップモデルの背の高い細身の体の線に合わせたデザインが一般人の体型に合うわけが無いし、、、。ともかく、この手の出来事がフランスのパリで継起している事は事実だが、フランスでも庶民とはまったく縁のない世界だという事をはっきりお伝えしておこう。

さて、普通の庶民はどんなものを着ているかといえば、流行の最先端とは関係のない、あるいは流行に惑わされずにそれぞれの趣味で選んだ服を着ている。パリのある地域では確かに最新流行の服に身を固めオシャレに取り澄ましている人を見かけるが、それは、日本の東京の青山や六本木でその手の人を見かけるのと同じ事でごく限られた場所、ごく限られた人々である。

ただ、若者は流行に敏感なのは何処の国でも同じで、数年前から流行り出し今でも続いている、ズボンをだらしなくずり落ちそうにはき、パンツやストリングスの尻をみっともなく露出する若者達はマルセイユにもいる。

一方、ネクタイを締めて背広を着ている人には滅多にお目にかからない。企業の上級管理職、政治家、役所でも上役以外はそれぞれ思い思いの服装だ。制服は、大型通販店などで店員と判別できる様にお揃いの前掛けやT-シャツ姿を見かけるが、病院の白衣は別としても、いわゆる制服を着用する習慣はほとんどない。バスの運転手も郵便配達員も普段着だ。ゴミを集めたり街の清掃を担当する人は蛍光色の黄色と青の上着を着ているが、これはドライバーの目につき易い様に安全の為の上着である。

ワインの話し

フランスの飲み物といえばワイン。ボルドーはどこどこシャトーの何年ものが美味だとか、この料理にはボルドーよりブルゴーニュの方が相応しい、、、とか、ワインはまるで識者がうんちくを傾ける為に存在しているかの様相です。ところが、フランスではワインはごく一般的な庶民のアルコール飲料。 極端な話し、道端で寝ている赤ら顔のアル中が手にしているのもワインの瓶です。

私もワインは決して嫌いではありません。利き酒にも自信はあります。ところがここワインの本場フランスで生活していても、いわゆる高級ワインを飲む機会は滅多にありません。そして、ワインはあまりにもありふれた伝統的飲み物なので、最近の若者はワインは年寄りが飲むもの、オジン臭い(こんな言葉も日本では既に死語?)と敬遠し、若年層のワイン消費量が減少していると言います。確かに、テーブルを同席した時にワインを注文する若者はあまり見かけません。

高級ワイン

いわゆる識者が蘊蓄を傾けるワインは、白やロゼではなく赤ワインに決まっています。食事に合わせ、魚料理や軽い味付けの料理には確かに白やロゼの方がマッチします。ブルゴーニュのシャブリなどの有名な白ワインも存在しますが、コクや深みを比較し云々するのは、もっぱら赤です。例えば大西洋側のボルドー地方のワインは、舌にねっとりと絡む様なコクがあり渋みもあります。それに比較するとフランス中部ディジョン市を中心とするブルゴーニュ地方のワインは味わい深いけれどさらっとしています。

地方によって味が違うのは、気候風土以前にぶどうの品種が違うからなのです。ボルドーはカベルネ・ソーヴィニョン、ブルゴーニュはピノ・ノワール種。しかしその基本種に他の品種を掛け合わせたり、また収穫してから混ぜまぜしたりとか、貯蔵する樽の木の選択に凝ったり、それぞれのシャトー(と言っても本当にお城があるわけではなく、広いぶどう畑を所有するワイン生産者という意味)独自に秘密の工夫を凝らすのです。特にカベルネ・ソーヴィニョン品種のワインは熟成に時間が掛かり、数年から十年ぐらい経ったいわゆる「何年もの」が珍重されます。寝かすとより熟成が進みコクが出て美味しくなるというわけなのです。

ですから、そこらで買った普通のワインを大事に何年寝かせようとも美味しくはならず、返って酸っぱくなったり古びた味になってしまうだけで何の意味もありません。

ボジョレ・ヌーヴォー

驚く事に、フランスのボジョレ・ヌーヴォーの輸出量の半分は日本行きだそうです。一時成田空港で到着したてのワインを飲むというお祭り騒ぎがありましたが、ヌーヴォー(新酒)の解禁日は決められていて、丁度日本が時差の関係でフランスや諸外国よりも数時間早く飲む事が出来る、、、という業者の宣伝文句にまんまと踊らされたのでした。しかし、一時の気違いじみたブームは去ってもいまだに日本人が半分を消費しているという数字は驚きです。

ボジョレはガメイ種というぶどうから作られる独特のフルーティーな味が特色で、特にヌーヴォーはぶどうジュースの様に飲み易いので、アルコールはあまり得意ではない人、そして女性にも受けるというわけなのでしょう。

こういう私も11月のその時期には、店に並んでいると季節感を感じてつい一本は買ってしまいます。こちらでは700円ぐらい、ワインとしてはちょっと割高。 なぜならボルドーなどの銘柄ワインでも普通一本500円ぐらいからで、千円もするワインは既に高級ワインの部類です。

テーブルワイン

さて、普通の人は普段どんなワインを飲んでいるかといえば、テーブルワイン(Vin de table)です。これは、業者が各地方から仕入れたワインを混ぜ合わせたものです。味は決してそんなには悪くありませんが、品質と産地を保障するA.O.C(Apellation d‘origine controlee)マークや産地ワインマーク(Vin de pays de xx)を付ける事が出来ないものです。ですから基本的に割安で、食欲を促進する為に水代わりに飲むフランスの食卓にはこのテーブルワインは欠かせません。レストランでも、昼定食などについて来るピシェ(水差し)に入ったワインはこの手です。

ただ、人を自分の家に食事に招待した時などは、カーヴ(地下室)にしまっておいたとっておきのワインをさりげなく出すのが、一家の主としての格式を示すフランス流伝統と言えるかもしれません。しかし、ワインを貯蔵出来るちゃんとしたカーヴを何処の家もが備えているはずも無く、そういう振る舞いを皆がみんなしなければならないという決まりもありません。因に、街中のアパルトマン(日本風に言えばマンション)住まいの我が家の地下にもカーヴはあるものの、ワインは一本も眠っていません。

 南仏は、ローヌ川に沿った地域で穫れるコート・デュ・ローヌ(ローヌ川岸)という銘柄ワインの産地です。ボルドーやブルゴーニュ程知名度はありませんが、中には高級ワインもあり、アヴィニョンの向こう岸シャトーヌフ・デュ・パップは有名です。値段が高いだけの事はあり、口の中に広がる味わいと深みはさすがです。またアヴィニョン東のジゴンダスも勝るとも劣らぬ定評があります。

農協ワイン

私の義理の父ミッシェルは、両親がスペインのフランコ独裁政権時代にフランスに逃れマルセイユで生まれた正に庶民の代表といった存在で、彼が飲むワインは郊外の村の農協に直接買いに行く、現地産のワインです。

各村の農協では、その年に穫れたワインが三メートルぐらいの高さの大きなタンクに入っています。ワインを買うには5リットルや10リットルの半透明なポリタンク(日本で灯油を入れる様な)を持って出掛けます。ポリタンクを係員に渡すとタンクから出ているホースで、まるで車にガソリンを入れる様にジャジャーとワインを入れてくれます。この種のワインはアルコール度も低く、すぐに飲むワインで保存は利きません。1リットル300円ぐらい、ワインの瓶は普通750ccですからひと瓶に換算すると200円ちょっとという値段のワインです。ワインを輸送したり長期保存するには、瓶詰めしてコルクの栓をするのが最良の方法でしょう。しかし、数日や数週間で飲み終えてしまうのなら、容器に無駄なお金をかける必要はないというわけです。

ワイン専門店や食料品店の棚に並んでいるのも基本的に瓶詰めワインですが、一方、棚の隅には紙箱に入ったお買い得ワインもあります。

3リットルあるいは5リットル詰めで、瓶に換算すると4本から7本分弱。ワインが紙箱に直に入っているわけではなく、中に丈夫なアルミ箔の袋があり可愛いプラスチックの蛇口もついています。蛇口はワンタッチで開け閉めでき空気も入らないので、少しずつ飲むには瓶よりもかえって便利です。A.O.Cマークの銘柄ワイン、あるいは産地銘柄ワイン (Vin de pays)でも、この大型容器詰めはお買い得というわけです。

私が常日頃家庭で飲んでいるのはこの手で、瓶に換算して一本3~400円という所です。

 


フランス便り No.6
ピエール神父とエマユス               矢吹 誠 (高22回)

先週の土曜日、夕方から始まる大人向けBamboo Orchestraのアトリエ(アマチュア講座)に現れた参加者の一人、フランソワの胸の真ん中には大きなプラスチックの名札入れがあり、そこには白いあごひげを蓄えベレー帽をかぶって微笑んだアベ・ピエール(l’Abbe Pierre)の顔写真が光っていた。

ピエール神父は二週間前、一月下旬に94歳で生涯を閉じた。ピエール神父が創始したエマユス(Emmaus)はマルセイユにも北、南、そして東の郊外三カ所にあり、フランソワは南のポワント・ルージュのエマユスのディレクターだ。

フランスの国民的英雄だったピエール神父の死は、葬儀から現在に至るまで毎日の様にニュースの話題になっている。シラク大統領自ら「フランスのすべてが彼の死を悼む」と弔辞を読み上げ、葬儀はほぼ国葬扱いでパリのノートルダム大聖堂でとりおこなわれた。告別集会は1万7千人収容のパリ・ベルシーの巨大ホールをいっぱいにし、今もフランス北部ノルマンディーの小さな村にある彼の墓に献花に訪れる人が絶えない。この様にフランス人の多くが慕ったピエール神父は、第二次大戦後すぐ1950年代初頭からホームレスの貧者救済活動に奔走し、とりわけ彼が創始したエマユス組織は今ではフランス全土は言うに及ばず世界40カ国にまで広がっている。

(ピエール神父について興味をお持ちの方は、Wikipediaのアベ・ピエールの項をご覧ください。しかし日本語版Wikipediaでアベ・ピエールを直接引いてもなぜか出てきません!英語版WikipediaでAbbe Pierreの項に行きその後日本語版を選ぶ、あるいはGoogle検索で日本語版Wikipediaのアベ・ピエール項目をクリックすると行きあたります)

