人生お楽しみ中!とはまさに今の私の人生だ、、、一年前そう思ってこの原稿をお引き受けしたのでした。ところが人生はままならぬもので、元気だった妻が突然「自律神経失調症」というわけのわからぬ病に取り付かれてしまいました。
このため私は一切の旅行と外出を取りやめ、生活の大半を妻のそばで過ごす介護生活に切り替えることになったのでした。
これまでは、妻は犬猫の世話やガーデニング、週末に訪れる娘や孫たちとの交流を楽しみとし、私は国内外の旅に出て、スケッチや囲碁交流を楽しむ、充実したシニアライフだと自負していたのです。そしてこの話をご紹介しようと思っていたのです。
ことの始まりは21世紀の幕開けからにしましょう。 これまでの約40年に亘る航空会社でのサラリーマン人生を終え、3人の子供たちも皆独立、そこで好奇心と生来の野次馬根性で応募したJIC AのSV(シニアボランティア)が当たってしまい、北タイの山岳民族自立支援活動に飛び込むことになったのでした。
配属先はタイ政府労働省山岳民族福祉局、本部は北タイのチェンマイという古都でした。 着任した12月はタイでは乾季が始まったばかりで、これから3月までは事務所のスタッフたちはフィールドワークの時期でタイ国内の主だった山岳地域へキャラバン活動のため散ってゆきます。 当時この分野では、日本から海外青年協力隊員10数名とSV5名が派遣されており、青年たちは各主要部落に配属され、村の人々と生活を共にしていました。私たちシニアは本部に属して、各部落を回り問題点をまとめ、対策を検討します。
当面の最大の問題は貧困との闘い、一家族の平均年収は一般タイ人の10分の1の3万円弱程度で、このためおこる子女の人身売買や、麻薬、エイズ対策でした。 青年協力隊の皆さんは、医療、学校教育、手工芸、農業、等々の専門家たちで本当に素敵な仲間たちでした。 タイの正月は猛暑の4月、ソンクラーンの水掛祭りが過ぎると雨季に入り山道がぬかるんで危険なので私たちSVの活動はもっぱらチェンマイのオフィスでデスクワークやら研修会の準備が多くなり、時間や生活にゆとりが出てきます。この間に私はタイ語の学校へ通ったり、早朝ゴルフ、日本人会活動に顔を出したり、週末は孤児院訪問をして日本語教育の手伝いをしたりしました。
2003年末、2年間の任期終了の頃には私はタイの魅力にすっかりとりつかれていました。在任中に日本政府の草の根無償援助資金で山岳民族の研修センター、宿舎等の建設に奔走し実現したのが自信になったことやタイ語が何とか通じるようになったことなどもありますが、なんといってもタイ人の優しさ、ホスピタリティと食べ物の魅力、物価の安さ、自然の美しさは心の癒しになりました。 というわけで、それからは毎年、冬になると北タイへ出かけ2,3ヶ月滞在するパターンが続きました。翌2004年末のスマトラ沖災害で西南部海岸が津波に襲われたときは、現地調査団に加わって、被災者の聞き取り調査や被災地の視察をしましたがあまりの惨たらしさに、愕然としました。
2007年は日タイ修好120周年で、記念行事実行委員会のメンバーになって何か一役という時、囲碁の親善試合を提案しました。チェンマイ総領事初め委員会は私に一任することになったのが、寅さん人生への深みに足を踏み入れる契機となったのでした。
囲碁は平安時代の頃には既に日本に伝わり、宮廷で流行ったのが武士社会になり江戸幕府の手厚い保護もあって日本独特の文化として発展しました。中国、韓国と並び世界のトップクラスであるのに対し、タイは普及活動がまだ10数年に過ぎず、横綱と幕下の相撲にもならないかと思われていたのが、その前年、チェンマイの市民大会へ招待され認識を変えました。数百人の参加者は主として学生と若者でトップクラスは高段者も少なくなかったのです。
ところで私はタイでの任期を終えた翌年から、友人の勧めで毎年夏の2週間、ヨーロッパ囲碁コングレスに参加するようになり多くの同好者やプロ棋士先生たちと親しくなっていました。この話をすると「チェンマイ?いいね、行きましょう!」と、とんとん拍子で話が進み、プロ棋士からはスポンサー企業の紹介も受け、現地の日本人ロングステイヤー達の協力も得て2007年の修交記念親善試合は300人ほどの参加者を得て盛会裏に終了しました。 日本からの参加者たちから「今後毎年、花の咲き乱れる1月のチェンマイで、タイの若者たちとの友好大会をしましょう」そして更には「アジアの人たちも呼ぼうよ」という話も出てきました。2013年1月は第7回が計画されています。
ヨーロッパ囲碁コングレスで常連になって以来各国の選手たちと顔見知りになり、特にお隣の国韓国の人たちとはいろいろな縁ができてまいりました。祭りごとの好きなお国柄なんでしょうか、「世界ビジネスマンコングレス」とか「ユニバーシティOB,OGコングレス」とかいろいろあるようです。私は「世界シニア囲碁大会」に第2回目の大会から招待されるようになり、全羅南道の唐津という町へ毎年11月に参加するようになりました。60歳以上のシニア世代は勝敗よりも友好優先というのが楽しく、新鮮な海鮮料理とお酒が美味しいのです。
2011年11月、紅葉のソウル風景を心ゆくまでスケッチし「マッコリ酒場」をはしごした日々を過ごしたあと、朴さんの車で唐津へと南下、途中、太田、全州に立ち寄り、光州の親戚の家で一泊後会場に着く。大会終了後は日本から来た選手3人を釜山の金さんが車で観光を兼ねて起伏に富んだ南海岸線の風光明媚な景色や韓屋民族村を案内。釜山の金さん宅で一泊後気分上々で成田の家へ到着しました。
そしてそこで、妻がパニック状態になって苦しんでいたことを知ったのです。
それから1年有余、私は外国への旅はすべて取りやめました。東京での会合や碁会、展覧会、音楽会などへのお誘いも辞退することにしました。精神不安と時として起こるパニック障害に苦しむことのないよう、そばにいて見守ることにしました。毎朝6時前に起床、テレビ体操を済ませた後近くの公園を散歩するのが、一日の始まりです。ときどき病院や買い物に出かけるのは良い気分転換になります。妻は今、毎日薬を朝昼晩合わせて25錠ほど飲みます。時として副作用で苦しむことがあり、副作用のない漢方薬への転換はできぬものかと思ったりしますが、そう簡単なものではなさそうです。
結婚して44年間、二人にとってこれほど濃密な時間を共有したことはありませんでした。今まで見えなかったり、知らなかったり、気づかなかったことがみえてきたり、、、 何気ない立ち居振る舞いやさりげない表情の中に優しさとか女らしさを発見することもありました。
人生の楽しみ、、動もいいが、静もまたそれなりに味わいのあるものなのですね。
「私の病気が治ったら、今度は猫よりあなた優先で、どこへでも一緒についていきます」という古希に近い妻が少女のように見えるのでした。
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