エマユス

フランスに来た当初、私はエマユスという組織がいかなるものかは全く知らず、ただ中古品の家具など掘り出し物を探すならここに限ると教えられ、たびたび訪れたものです。広い敷地の中に幾つもの建物が点在し、中古品を所狭しと並べて売っている巨大な蚤の市で、いつも多くの人で賑わっています。とにかくあらゆるものが信じられない程、滅茶苦茶に安い!ルイ王朝風の家具、アールデコの装飾品、本、衣類もあれば、電気製品、、、何でもあります。中古品ですから多少傷があったり汚れていたりしますが、ちゃんと修理されていて十分に使えるものばかりです。最近作られた新しい今風の家具よりも、一寸古びたり痛んでいても歴史を感じる家具に魅力を感じる人は多いでしょう。それも骨董品屋の法外な値段と違い格安なのです。

また、舞台で使う小道具を探すにはエマユスはもってこいです。衣装に使う古色豊かなマントや軍服や帽子やステッキ、トランク、などなど。 演出家や俳優、舞台関係者の友人達は皆ここの常連です。

つまりエマユスは表向きは骨董品市場。しかし、ホームレスの貧者救済を目的に始まった組織で今もその趣旨は変わっていません。システムはこうです。

家庭で不要になったがまだ使えそうなものがあったら、エマユスに電話するとトラックで取りにきてくれます。品物はタダで提供し引き取りに来るのもタダです。このようにして人々の善意で提供された不要品、中古品を集め、洗濯したり修理したり、多少手を加えた上で適当な値段をつけて売るのです。元々品物は善意によって提供されていますし、儲けを出すのではなく組織を運営する事が目的の非営利協会組織ですから、付けている値段も信じられない様な安値です。ここには宿泊施設が併設されてあり、仕事の無い人、家の無い人はここで雇ってくれます。もちろん廃品回収のエマユスの仕事に従事する事が前提で、ただゴロゴロしていたい人は受け入れてはくれません。

エマユスという名称

私がピエール神父の死について「フランス通信」に書いているところだと妻に話したら、エマユスという名称の由来は確か新約聖書だ、と耳打ちしてくれました。神父はキリスト教徒でしたから当然と言えば当然ですが、私は10年以上も前からエマユスという言葉を聞き、そして必要なものを探しにエマユスを利用して(といっても時々行くという意味)いながら、恥ずかしい事に今まで名称の由来については考えても見ませんでした。手元に新約が無いので原本では確かめてはいませんが、エマユスは現在のイスラエルにも現存する街の名前で、 キリスト復活の逸話はこの街で起こったとルカ伝(Evangile selon de Luc)にあるようです。

キリストが磔の刑になり、落胆した二人の弟子がエルサレムからエマユスの街に帰ろうとしている道すがら、一人の貧しい男に出会い彼を家に招いた。その人は夕餉の祈りを捧げパンをちぎって配った。その時になって、二人の弟子は初めてその人が復活したキリストだと気付き再び希望を感じる事が出来た、、、という話しだそうです。つまりピエール神父は、社会から逸脱してホームレスになってしまい落胆した人々に再び希望を与えるという意味で、廃品回収システムを利用した貧者救済事業をエマユスと命名したのでしょう。

エマユス祭り

実は昨年暮れ、フランソワが切り回すポワント・ルージュのエマユス祭りに出演し、 子供達のグループ「プッス」(Pousses de Bamboo Orchestra)とフランソワも参加している大人達のグループ「グロンド・プッス」35名が合同演奏し拍手喝采を浴びました。このエマユス祭りという催しは毎年一回行われ、通常でも破格な品物の値段をそれから更に値下げして叩き売るという催しで、普段にも増して掘り出し物探しの人々で溢れるのです。もちろん私たちは、エマユスを支援する目的でボランティアで演奏しました。

その前日夕方、演奏会場に竹楽器を運搬するため、 エマユスが普段使っている廃品回収用トラックがアトリエにとりにきました。今時珍らしい無骨な古いタイプの灰色のトラックを運転してきたその男はとても人が良く話し好きでした。開口一番「今日は忙しいんだよ、これが最後じゃあなくって、戻ってからまだ他の仕事があるんだ」と愚痴をこぼすのですが、あっけらかんと楽しそうです。「今日は忙しい」と、アトリエを離れるまで四回は同じセリフを言ったでしょうか、、、。楽器を積み終わっていざ出発する時に、ちょっとコーヒーでも飲んでいったら?とお世辞で誘うと、「ア~それはありがたいね!」と腰を落ち着けてまた話しが始まった。私はてっきり、彼は誘いを断ってすぐに出発すると思ったのでしたが。

彼の話しは決してつまらなくはありません。「昨年アフリカのマリに植林にいったんだよ。熱くて大変だったけど、現地の人たちと協力してずいぶんたくさんの木の苗を植えたんだ」とエマユスが行なっている人道的な活動に従事している事が誇らしげです。「明日は演奏を聴けなくて残念だ。何故かって言うと、明日は他の会場でレスト・デュ・キュールの仕事があってね、、、そっちに行かなければならないんだよ」レスト・デュ・キュールは、貧しい人に温かい食事を提供するボランティア運動です。とにかく気の良いこのエマユスのトラック運転手は、忙しいと言いながら一時間はアトリエで話し込んでいったでしょうか。

それからしばらくしてフランソワに、「あのトラックを運転してきた気の良い男、元気にしてる?」と尋ねたら、「いや、彼は数日前に消えてしまった」というのだ。彼はホームレス生活からエマユスに助けられた口で、エマユス内の宿舎に寝泊まりしていたのだ。彼は部屋に荷物をそのまま残したまま消えてしまった、普段聴いていたCDラジカセも読みかけの本も一切そのままにしたままだ。「怪我でもして病院に運ばれたのか、何処かで野たれ死にしていなければ良いが、、、また戻って来るかもしれないから部屋を片付けてしまって良いものか?思案している、、、」というのだ。

フランソワも、数日前まで一緒に働いていた男が急にいなくなってしまった事に困惑した表情をしていたが、内心はあまり驚いていない風でもあった。私も、ふと彼が話し込んでいた時の顔を思い出してみたが、この男は現実を生きていながら意識はどっか別のところにある、何か世離れした空気が漂っていた事を思い出した。だから私も「ヘー、それは心配だね」と答えながらも、彼の蒸発はあり得る事かもしれない、、、とどっか頭の隅で納得してしまったのだった。

大人のアトリエ

子供達のグループ「プッス」は既に5年のキャリア、技術的にも向上し安定していますが、音楽経験がほとんどないアマチュアの大人達のグループ「グロンド・プッス」は昨年春から始まり技術的にはまだまだ未熟です。子供達の「プッス」に助けられかろうじて人前で一、二曲演奏出来るというレベルにもかかわらず、最近はこの大人達のグループが増々意気盛んです。何と今年は20名以上にも膨れ上がり大所帯。

エマユスを運営するフランソワ、税務会計士の勤めを終えた退役高齢者だが、かくしゃくとしている白髪のピエールとその妻ニコル、先月福祉文化施設のディレクターの試験に受かり、現在は仕事待ちでルンルンしている二十代の女の子イザベル、マルセイユの隣町アロー市の職員でひょうきん者マックス、そして彼の妻でグラフィックデザイナーのシャントゥ、コンピューター技師のジャンマーク、太極拳の師範で高校の英語教師でもあるマチュー、同じ高校の福祉科の先生ジュンヌヴィエイブ、IME落ちこぼれ児童の施設で働く特殊教育者コレット、介護士で指圧師でもあるクロード、県庁で働くその妻スザンヌ、エコロジーを主張する緑の党EU議員の奥さんリーズ、幼稚園の園長サッチャ、、、 若年、中年、老年達が入り交じった実に多彩なで顔ぶれで和気あいあい。

みんな音楽の経験などほとんど無く、もちろん打楽器なんて生まれて初めてという人達ばかりだから、誰かがリズムを外しても音を間違えても笑って許し合う、という楽しい状況です。指導する私としてはなるべく早くレベルが上がって人前で演奏出来る様になってほしい、また参加している彼等にもそれが励みになるだろうからと思っていますが、このすばらしい雰囲気は何事にも代え難いとも思うのです。

またそれぞれの出身民族も様々だから話題がつきない。シャントゥは虐殺を逃れたアルメニアからの避難移民二世、マチューはベトナム二世、サッチャはモロッコ生まれ、クロードはスコットランド系イギリス人の末裔でケルト音楽と文化について話し出すと止まらない。毎回講座が終わるのは夜の8時。しかしその後もメンバーの半分程はすぐに帰ろうとはせず、飲み物を片手に文化談義が始まる。みんなを追い出しアトリエを閉める頃、時計の針は10時を指している。

25年前、四半世紀前に日本で私が竹打楽器を創作し演奏活動を始めた当時、何を馬鹿な事をやっているんだと、人々は冷たい視線を向けたものです。もちろん全くお金になどなりませんでした。しかし現在、初代日本のBamboo Orchestraはこの二月中旬から4度目のアメリカツアー公演に出発し、また日本各地に10カ所以上ものアマチュアBamboo Orchestraが誕生している。

そして一方私は地球のこちら側、マルセイユという地中海の港町で、年齢も様々、出身民族もまちまち、よって立つ文化も違うフランス人たちと、一丸となって竹マリンバ群の豊かなハーモニーを響かせ、また楽器を壊さんばかりにバチを振り上げ、けたたましい騒音を立ててスリッタムを無我夢中で連打している、、、。

これは毎土曜日の夜、フリッシュの私のアトリエで繰り広げられている確かな現実の光景なのですが、私にとっては25年という歳月もまるで昨日の出来事であり、なんだか夢の中を生きているかの様でめまいを覚えるのです。

ピエール神父の死から話しがちょっと横道にそれてしまいましたが、竹楽器の回りに集まって来た人々ははからずも人道的な活動に携わっている人が多く、音楽を通じて国境や人種や文化を越えた暖かく豊かな人間的な絆を模索している、ある意味ではピエール神父と同じ志を持った人々だと思うのです。

 


フランス便り No.5
竹音楽とフランス社会               矢吹 誠 (高22回)

明けましておめでとうございます。

2007年、日本在住の皆様は年があらたまり清々しい気分で初春をむかえられていらっしゃる事でしょう。フランスの新年は、12月31日から1月1日に移行する瞬間、パリならシャンゼリゼ通り、マルセイユならビューポー(旧港)埠頭に多くの人が繰り出し、キスしあったり、シャンパーニュの泡をまき散らして気勢をあげるというものです。しかしその盛り上がり方は、地元サッカーチームが勝った時と質的にはさほどの違いもなく、日本のように大掃除、除夜の鐘、しめ縄、門松、おせち料理やお雑煮、、、という厳粛な禊的雰囲気はありません。

新年の挨拶はボナネ!(Bonne Annee)、日本語にすれば「良いお年を」です。しかしこれは年があらたまってからの挨拶。年末の挨拶はボンブーダン!(Bon bout d’an:良い年末を)です。

年末年始、メディアの中心はフランス社会の矛盾S.D.F(Sans Domicile Fixe)、住む家の無い人たちの話題です。フランスにはお城に住んでいるとんでもないお金持ちがいるかと思えば、住むところ食べるものにも困っている人たちも多くいます。全国では8万人、パリに1万人~1万5千人程いるとか。方や中世のお城はだだっ広く、冬は暖房が効かないだろうし快適なわけが無い! (ひがみ?)にしても、 家の無い人たちは本当に悲惨です。いわゆる根っからの世捨て人の浮浪者だけではなく、失業保険や生活保護を受けていたり、何らかの仕事はしているけれど都会は家賃が高くアパート代が払えないという普通の人達も多く含まれています。パリでは観光地区サンマルタン運河の両岸にボランティア団体が提供したイグルー型の小型テントがびっしり並び、俄作りのカラフルなテント村が出現しました。二十年前に亡くなったコミック俳優、コリューシュが提唱して始まったレスト・ドュ・キュゥール(Resto du Coeur)という貧しい人たちに暖かい食事を提供する運動も盛んです。

寒い冬になると、都会の地下鉄や広場や橋の下で寝ている人たちが何人も凍死するので、毎年彼等そして彼等を助けるボランティアが話題になりますが、今年は特に頻繁にニュースでとりあげられています。恐らく都会の家賃が高騰したせいで例年にも比して増えているのでしょう。 右派政権になってから貧富の格差はさらに開いた感があります。シラク大統領は年頭挨拶で、 S.D.Fに宿泊施設を提供する緊急対策を講じると約束していました。4月の大統領選挙をにらんだ右派政党のイメージアップ策の一環でしょうが、こんなにたくさんの家なし人を排出しているのはフランスの恥ですし明らかに政治問題です。ただ、この時期までは暖冬が続いたヨーロッパも、これから二月に掛けては本格的に冷え込む事でしょうからこの先が心配です。

さて、このフランス便りでは、私がフランスで実際に見聞きし感じている事をお話

しするのが基本姿勢です。しかしやはり一度は、私の「竹音楽」がフランスでいったいどの様に受け入れられ機能しているのか、、、という事に触れておいた方が私の立場がお判りいただけるのではないかと思い、一回はそれに費やす事にいたします。フランス、あるいはユーロッパのクラシック伝統音楽とは全く異質の「竹音楽」を提唱している日本人に「マルセイユ市が、街の真ん中の200m2のアトリエをただで提供してくれている」理由、そしてそこで私が一体何をしているのか?ということについてです。

繰り返しお話ししてきた様に、フランスという国が芸術を評価し尊重する国だから厚遇されているという側面もありますが、私の仕事が単に一芸術家として、つまり私の音楽が「芸術的側面」だけで評価されているわけではない、というのも実は大きな理由なのです。 Bamboo Orchestraというプロのグループを主宰し各地での演奏活動、そして国立音楽院コンセルヴァトワールから委嘱されオーケストラ曲を書いたり、劇団から依頼され演劇作品の音楽を担当したりと、いわゆるプロの作曲家、演奏家としてフランスの音楽芸術分野で活動し一定の評価を得ています。しかし私の音楽活動の基盤は竹の創作楽器、あくまでも竹楽器を使った「竹音楽」なのです。

エコロジカルな竹

竹がエコロジカルな素材である事は皆さんもご存知でしょう。竹は草の仲間ですから成長が早く、三ヶ月で親竹と同じ高さにまで成長してしまいます。木が伐採後50〜100年待たないと元の森林に戻らないのに比べれば格段の早さです。最近は竹を素材とした繊維、紙、合板の製造が盛んになり、過剰な森林伐採に少しは歯止めがかかってきました。ただ、この様な工場が建設され稼動しているのは主としてインド、インドネシア、中国、中南米などの低開発地域で、工場廃液などの公害問題は依然として解消されているわけではありませんから、手放しに喜ぶわけにはいきません。しかし、少なからず良い方向に向かっているとは言えます。

南仏に19世紀半ばに移植された大きな竹林公園(昨年は創立150年祭でした)があり、真竹やモウソウ竹など私が必要とする竹材が手に入ると分かり、南仏で竹音楽を始めるに至ったという経緯は既に少しお話ししましたが、地元に生えているエコロジカルな自然の素材から様々な音色の楽器が簡単に作れ、そこから美しい音楽を紡ぎ出す事ができる「竹音楽」の発想は、完成された西洋楽器そして厳密に構築された西洋音楽に慣れた人々の耳にも新鮮に響き共感を得られたのです。また、自分で楽器を作り演奏するというプロセスは子供の総合教育にはぴったりだと教育者達はすぐに関心を示しました。一方これは一寸眉唾ですが、竹の音色は心が休まり、竹楽器の音楽を聴くだけで治療効果があると言明する自然療法の医者もいます。

このように私の提唱する「竹音楽」は、フランスでも受け入れられ、ここ13年間の間に芸術分野だけではなく教育、治療など音楽を巡る他の領域にまで拡大し発展してきたのです。

治療現場

現在テラピー講座を受け持っているのはエドガー・トゥールーズ精神病院、そしてI.M.E(Institut Medical et Educatif:医療・教育学校)以上2つの施設です。

マルセイユ北地区にあるエドガー・トゥールーズ精神病院では、精神科医からの依頼で週一回一時間半程の即興演奏を患者達と続けています。病棟の多目的広間にディアトニック音階の竹マリンバを円形に並べ、患者や看護師たちが自由に参加出来るシステムです。毎回5〜10人ぐらいが参加し、 即興でリズムに乗ったり、音を通じて他人とコミュニケーションすることを目標にしています。 即興演奏中に患者が作り出したメロディ?やリズムを私が即座に模倣したり、こちらから新しいリズムを仕掛けたりすると患者が察知して、それまで一生懸命演奏していた竹マリンバの鍵盤から目を上げ私の目を見てニコッと微笑み演奏をつづけます。そんなときには、彼等が精神病の患者である事などすっかり忘れてしまいます。

実際、このような竹楽器音楽講座にどれほどの治療効果があるかはまだ未知数です。しかし担当精神科医は、確かに効果は上がっていると保証し激励してくれますし、患者達が毎回の音楽講座に期待して参加しているという事実が、既に好ましい兆候と言えるようです。

I.M.Eは、マルセイユの南、サン・ルー地区にある落ちこぼれの子供達の特別施設。一般中学、高校の落ちこぼれクラスからも更に落ちこぼれてしまった社会適応能力の極めて低い13歳〜18歳、思春期の子供達が通う学校です。

一般学内の落ちこぼれクラスの子供達は何度も経験していて、私なりに指導方法は心得ているのですが、この施設の子供達にはそれも適用できません。1、2、3、4と頭の中で数を数えながら両手のバチを動かして打楽器を叩く事すら困難な子供もいるのです。毎回講座後に子供ひとりひとりを対象にして、彼等がどうだったか、進歩の兆候が見られたかどうかなど心理学者と分析し話し合いながら、次回の講座の糧とすべく根気よく方法を探っています。

I.R.T.S 特殊教育者

4年前から I.R.T.S という特殊教育者養成学校の学生達にも授業をしています。特殊教育者(Educateur Specialise)とは、身体障害者や精神障害者、アルツハイマーの患者、あるいは落ちこぼれの子供の教育を精神科医、精神分析医、心理学者、看護師達と協力して行なう、いわゆる学校の先生とは全く違った、言ってみれば上級介護士といった分野の人たちです。

12~3人の学生達が私のフリッシュのアトリエに通って来ます。 彼等は竹楽器の作り方、即興演奏、簡単な合奏方法を2~3週間の間ぶっ通しで学びます。もちろん最終日には学校の講堂で演奏発表会をして終わります。

彼等に教えるのは、「音楽は誰にもできるコミュニケーションの道具だ」というその一言です。音楽を聴く事は好きだけれど、子供の頃に味わった「厭楽教育」で音楽をすることから縁遠くなり、オタマジャクシを見ると嫌悪感を催す、、、という人が大半です。その意味ではフランスも日本の状況とあまり変わりありません。いや、日本はヨーロッパの音楽教育の弊害をそれと知らずにそのまま輸入してしまったのかもしれません。私の授業は、音楽の専門家でない特殊教育者、つまり普通の人も「豊かなコミュニケーションの道具としての音楽」を使うことができる!という事を発見し習得し、いずれ実践に役立ててもらうのが目的です。

一般竹音楽授業

もちろん普通の小学校、中学校、高校から竹音楽授業を頼まれる事もしばしばあります。フランスの小学校には音楽の授業が無く、従って音楽の先生は居ません。ところが、音楽が小学生の教育に必要だという認識を持つ教師は多く、担任教師のできる範囲で童謡を歌ったり、時には私の様な音楽家を学内に招いて音楽授業を実施することになります。

方や、中学校には音楽の専門教師がいて音楽の時間がありますが、授業は週一時間しかありません。私が中学校で学内授業を頼まれる時は必ず週二時間を要求します。なぜなら週一時間では授業の成果が期待できないからです。三ヶ月の間、音楽の時間の前、あるいはすぐ後の一時間は何処かの科目の授業をつぶす事になります。これは音楽の先生がイニシャティブをとり、校長と別の科目の教師と相談して獲得します。しかし、この様に教師の采配で授業内容を変更する事ができる、そういう自由が各教師に与えられている、、、というのもさすがフランスです。

音楽クラブ活動

お昼休みの課外授業、クラブ活動を奨励しているある中学校を五年間に渡って教えた事もあります。この中学は、学期末に市内の大きな劇場を借り切って各クラブ活動の発表会をします。つまり劇場の照明や音響技術者スタッフも駆り出す大掛かりな学芸会です。演劇、ダンス、コーラスなどの発表に混じって竹音楽のコンサートも行なわれます。観客は生徒の両親家族、友人たちで客席は身内的な盛り上がりに過ぎませんが、人前で発表するという最終目標を設定する事で子供達にも励みが出、教育的効果は悪くありません。

一つの学校で五年間も教えると、最初は中学一年生のまだあどけなかった子供が大きくなり卒業するまで付き合う事になります。そんな子供が街ですれ違い様「Makoto!」と親しげに声をかけてくるのはほのぼのと心温まるものです。とはいえ背が高く大人びた顔が誰だか判別出来なかったり、すぐには名前を思い出せません。「xx中学校で竹楽器を演奏したooだよ、覚えてる?あの頃のことは楽しい思い出でだった、ありがとう!」と懐かしそうに語ってくれるのはやはり嬉しいものです。

もちろん移民達が多く住むいわゆるカルチエ・ショウ(熱い地区)、カルチエ・サンシーブル(繊細な地区)と称される地区にある学校の音楽授業もずいぶんやりました。恵まれない子供達を受け持っている情熱的な教師から音楽授業を頼まれると、いやとは言えません。子供達を導いて良い結果を出すためには数ヶ月の真剣勝負、エネルギーを使い果たしてしまいます。 私も寄る年波?で少々息切れ気味、 最近はできればこの手の仕事は遠慮したい心境です。

カミーユとチボー

一年程前、風采の上がらない青年がアトリエを訪ねてきました。フランス人には珍しく一見ネクラで無口。彼はI.R.T.S特殊教育者養成学校に通う学生で名前はチボー。私の授業を受けた事は無く、ただ学内で私の音楽授業の評判を聞いてやってきたのでした。彼は学校に通うと同時に障害者の施設で既に仕事を始めていて、彼が担当している車椅子の障害者をアトリエに連れて来たいのだが、、、という要望でした。当然私は一も二もなくOKしました。

彼が連れて来たのはカミーユ26歳、 重度の障害者の女性 。私は一寸どぎまぎしました。 打楽器は誰でもすぐに叩けて参加出来るというメリットがあるけれど、少なくとも片手は動かせないと一緒に演奏を楽しむ事もできない。 カミーユは歩行が困難なばかりか両手も麻痺していてバチを取り落としてしまう。また会話も成りたたない。介護者の言う事は多少理解しているようだがそれ以上ではない。「音楽はすべての人が共有出来る」はず??という私の信念も、 この場合にはなす術がない。チボーの言うには、彼女はスプーンを持つ事が出来る。つまり欲求があれば障害を克服している場面があるから、もし音楽に興味を持てばバチを手にして演奏できるかもしれない、、、と言うのだ。彼の粘り強さには敬服するが、私は正直いって奇跡を期待できるものか半信半疑である。

アトリエにいる二時間の間、チボーは一時間カミーユに逐一説明しながら竹楽器を作って見せる。のこぎりで竹を切る時には手を添えさせ、切る感触をカミーユに伝えようとする。チボーは20代前半の若者だが、障害者の介護者、教育者としては完璧である。そして残る一時間は彼女の前に楽器を並べ、私とチボーが脇で即興演奏をし彼女が反応し何かを始めるのを待つ。彼女は時々興奮して歓喜の表情を見せるが、 一年が経過した今になっても、 残念ながら彼女が自分からバチを手にして叩こうという仕草を見せたことはない。ただ、帰る時間になるといつもダダをこねるから、私には無駄な時間だったのではと思われる二時間も、彼女にとっては十分に意義があったのかもしれない。だから結果がすぐにあらわれなくても即断は禁物だとは承知している。

ところで、チボーはコンセルヴァトワールにも通っている生徒で、既に打楽器奏者としても仕事ができる程の腕を持っていると、後に打楽器科の先生から知らされた。(もちろん私も彼の即興演奏を見て、うすうすは気付いていたのだが、、、)障害者の車椅子を押してアトリエに現れた時はそんな事はおくびにも出さなかった。また彼の父親は隣のヴァール県トゥーロン・コンセルヴァトワールのオーボエの先生で、昨年夏私はオペラ座の作品で顔を合わせた。つまり彼は音楽家として十分生活が成り立たつ環境にいながら、あえて特殊教育者の道を選んでいる。

自分の獲得した音楽技術をひけらかしたり、その技術を利用して金を稼ごうとするのではなく、自分の音楽の才能をいかにして人々と共有し社会に還元出来るだろうかと模索している、こういう青年も世の中には居るのです。

現在「竹音楽」が国境を越え、人種や言語を越え、また芸術音楽という垣根も越え、

人間関係、社会に直接コミットできている事を嬉しく思うと同時に、「竹音楽」を言い出した張本人の私には、この仕事をもっともっと先に進め、また広めるべき責任と任務があるのだと、あらためて気持ちが引き締まるのです。

 


フランス便り No.4
年の瀬のフランス               矢吹 誠 (高22回)

ここ年末に来ていろいろな面白い話題が噴出、どうやら今回は時事的な話しに終始しそうです。

・おまわりさんのデモ

しょっちゅうデモ行進があるフランス、先先週は何とマルセイユでLes Policiers(おまわりさん)のデモがありました。そして先週は消防士達が全国からパリに一万人集結し大行進、あげくの果ては機動隊ともみ合い多数のケガ人まで出ました。消防士達も過激です。テレビの報道番組で流された機動隊の黒ヘルメットと消防士達の輝く銀色のヘルメットの戦いは、さしずめ中世の騎士達の戦いを彷彿させ、なかなか見物でした。フランスのデモ行進は通常和気あいあいと平穏で、ケガ人まで出すもみ合いは珍しいのですが、腕力に自信のある若い消防士は意気盛んだったのでしょう。

マルセイユのおまわりさん達のデモ行進の要求は、「治安が悪すぎ、これでは危なくって仕事ができない、何とか治安を改善してくれ」というもの。私は思わず笑ってしまいましたが、警察官達は本気でこういう要求を掲げてデモ行進をするのです。これがフランス!フランスでは治安が悪化している、、、という話しは既に何度もお伝えしていますが、治安を維持するのが警察官の仕事であり、ある程度危険が伴う事を承知で就業しているはずなのに、彼等も一市民、一民衆であるという認識が先にあり、安全に仕事ができる条件を整えてくれ!と政府や自治体に要求するのです。確かに、シテ(公営低家賃アパート地区)などで巡回の警察官が襲われたりするので、おまわりさん達も怖くて近寄らないという話しも聞きます。

昨日は、パリのサッカーグループPSGのサポーターである極右の若者達百人あまりが、試合終了後スタジアムの外で暴徒化しユダヤ人を襲い、それをかばい阻止しようとした警察官も襲われ、ついに警官が発砲し、若者一人が射殺されもう一人が重体です。なぜあらかじめ威嚇射撃をせずに相手に向かって発砲したのか?という公務の行き過ぎを指摘する声も出ていますが、メディアの大勢は発砲した警官を正当と見なし、暴徒化する若者達をどう取り締まりどのように導くのかという議論になっています。警官も確かに命がけです。

消防士達のデモの要求は待遇改善でした。まず「定年退職の年齢60歳を55歳に引き下げろ」そして「災害時の人身の救出など危険時の出動に対して特別手当を支給しろ」。消防士の仕事も常に危険が伴い、また肉体的に高年齢には仕事がきつい、、、というのも判らなくはないのですが、消防士だけに特権を与えるわけにもいかないでしょうから、はたして政府もどのように対応するのでしょうか。

この国ではいわゆる公務員、日本的に考えればお上の側に居ると思われる人たちにも必ず組合組織があり、他の職業と同等に、そして普通の市民と同じ様に要求を掲げデモ行進をする、これがフランスなのです。

・ロワイヤル旋風

さて、11月中旬からのメディアの話題は、党員の60%以上もの圧倒的支持を得て社会党大統領候補に選ばれた四児の母、セゴレーヌ・ロワイヤル女史53歳。テレビは連日彼女の生い立ち(アフリカはセネガル生まれ)にまで遡る特別番組、女性政治家を集め「女性と政治」をテーマにした討論番組、文化人有識者達による討論会などなど、また各種情報誌の表紙は彼女の笑顔一色です。またまた政治の話しで申し訳ありませんが、フランスでは政治はひどく日常的な話題なのです。また今回のロワイヤル旋風は、単にゴシップ的にメディアが話題にしているのではなく、来年の大統領選という今後のフランスの動向を左右する極めて真剣な内容なのです。

今回の盛り上がりの背景には、彼女の人となりだけでなく様々な要因があります。フランスは右派と左派の支持者が相半ばし、政治権力が右と左に振り子の様に揺れ動き、その揺れをうまく利用しバランスをとりながら社会が前進して来ました。ところが前回2002年の大統領選挙では、左派社会党が完敗。選挙結果は、一位右派第一党UMPのジャック・シラク氏。第二位は、移民を追い出せと唱える極右ジャンマリー・ルペン氏。そして元首相の社会党リオネル・ジョスパン氏は何と第三位に転落したのです。当時も移民問題は深刻で危機感が蔓延し、多くの人々がルペン氏に投票してしまうという世相でした。しかし決選投票では、社会党支持者も含め圧倒的多数がシラク氏に投票し、危うくフランス大統領が極右政党という難は逃れました。

その後の成り行きは前号でも既にお話した様に、右派政権の文化福祉予算の削減、治安維持の為の予算拡大と、私たち芸術文化に携わる人間達には冬の時代が続きました。今回彗星のごとく現れた大統領候補、若く優雅で微笑を絶やさない53歳のセゴレーヌは、そんなちょっと落ち目だった左派社会党の世代交代を担うまさに新風、それも四児の母!

女性の大臣、昨今別に珍しくはありません。ミッテラン大統領時代の首相、しかしいまいち評判芳しくなく早々に退陣したクレッソン女史もいました。現在の右派ドビルパン内閣でも複数の女性大臣が政権を担当し、国防相までもが女性です。革命記念日など、大切なセレモニーで女性大臣が颯爽と厳つい軍人達を謁見し激励するのは、はじめはちょっと違和感がありましたが見慣れるとなかなか良いものです。

ところが今回のロワイヤル旋風は些か違っています。単に女性政治家というカテゴリー、話題性ではないのです。というのは、今までの女性政治家はどちらかというと古いタイプのフェミニズム、つまり男勝りの毅然とした態度が売り物でした。それに比べセゴレーヌは、女性である事を隠さずそのままの自然体という新しいイメージ。ミッテラン大統領のもとで環境大臣を務めた1990年代初頭、任期中に4人目の子供を妊娠し、大きなおなかを抱えながら登庁。また出産直後も、病室で赤ん坊を抱く幸せな普通の母親という女性的なイメージをメディアに披露したのでした。もちろん政治家ですから毅然としていますが、何事にも眉を曇らす事無く、ジャーナリストの意地の悪い突っ込みにもいつも笑顔を絶やさない、しかし答弁は明快というしたたかさです。

方や右派の大統領最有力候補、現政権で内相を務めるニコラ・サッコジ氏51歳。(Sarkozyだけど、皆サッコジと発音している)小柄な体ながら鋭い目つき、身振りを交えた過激なもの言い、そして決断力と実行力。だから彼の支持者も多い。そんな強者に対抗できるのは、もはや古いおじさん臭い政治家ではない。社会党がセゴレーヌを圧倒的多数で候補に立てたのは適切な選択と言えるでしょう。

フランスに女性大統領誕生!となれば、それだけで十分感激的ですが、やはり今のフランスに求められているのは子供の将来、家庭、人間関係に重きを置く女性的な視点からの政治ではないかと思うのです。幼児虐待、極右サッカー・サポーターの人種差別、暴力、そして移民の若者達の暴動。それに対し、若者達を「社会の屑」呼ばわりし、怖い顔をして取り締まりを強化し攻撃的に出る政府。いかにも社会が殺伐としています。お互いをいたわり合う人間関係が不足している。

セゴレーヌは環境相の後、児童・家族相も経験し、福祉関係には強い。しかし、経済相、内相など重要なポスト経験が無いから、政治家としての経験の浅さを指摘する声もあります。セゴレーヌが今後提案するであろう具体的政策内容も重要ですが、それだけでなく、彼女の存在、女性的な大統領の存在がある意味で民衆の気持ちを和らげ纏めることが出来るのではないかという精神的な側面も人々は期待しているのです。もちろん彼女は政治家ですからそんな曖昧な精神論を語ったりはしないけれど、フランス国民の少なくとも半数は彼女の笑顔の中に、そんな新しい政治のあり方を期待していると思えるのです。

来年四月の大統領選、セゴ対サッコの戦いは本当にフランスの将来を左右する事になるでしょう。フランス国民が一体どういう結論を出すのか、、、果たして国家権力が怖い顔をして取り締まりを強化する方向にますます傾くのか、あるいは対話や文化福祉政策によって貧富の差を縮める事で改善する方向に向かうのか、です。

・ル・ノエル

もう、早くも年末。ノエル( Noel:クリスマス)の時期が近づいてきました。

マルセイユの名物は、12月になると目抜き通りに何十件も軒を連ねるサントン人形の仮設販売店。 工芸製作者アルチザンが、それぞれ独自の趣向で腕を競うのです。 日本で言ったら、丁度年末の「しめ縄市」といった様相でしょうか。

サントン人形は、南仏プロヴァンスが発祥の地で、最近は全国にも広がっているノエルの飾り付けの一つです。20~30センチ高の素焼きの人形に彩色を施したり衣装を着せたり、手に持つ小道具類にもなかなか凝っています。もちろんクリスマスですから生誕するジェズ(キリスト)を中心に母マリー、キリストの生誕を知って祝いに駆けつけた東方の三博士、、、などなど、聖書の逸話にのっ取って立体絵巻物が展開されるのが基本ですが、どちらかと言えばその周辺に飾付けられる一般の人々の仕事姿を描写した人形たちが面白いのです。

 

漁師、左官、大工、パン屋、商人等々、それぞれの道具を手にプロヴァンスの日常を彷彿させる人形が生き生きとしたポーズで描かれる。教会の一角には大きな箱庭が設えられ、機械仕掛けで小さな人形達が動いたりと、子供だけでなく大人も童心に返ってほのぼのと見つめてしまう心温まるものです。 民衆の生活と宗教が一体になったサントン人形の風景は、実にクリスマスには相応しい。

サントン人形は12月に入ると飾り始めます。ところが中央に飾るジェズだけはとっておいて、25日になって初めて安置するのです。プロヴァンスの風景と民衆の生活、その中央の欠けていたところに幼子のキリストが置かれ世界が完成する、、、こんな儀式的演出もなかなか優れていると思います。

フランスはカトリック、旧教のキリスト教徒が多数を占める社会。とはいえ、昨今は熱心な信者は限られます。マルセイユ市内にある幾つもの教会は歴史的建物として大切に保存され修復も頻繁に行なわれてはいても、実際に日曜のミサにどれほどの人が列席しているかといえば、数は本当に一握りです。ローマのバチカンには世界中から多くの巡礼者が訪れ、法王の動向はメディアで取り上げられても、フランス各地の教会は閑古鳥が鳴いています。日本人が神社や仏閣に年に一度参拝するのと同じ様に、クリスマスの時期になると思い出した様にツリーを飾りサントン人形を並べ、教会のミサに行くという家庭も多いのです。

キリスト教の下地の無い日本のクリスマスは、子供の為の贈り物とお正月に向けた前祝いの様相が大ですが、フランスではサントン人形の風習、各地の教会で催される宗教曲のコンサートなど少なからず厳粛な趣が残っています。しかし最近の消費社会の波には抗しようもありません。11月の初旬から大手のスーパーマーケットはノエルを当て込み、こどものおもちゃを満載したカタログを各家庭の郵便受けに配り、 赤い衣装に白いひげの人形が街の至る所でバルコニーやビルの壁をよじ上っています。キリスト教の国フランスでも、ノエルの主役がジェズ・クリ(キリスト)からパパ・ノエル(サンタクロース)に移ってしまったのは確かです。

 

我が家でも、娘が小さい頃は食堂の脇にある腰高の食器棚の上に、 ああでも無いこうでもないと、家族そろってわいわい騒ぎながら小さなサントン人形の飾り付けを楽しんだものです。箱庭には川を描き橋を掛けたり、厚紙で作った風車小屋を立てたり、子供にとっては意味のある創造的な作業です。しかし娘も高校生になると、そんなノエルのひと時も過去のものとなってしまいましたが、、、。 

 


フランス便り No.3
デモクラシーと個人主義          矢吹 誠 (高22回)

・移民問題
最初に、ちょっと時事的な話しをさせて下さい。
昨年秋、都市郊外に住む若者達の暴動がありました。その一周年にあたる数日前、ついに私の住んでいるマルセイユで若者達がバスに放火し、医学生の女性が全身火傷で重体です。いままで何百台もの車が放火されても幸い人的被害は出ていなかった。それに昨年軒並み各都市で暴動が発生した時も、大規模な暴動が起こってもおかしくない人種の坩堝であるマルセイユだけは、何故か平穏だったのです。それが今回の事件、本当に残念です。

放火した5人の若者は検挙されましたが、底辺には複雑な問題が横たわっています。 取り締まりを強化する政策に対して、恵まれない貧しい移民の若者達はより反発を強めています。パトロールを増やす事で治安を維持できるのか?それだけでは移民問題の抜本的解決にはなりません。かといって文化、福祉政策だけで移民問題が解消できるとは言いきれないのですが、ここ数年来、その方面の予算を削減してきたのはあきらかに失敗だと思います。

移民の子供達の問題は家庭環境にあります。両親がフランスに職を求めてやってきても、まず出身国でちゃんと教育を受けていませんから、読み書きが出来ないし手に職もない。単純労働に従事するしかない。フランスは景気が良いわけではありませんから不安定な労働条件、そして失業。後は生活保護を受けて細々と生活していく事になります。親が何をしているのか良くわからないそんな家庭では、子供達の教育は期待できません。低所得者達の為に、行政は郊外に低家賃の大きな集合住宅シテ(Cite)を建設します。そんな環境では自ずと不良グループが醸成し、行き場の無い若者達は街頭で車に放火したり鬱憤をはらす事になるのです。

私は、しばしばそんな若者達の予備軍である子供達にも音楽を教えています。シテの中には文化施設や福祉施設があり、そこで音楽の講座を頼まれます。また、落ちこぼれクラスの特別音楽授業も担当します。恵まれない子供達を相手にする時は音楽を教えるというよりも、合奏形態を利用してお互いを理解したり尊重する教育をすることになります。彼等にやる気を起こさせたり、合奏の面白さ(協調する喜び)を理解させるこの仕事は、大変なエネルギーを要します。

数ヶ月の授業を経て学期末には聴衆の前で発表コンサートをします。最初は箸にも棒にも掛からなかった子供達が、数ヶ月後には緊張して聴衆の前で演奏し、大きな拍手を受けます。彼等は生まれてこの方、怒鳴られたり馬鹿にされる事はあっても、何かを成し遂げたり、褒められた経験がありません。家庭が、そして社会が自分を必要とはしていないと考えています。ですから、聴衆の前で協力して一つの事を成し遂げ、拍手喝采を浴びた子供達の満面の笑みは、 心の中にやっと僅かな自尊心が芽生えたことの証なのです。
そんな芸術文化活動に対する助成金が減り、あげくは福祉施設の人員削減にまで及べば、恵まれない子供達への救いの手が、また一つ減ってしまうのです。


・デモ行進
さて、前回芸術家の住み心地の話しの中で、「もし危機的な状況になれば、みんなでデモ行進をすれば法案は通らない、、、」と言いました。実際、私たちアンターミトンの資格のある芸術家達、そして芸術家支援者達が全国で一斉にデモ行進をし、何回も政府の方針改正を阻止してきました。もちろん大切な場面では日本人の私もデモに参加します。いちどは文化省の出先機関D.R.A.Cで、アソシエーション(Association /非営利協会組織)の公演プロデュース権を縮小する議題の会議があると聞きつけ、それは大変と当日門前で大挙してピケを張りました。アソシエーションはアンターミトン芸術家達の活動の基盤ですから、公演をオーガナイズする協会の権利を剥奪すれば勢いアンターミトンの資格を持った芸術家の数も減り、失業手当の支出額を減らす事ができる、、、という理屈だったのです。幸いピケの結果会議は延期となり、その議題は1年以上経った今でも音沙汰がありません。

私は特別政治に関心があるというのではなく、実はフランスの政権が右でも左でもどちらでも構わないのですが、政権担当者が替わると予算配分が変わり直接私たちの活動に影響しますから、不可避的に関心を持たざるを得ないというのが本音です。以前の社会党内閣時代でも、文化省の担当大臣が替わるたびに政策ががらりと変わってしまい、決しておちおちしてはいられないのです。

・若年者雇用制度
おそらく日本の皆さんも、以下の話しはご記憶に新しいのではないかと思います。
昨年、「 C.P.E 」( 若年者雇用制度 /Contrat Premiere Embauche)という法律が高校生のデモで撤回されました。国会を通過し、あとは大統領が合法的にサインするだけという最終段階で、高校生、学生、労働組合、 社会党、 そして一般市民のデモ行進とストライキで廃案に追い込まれてしまったのです。

若年者雇用制度の趣旨は、26歳以下の若者を雇う場合には、二年間以内なら理由を明示せずとも解雇できるという内容が含まれるもので、 それによって企業の雇用意欲を促進させ失業者を減らそうとの政策だったのです。ところが、そんな労働者の権利を無視した法律は容認できないと就業予備軍高校生を中心に反対意見が噴出したのでした。フランスは社会福祉制度が行き届き、労働者の権利が確実に守られています。一方企業側にしてみれば、一旦ひとを雇うと人材に問題があっても解雇するのに大変な手間とお金と時間が掛かる。ですから雇用側は慎重になり、雇用が停滞しているという現実側面もあるのです。

国会を通過した法律が廃案になってしまうというのは確かに珍しいことですが、フランスではそういう事態が起こり得る。当時日本の朝日新聞のコラムが、フランスのデモ行進がまるでカーニバルの行列の様に楽しそうな様子を評価しながらも「重要政策が街角の意見で揺らぐ風土も健全といえるのか?」、、、とうがった様な批評をしていました。しかし、街角の飲み屋で交わされた愚痴の類いが法律をストップしたのではないのです。街角は街角でも、フランスのすべての主要都市で数百万人がデモ行進を繰り広げた結果、大統領も考慮せざるを得なかったというわけなのです。こんな民主的な状況のどこが不健全なのでしょう?

直接生活が掛かっている!という個人的理由もさることながら、私は「文化・芸術」が社会を、そして人々を豊かにするという基本的な考えですから、どちらかと言えば文化芸術により理解を示す左派政党を支持します。しかし、一方で右派政党の政治家たちも人間として十分に信頼できるから不思議です。それは、フランス社会が抱えている課題に対して、政治家一人一人が自分の意見を持ち、それを実行しようとしているのが手に取る様に見えるからです。

政権担当者はたびたびテレビに登場します。路上での記者によるインタビュー、報道番組のゲスト、そして討論会。彼等はジャーナリストの質問に真摯に答え、はっきり自分の考えを述べます。 若年者雇用制度の様に世論が分かれる様な場合、大臣達はテレビ番組の度重なる討論会に出席し、高校生達と差しで議論を戦わせたのです。一方、フランスのジャーナリスト。彼女等(最近は女性が多い)は首相だろうと大臣だろうと曖昧な発言に対しては容赦なく切り込んで行きます。この様なジャーナリストの言論の自由、報道の自由を最大限尊重する風土もフランスならではのものです。報道の自由で思い出しましたが、カナル・プリュスという4チャンネルで夕方放送されているギニョール・デュ・ランフォという番組があります。そこではフランスの現役の大統領、首相、大臣をはじめとして馴染みの政治家および有名人の顔を戯画的に誇張した愉快な人形達が、優れた声帯模写により御ふざけ会話をするのです。日本だったら政治家本人が怒り出すか、政治を茶化すのは不謹慎とテレビ局自体で自主規制してしまうでしょうね。


・デモクラシーと個人主義
今回は自由、平等、博愛を旗頭に掲げる国家フランスのデモクラシー(Democratie : 民主主義あるいは民主政治)というちょっと堅い話題で恐縮ですが、さすがフランス社会ではデモクラシーが成り立っているな~と実感します。 それは1789年フランス革命以来の伝統と言ってしまえば実も蓋も無いのですが、民衆、国民に主権があり、個人ひとりひとりの意見を尊重しそれが政治に反映されるというデモクラシーが成立する基盤、その前提にあるのは何といっても個人主義 (Individualisme)です。個人の自由を尊重し、他人の自由も尊重する人間関係。ひとりひとりが自分の意見を持ち、社会的な自由と責任を果たしながら社会や国家を構成し運営してゆくのがデモクラシーですから、ただ制度的に自由が保障されていても、そこに暮らす国民ひとりひとりが個人主義の基盤に立っていないと本当の民主主義、民主政治は機能しないのです。しかし一方で個人主義というのは、社会的な責任という側面をないがしろにすれば利己主義、つまり「自分勝手」と紙一重ですからなかなか難しいものがあります。 フランス社会を構成するのは、個人主義が内包する自由と責任の双方を認識している人ばかりとは限りませんから。
大局的な話しはこれくらいにして、卑近なお話をしましょう。

例えば人々が集まって会議をします。フランス人は普段でも世間話が好きでおしゃべりですが、会議の場でも相変わらずおしゃべりです。特に南のフランス人はラテン系で、スペイン人、イタリア人と並びおしゃべりです。果たして無口なフランス人なんて居るんだろうか?というのは冗談ですが、滅多にお目にかかりません。しゃべる事が存在の証。会議の場で発言しなかったらその人はそこに居ないに等しい、、、だから時々深く考えもしないで発言します。それは自分がそこに居るという意思表示なのです。そして、そんな風ですから皆が皆自分の意見に責任を取るかというと、そうではありません。基本的にしゃべる事と実行する事は別なのです。

皆が、ああでもないこうでもないと一通りしゃべり終わるのを待たなければなりませんから、会議にはとても時間がかかり効率はあまり良いとは言えません。でもとにかく民主的である事は確かです。人々はヒエラルキーや年齢の上下に関係なく対等に意見を述べます。結局最終的には、現実的でそれを実行する力があり責任を取る人の意見に大勢が従うという結果になり、ヒエラルキーが主動する日本的な会議と結果的にはあまり違わないのですが、プロセスは大いに異なっています。

ちょっと個人主義の話しからは脱線しますが、フランス人のおしゃべりという文脈では、こんな事もあります。
フランス人はすぐに音を上げます。少しでも困難な場面に遭遇すると、「あ、だめ、出来ない、、、無理!」とまずく口が先に突いて出ます。けれど、ほんとに音を上げて諦めてしまったのかと思うと実はそうではないのです。大抵はそう言った後でまた試してみるか、よく考えてまた実行するのです。私たち日本人は、感じた事をすぐに口に出すのは軽率で恥ずかしい事だという先入観があります。困難に遭遇したときも、出来るか出来ないか良く判断してから発言しようとします。ところが頭の中では「あ、だめ、 出来ない、、、無理!」とそのとき咄嗟に考えている事がありますよね。ただ日本人はそれをじっと我慢して口には出さない。フランス人は意見の表明として考えた事をすぐに口に出してしまうのです。

・個人主義と紙一重の自分勝手
個人主義と、公務員根性を併せ持った人たちにはかないません。長い列が出来ていようと、おかまいなくマイペースで仕事を続ける郵便局員。 客が10人並んでいようが1000人並んでいようが、彼等は全く臆すことなくのんびり仕事を続けます。 昼近くになると、ガラスの仕切りの向こうでは昼飯はどこで食べようかとか同僚と話し込んでいるのです。「こちとらはずっと列を作って待ってんだから、少しは急いで処理する素振りぐらいみせたらどうだ!」と 怒り心頭に発してしまいます。 その上、12時になったらきっかり「はい終わり」とばかりに窓口は閉められてしまい、昼休みはきっちり二時間、午後二時までは待たされるはめになるのですから。

また、ゴミを平気で道端に捨てるフランス人。交差点で止まった私の前の高級車の窓がするすると開き、やおら手が水平に伸び手には灰皿が。そのまま道に灰皿を裏返し、 何事も無かったかの様に窓はスーと閉まり車は発車する。あっけにとられる様なそんな場面に出くわす事もあります。それが、フランス文化に馴染みの無い移民ならいざ知らず、明らかに上流階級の人たちだったりするのです。
そんな人たちに公衆のモラルを説いても始まりません。彼等は言うでしょう。「何が悪い、道路掃除の人に仕事を与えてあげているんだ」、と。

これは数日前、私の妻から聞いたはなしですが、、、
妻が仕事に出掛けようと、早朝家の近くの路地を車で抜けようとしていた時の事です。狭い道の両脇には個人主義的(自分勝手)に至る所に違法駐車していますから、二台の車がすれ違うのもひどく困難な場合があります。少し余裕のある場所を見つけ対向車が通過できる様に何とか自分の車を寄せたのだそうです。どこも凹んでいない新車を颯爽と運転する、 身だしなみのきちんとした中年の女性が、すれ違い様窓越しに「 優先権は私にあるのよ、 Conasse!」と言葉をあびせて去って行き、妻は全く予期しなかったその言動に開いた口が塞がらなかったそうです。

教養のある人は、 普通こんな下品な言葉は使いません。コナス Conasse! は辞書では「馬鹿な女」と訳されていますが、本当は日本語にするのもはばかる様なもっと卑猥な意味です。60年代ゴダールの映画「ウイークエンド」の冒頭で、車でバカンスに出掛けようとしている気取ったブルジョワ夫妻が、些細な事で隣人と喧嘩になり、隣人に下品な罵詈雑言を次から次へと浴びせるのを思い出しました。あげくの果てに隣人は猟銃を持ち出し、ふたりは慌てて車に飛び乗り走り去るという、、、これはゴダール流のカリカチュアですが、現実にも存在するから驚きです。しかし、この様に平気で人をののしる事が出来る自由もフランスならではの個人主義といえるかもしれません。

フランスの個人主義が民主政治を支えているという積極的に評価できる側面。そして個人主義をはき違えた自分勝手も横行している否定的な現実。そして、そんな社会に外から大量の移民達の流入。右も左も、この国を運営する政治家には卓越した手腕が要求されます。フランスは、E.Uの拡大とそれに反する民衆の及び腰、混乱する中近東、アフリカとの外交、移民問題、、、数々の課題を抱えながらも、自由、平等、博愛の三色旗を堅持し、デモクラシーの民主政治を貫き、文化芸術を尊重し他国の模範となる福祉国家を作ろうと苦悩している、、、私はこの国のそんな前向きな姿勢が好きです。

フランス便り No.2
続・芸術家の住み心地             矢吹 誠 (高22回)

私のアトリエはマルセイユ市中心部、文化施設「フリッシュ」の中にあります。
皆さんご存知華の都パリからですと、リヨン駅でTGVに乗りひたすら三時間、南へ南へと下る、、、すると線路は地中海に突きあたりその先は海、そこが終点南仏マルセイユ。
昔、長距離旅客機の無かった時代には、永井荷風など昭和初期の文豪達は南回りの船でスエズ運河を通り三ヶ月掛かってマルセイユに入港し、汽車に乗り換え北上しパリにたどり着いたとか、、、。

フリッシュはそんなノスタルジーな香りも漂うサン・シャール駅から徒歩8分、車で2分。 漁師達が獲りたての魚を売る朝市で賑わう旧港や繁華街の目抜き通りとは逆方向ですが、 街の中心地区である事に変わりありません。
正式名称は「La Friche la Belle de Mai」。日本語にすると「 五月の美しき乙女の廃墟」?!と、何ともシュールでわけが分かりませんが、ラ・ベル・ドゥ・メ( 五月の美しき乙女 ) とはこの第三区一帯の古くからの粋な地名で、ラ・フリッシュ(廃墟)とはここが旧タバコ工場の廃屋だったからです。
1980年代に閉鎖になったフランスたばこ公社の跡地と建物を、1991年、半ば不法占拠する形で始まった芸術家達のアトリエ群「フリッシュ」。現在では公的に認められた巨大な文化施設に変貌しました。何ヘクタールもある広大な敷地内には、かつて青い箱のゴロワーズなど懐かしいフランス煙草を製造していた工場の廃屋だけでなく、石やレンガで積み上げられた何棟もの堅牢な美しい建物が点在しています。

そこで、数年前に国と市がヨーロッパ地中海計画の一環としてタバコ公社から買い上げ、建物の外観を残して改修し、一部は国の文化財修復施設として生まれ変わりました。例えばルーブル美術館所蔵の絵画をここへ移送し修復しています。中央部分の建物群は、映画やメディア産業を起こす目的で撮影スタジオが建設され、映画・テレビ会社が入りました。マルセイユ独自のテレビ局LCMが開局し、FR3チャンネル全国ネットで放映され始めた南仏情緒のある連続テレビドラマ「Plus Belle la Vie」もここで撮影されています。

そして道を挟んだ向かい側、第三の建物群がマルセイユの芸術家達が使い始めた元々のフリッシュ。 私たちの建物の改修は市が担当、しかし予定は遅れまだ工事半ばです。 ここに300人もの個人芸術家、そしてグループがアトリエや事務所を構えエネルギッシュに仕事をしています。画家、彫刻家、音楽家、劇団、ダンスグループ、FMラジオ局、演劇・音楽プロデュース組織、、、そしてレストランもあります。

さて今回は、フランスでの芸術家の「制度的、物質的な住み心地」についての話しですが、まずは私の仕事場であるアトリエの紹介から始めます。

・Bamboo Orchestraのアトリエ
天井の高さ5m、 床面積 200m2の空間が私のアトリエです。
入り口左手には竹製鍵盤打楽器群がコンサートの舞台と同様に配置され、いつでも演奏家達が来て稽古ができる状態。中央は人々が訪れ談話したり講座に使う空間、中央正面には作業台や工具があり楽器製作スペース、そして右の一角は事務所とその奥が竹材倉庫という具合です。

私がマルセイユに来る二年前からこのフリッシュ芸術家村が始動し、ちょうど運良く私もここで仕事をスタートできました。しかしながら当初は正式メンバー扱いではなく、廃屋の中をあちらこちらと引っ越しを余儀なくされました。巨大な工場ですからだだっ広くスペースはいくらでもあるのですが、ブロックなどを積んで区切るにもお金がかかりますから、 私のアトリエはただ通路の脇にカーテンを吊り仕切っただけという状態が何年も続きました。通りがかりの人達が覗いたり、ひどい時は工具や楽器を盗まれたりもしました。現在では壁面はベニア板製とはいえ入り口の扉にはカギも掛かり防犯アラームも付き、当時に比べれば待遇はかなり改善されたといえます。ところで、このフリッシュは市によって運営されていますからアトリエの家賃はゼロ。光熱費やガードマンの費用など供出金はわずかに払っていますが、マルセイユ市の中心部200m2のアトリエの家賃が何とただ!なのです。

このアトリエで私は、「ピノキオ」のジェペットじいさん、あるいは「こびとの靴屋」の絵本の挿絵のような前掛け姿で楽器の製作、修理が日課です。竹打楽器は割れたり季節の変化ですぐに調律が狂いますから、日々面倒を見ていなければなりません。コンサート用の何台もの竹マリンバだけでなく、子供達のセミプロ・グループ「レ・プッス」(Les Pousses de Bamboo Orchestra:竹の子合奏団)が使う楽器群、学校での竹音楽授業や精神病院のテラピーで使う楽器、そして新たな企画のための楽器作り、創作、、、と楽器の面倒見だけでも休む暇がありません。コンサートの前にはグループの演奏稽古、小中学校のクラスや福祉施設の子供達のアトリエ見学、そして週末土曜日には、午後2時から夜の8時まで子供、大人、4種類の講座があり4~50人の人々がこのアトリエに出入りしています。

・アンターミトン・デュ・スペクタクル
舞台芸術家達の多くはアンターミトン・デュ・スペクタクル(Intermittent du spectacle)という地位にあります。
この制度はいわゆる失業手当の様なものです。例えば月に五日間コンサートの仕事があったとします。そうするとその五日分の手当は削除されるものの、後の25日分一定の支払いを受けられるのです。その額はもちろんコンサートの出演料からすれば低いものですが、毎月一定の収入が保障されるのです。この制度の適用を受けるためには、まず年間何ステージかのコンサートをこなしている芸術家であると認められ、アンターミトンの資格を取得する必要があります。しかし、そういう芸術家失業手当制度がフランスにはあるのです。

この恩恵にあずかっているのは特にスペクタクル・ヴィヴォン(Spectacle vivant:生きている舞台芸術?)に関わる芸術家達です。俳優、音楽家、ダンサー、演出家、振付け師、 照明家、音響家 、衣装家、装置家など舞台関係の芸術家、そして映画監督、映画・テレビのクルー達、サーカスの曲芸師や大道芸人達も含まれます。ですから大方の芸術家はここに含まれるのですが、 残念な事に画家や彫刻家はスペクタクル・ヴィヴォンの範疇には無く、彼等だけは今のところあまり恵まれていないというのが現状です。

・Saison 13(ゼゾン・トレーズ)システム
マルセイユ市はブッシュ・デュ・ロンヌ県(Bouches du Rhone:ローヌ川河口)にあります。そして県の番号は13番。セゾン・トレーズというのはこの県の文化政策の一つで、スペクタクルを小さなコミューン( 市町村 )に紹介するものです。

厚さ3cmはあるA4横長版の分厚いカタログが毎年作られ、県内で制作される演劇やコンサートやサーカスやその他のスペクタクルがそこに網羅されています。それもただ紹介するだけでなく、この中から選択すれば市町村の規模に応じて助成が受けられるのです。

例えばあるグループのコンサートの値段が30万円だとします。人口が2万人以下の町がこのグループを呼ぶためには50%だけ支払えば良いのです。住民が少なければ少ない程助成額が増え、3千500人以下の村であれば何と80パーセントを県が負担、自治体はたったの20パーセントつまり6万円だけ払えばいいのです。

このようにして、芸術パフォーマンスを小さな村でも呼ぶ事ができ、村人も気軽にスペクタクルを鑑賞できるという文化政策です。一方我々にしてみれば、そのおかげで公演回数を増やす事ができるのです。

・芸術助成金
フランスでは、コンサートや演劇の入場料が安い。その代わり劇場やプロデューサーには助成金が支払われている、、、というお話をしました。

国立劇場(これは首都パリだけでなく全国各地にあります)は当然国の税金で直接運営されていますが、それ以外の劇場も*レジョン(Region:地方議会) 、県、市から運営費と制作費を助成されています。また私たちの様な小さな音楽グループにも、申請した企画に対して助成が受けられます。

しかし申し込むグループは多く方や全体予算は限られていますから、助成金を獲得するためには毎年知恵を絞って創作活動の企画を立てなければならず、これも結構大変な作業です。
しかしながら助成の出所は、文化省D.R.A.C(国)、レジョン、県、市と、少なくとも4カ所の可能性があります。また私の場合芸術創作活動だけでなく「竹楽器音楽」を小、中、高校、専門学校等でも教えており、それに対しては教育省から助成が出ます。私の様に教職免許もない外国人音楽家でも、担任教師あるいは音楽教師そして校長が教育的意義を認めれば、学内で音楽授業をする事ができます。その場合学校が直接教育省に申請し、私の授業に対して助成金が支払われるのです。

(*レジョンは、数県を集めた自治組織。日本でいえば関東地方、東北地方、、、という様な単位で、そこが議会と文化予算を持っています。)

以上のことは、 前回お話しした人々の芸術に対する理解度、「精神的住み心地」の話しと当然密接に関連しているのですが、フランスでは制度の面でも芸術家にとってかなり恵まれた環境が整っているといえます。
この様に芸術文化を尊重するフランスの気風は19世紀あるいはもっと昔からの伝統なのかもしれませんが、1968年の五月革命を境にして制度的にも確立されたと言えるでしょう。また、1981~95年の社会党ミッテラン政権による社会福祉文化政策も多いに影響しています。また、私は未だに日本国籍ですから選挙権こそありませんが、フランス人芸術家と全く同等の扱いを受けている、これも驚くべき事です。

ところが 2002年、内閣が右派政権に変わり、私たちにとっては厳しい季節が到来しました。
フランス民衆の関心は、世界の情勢やヨーロッパ・ユニオンEUの先行きよりもまずは身近な問題が優先、筆頭は移民問題です。アフリカ・アラブ系移民が多数流入し治安は悪化しています。
それまでの社会党内閣ははむしろ移民達を受け入れ、社会福祉文化政策を重視する事で治安を良くする、という方向でした。しかし右派政権は違います。移民をなるべく減らし取り締まりを強化する事で治安を改善する、、、とおおざっぱに言えばそういう違いです。
社会福祉や文化芸術に配分されていた予算が大幅にカットされ、警察官を増やすとか治安維持に重点が置かれる様になったのです。当然私たちの活動に影響します。文化助成金は縮小され、特に文化省の地方出先機関であるD.R.A.Cは、今まで芸術家を援助し味方してくれる機関だったのが、逆に芸術家を検閲する機関に変貌してしまいました。
社会福祉施設の活動予算も大きく減らされ、人員削減も現実問題です。また舞台芸術家アンターミトン失業手当の条件もより厳しくなりました。
実際ここ数年一緒に仕事をしたことのある知り合いの演奏家やダンサー達の中で(もちろん彼等はれっきとしたフランス人です)権利を失い路頭に迷っている人を何人も見ています。幸い私はまだかろうじて難を逃れていますが、いつどうなるか、、、戦々恐々です。

そうはいってもフランスに住み仕事をしていて楽しいのは、一人の芸術家、それも私の様な外国人芸術家にとっても、このフランス社会に参加し「生きている」実感があるという事でしょうか?
右派政権により文化予算が削減され、法律が改正されて芸術家の生活条件が以前より厳しくなっても、 やはり芸術文化を大切にするというフランス国家の基本姿勢は変わっていないからです。
そして本当に危機的な状況になれば、みんなでデモ行進をすれば法案は阻止できますし、国会が一旦議決した法律も宙に浮いてしまう、、、という直接民主主義が現実に機能し、 一人の芸術家も、文化関係者も、孤立した個人という意識ではなく、文化を担い社会に参加し国家を支えているという実感があるからです。フランス人ひとりひとりは個人主義的な、もっと悪く言えばとても利己的で自分勝手に見えますが、いざという時はすかさず一致団結する、、、些か矛盾している様で矛盾しない、この当たりがとても面白い事です。

来年の大統領選挙、私たち文化芸術関係者はぜひ社会党が勝利し文化予算が以前のレベルに戻ってほしいと願っていますが、実際移民問題も深刻ですし、どうなりますか、、、この一年は目が離せません。

フランス便り No.1
芸術家の住み心地             矢吹 誠 (高22回)

日本人が特に親しみを持って見つめている国の一つ、フランス。毎年何万人もの観光客がパリに足を運び、フランス料理、フランス文学、フランス映画、、、今更例を挙げるまでもなくフランスは文化の香り高い国として日本人に愛されています。そんなフランスに住む事になって、はや13年!しかし私の場合、きっかけは南仏ガール県にある大きな竹林。日本を離れても竹音楽の仕事が続けられるかも知れないという微かな希望からの渡仏で、特にフランス文化の香りに誘われて、、、というわけではありませんでした。

それまで私にとってのフランスは、おそらく皆さんと同じ様にフランス文学者やフランス映画評論家などの言説を通して垣間みる、いってみれば針穴写真機を通して左右が逆さまに映し出された様なフランスでした。海の向こうのフランス文化はすばらしいかもしれないが、フランス通たちの訳知り顔や気取った態度に逆に違和感、反発さえ感じていました。「フランスかぶれ」という言葉がありますが、 皮膚の弱いかぶれ易いインテリ文化人の饒舌は要注意です! 確かにあんた達はフランス語が堪能で物知りで、紹介するフランス文化は気高いかもしれないけれど、批評しているお前はフランス人ではなく日本人なんだから、敷居の向こうから無知な日本人に説教を垂れる様な物言いはやめて、敷居のこっちに来て話してくれない?~~~という思いでした。

ですから、これから私がフランスについて、また日本人としてフランスで感じていることをお話しするにつけては、轍は踏むまいと肝に銘じています。実際私はフランス文学、芸術について全くといっていいほど無知ですし、私の仕事である音楽の分野ついても、私の回りで起きていること以外フランス音楽状況一般については何も知りません。私がお話しできるのは、唯一私が実際に見聞きしているフランスの現実、それも庶民の視点からのものだと御断りしておきます。

フランスは日本と同じ「一つの国」、つまりそこには金持ちも居れば貧乏人も居ます。頭の切れる人も居れば、ちょっと鈍い人も居ます。勤勉な人も居れば、怠惰な人も居ます。ただ、その比率が日本とは些か違う?、、、そして残る違いといえば、日本では人々は日本語を話し、フランスでは人々はフランス語を話す、という事ぐらいでしょうか。

さて最初に皆さんにお話ししようと思うのは、フランス社会の住み心地についてです。私が住んでいるのはパリではなくマルセイユという地中海に面したフランス第二の都市。青い海、太陽、そしてワイン、止めどの無い冗談話、、、人々は屈託なく日々の生活を楽しんでいる、そんな土地柄です。しかし今私がお話しようとしているのは、そんな観光ガイド風な住み心地の話ではありません。一芸術家にとってフランスの「文化的住み心地」についてです。 私の音楽活動は、フランスの伝統音楽いわゆる西欧クラシック音楽やその後20世紀に続いた現代音楽、あるいはメディアに乗って流布する商業音楽とも全く畑違いの「竹音楽」です。つまり私はフランスにあっては名も無い一外国人、それも異端音楽家、芸術家に過ぎません。そんな私の立場から見えてくる限定的な、それでいておそらく一般論に通ずる部分もあるだろうと思われる「フランス社会の住み心地」についてこれからお話しします。

私が経験した一つの逸話から話を始めます。

13年前、初めてマルセイユに落ち着いたとき、仕事上のツテは何もはありません。ですから、どんな風に音楽活動を始めたら良いのか全く見当もつきませんでした。しかしただ手を拱いているわけにもいかないので、知り合いのガレージを借りて竹マリンバを作りそれを自宅のアパートでポコポコ練習していました。

ある日、上の階に住んでいる老人と階段ですれ違いざま、老人が私に話しかけてきました。とっさに「しまった、苦情を言われるに違いない!」と身が縮みました。「貴方は音楽家ですか?、、、変わった面白い音がしていますね。仕事はうまく行きそうですか?タイヘンでしょう。、、、私の友人に新聞記者がいますから、記事を書いて貰えば何かのお役に立つかと思いますが、、、」数日後、件の新聞記者が訪れ、南仏大手地方紙のいわゆる「人」の欄に竹マリンバを叩いている私の写真が掲載されました。それは「Makoto YABUKIは音楽家、竹とトランクを手にマルセイユにやって来た。果たしてマルセイユの音楽シーンは豊かになるか、、、」という見出しでした。

そして、次は7年前の話です。マルセイユ市長ジャン・クロード・ゴダン氏がマルセイユの芸術家80人を招いて晩餐会を開きました。貴賓は彼の親しいジャック・シラク大統領。実はその前年、市を挙げての大きなお祭りの出し物の一部を私が担当したという経緯があって、 たまたま偶然私も晩餐会の光栄に預かったのです。---事の詳細はマルセイユ通信1999年11月号に目を通して頂くとして---フランスでは市長が訪れた大統領を歓待するのに、 経済界の有力者達ではなく街の芸術家達を招く、というこの事実です。それもゴダン氏は社会党ではなくシラク大統領と近しい、つまり保守党の市長なのです!

〔注〕 マルセイユ通信1999年11月号
http://www.world-bamboo.com/jp/Marseille.cfm?MarseilleID=13

また昨年、恒例の市主催の春のカーニバルで、私は子供たちの「竹の子合奏団」を率いて街頭での練り歩きに参加していました。道の途中のひな壇の上で身を乗り出して盛んに私に向かって手を振っている人がいます。誰だろうと思ってよく見れば、何とゴダン市長ではありませんか!私は一寸ばつの悪い思いでしたが、ひな壇に駆け寄って挨拶し握手しました。シラク大統領との晩餐会以来、マルセイユに住んでいる名もない一外国人音楽家の事を彼ははっきり覚えているのです。 市長が私を知っているからといって何の役得があるわけでもありません。ただ、 市長であり中央内閣の大臣まで勤めている政治家が人々に気さくに対応する、そんなフランスの雰囲気ってとても人間的でうれしいじゃありませんか?

もう一つ、先日8月中旬、プロヴァンス・リュブロン地方のフェスティバルに招待されて演奏しました。私たちのグループをプログラムに推薦してくれたのは何と昨年まで県の文化担当官だったJ・F・ユーロン氏、現在はフェスティバルを陰で手伝っているのだそうです。 県の役人だった人が、定年退職したその翌年にはオーガナイザーとして働いている、それもボランティアで、、、。

以上、二三の例を引き合いに出す事で、フランスでの芸術家の「住み心地」の一端をご理解いただけるのではないかと思います。私は確かに運が良い方なのかもしれません。しかし文化・芸術に対する姿勢は、市井の一般人から、役人そして大統領にいたるまで一貫しています。文化助成金を配分する市や県の文化担当官達は芸術の動向を逐一知っています。彼等と芸術について議論をする事ができるのです。もちろん自らまめに足を運び見聞きしているからでしょうが、そういう人達だからこそ文化担当官を勤められるとも言えるのです。

「住み心地」にはいろんなレベル、条件があるでしょう。物質的な、あるいは精神的な条件。私たち芸術家にとってまず大切なのは精神的な住み心地です。なぜなら私たちは人間の精神に関わる仕事をしているからで、大雑把にいえば感動を作り出しその感動を人々と共有するのが私たちの仕事だと言えます。現在、自分は「音楽家」であり「芸術家」だと臆面もなく言えます。つまり、フランス社会では芸術家とは決して特殊な存在ではなく、パン屋や左官屋と同じ様に一つの職業で、社会の中で一定の地位を与えられています。そんな私たち「芸術家」にとって何よりも健康な精神状態とは、社会が芸術を必要とし、人々が私たち芸術家を尊重し、そしてこちら側からすれば、私たちの創作活動が人々に期待されているという感触、充実感です。それは一隣人の対応から始まって、社会的な地位、生活保障、そして優れた企画に対して助成金が拠出される可能性など、、、様々なレベルがあるのですが、まず大切なのは人々の目、思い、心根です。社会が私たちを必要としていないのだとしたら、創作意欲など湧くでしょうか?

芸術家にとっての「住み心地の条件」には、一方では社会制度、物質的経済的な保障があります。例えばフランスでは、コンサートや演劇の入場料は格安です。スターのコンサートや大々的なオペラ作品以外は日本円にして2000円位が限度です。 そんな格安でどうやって芸術家達は食べていけるのだろうか?とお思いでしょうが、それは芸術家の生活を保障する制度があるからです。また、芸術作品を鑑賞するのは一般の人たちですから、財布の紐を気にしていては芸術鑑賞などできないという考えで、誰もが気軽に楽しめる様に低価格に押さえられているのです。その分、劇場やプロデューサーには助成金が支払われ採算が取れる構造、つまり人々の支払う税金の一部が確実に文化芸術活動に使われているという事なのです。

芸術家にとっての「制度的、物質的なフランスの住み心地」については、次回詳しくお話ししましょう。